↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未登録の魔法少女  作者: 浅川


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
247/388

第二百四十七話

 変身が解けなくなって、二十二日目。


 解析は、完全に行き詰まっていた。


 星監の技術班は、装置の残骸から術式の断片を復元することに成功した。

 だが、それは全体の三割にも満たない。残りの七割——最も重要な、解除経路の切断に関わる部分は、自壊によって完全に消し飛んでいた。

 焼け焦げた基板の上に残っているのは、意味をなさない符号の切れ端ばかりである。どれほど高性能な解析機にかけても、失われた部分を推測で埋めることはできなかった。

 由鶴と凛花が突き止めた協会の技術顧問についても、状況は芳しくなかった。

 その人物は、廃工場の一件の直後から行方をくらませている。自宅も、協会内の執務室も、もぬけの殻だった。

 机の引き出しには、私物の一つも残されていなかったという。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。

 福音の鐘が全国の信徒を動員して追跡しているが、痕跡すら掴めていない。

 そして——零の変身が解けなくなってから、三週間が過ぎた。


 その日の夕方。


 零は、洋館の裏手にある小さな庭に立っていた。

 かつては手入れされていたであろうその庭は、長い放置の末に半ば野に還っている。

 枯れた薔薇の茂み。倒れかけた木製のベンチ。石畳の隙間から伸びた雑草。

 錆びついた鉄のアーチには、冬枯れの蔓が絡みついたままになっていた。

 この三週間で、零はここを少しずつ整えていた。

 他にやることがなかったからだ。

 雑草を抜き、枯れ枝を払い、石畳の苔を削る。

 手を動かしている間だけは、鏡の中の少女のことも、戻れない家のことも、考えずに済んだ。

 冬の夕暮れの中、彼は落ち葉を掃き集めていた。

 竹箒が石畳を擦る、乾いた音。山の冷気が、首筋をゆっくりと撫でていく。


 その手が、ふと止まった。


(……なに)


 零の背筋に、鋭い悪寒が走った。

 最強の死神としての直感。数え切れない死線をくぐり抜けてきた者だけが持つ、危険の察知。

 だが、魔力の反応はない。

 いや——正確には、あまりにも希薄すぎて、感知しきれないのだ。


 まるで、空気そのものが薄く引き伸ばされているような。

 庭の空間に、誰かが最初からそこにいたかのような——

 鳥の声が、いつの間にか途絶えていた。


「——動かないで」


 その声は、零の真後ろから聞こえた。

 零は、咄嗟に振り返ろうとして——できなかった。

 首筋に、冷たいものが押し当てられている。

 刃だ。

 皮膚一枚。ほんの僅かでも身じろぎすれば、そのまま喉を裂かれる距離。

 竹箒の柄を握る指先に、じわりと力が籠もった。


(……いつから)


 零の背中を、冷や汗が伝う。


(この距離まで、気配を感じなかった)


 十一年間、一度もなかったことだ。

 どんな暗殺者も、どんな魔獣も、ここまで接近される前に必ず察知してきた。


「三神零さん。……で、間違いありませんね」


 その声は、若い女性のものだった。

 抑揚が乏しく、感情の色がほとんど乗っていない。

 零の呼吸が、完全に止まった。


(……今、なんて)


 ゴーストではなく、三神零。

 この姿の自分を、その名で呼んだ者は——緋雪以外に、一人もいない。


「返事は結構です。確認は済んでいますので」


 女性は、淡々と続けた。


「わたくしは、夕日紅と申します。……皇太子殿下直属、特務魔法少女部隊『叢雲』所属」


 零は、必死に思考を巡らせた。


(叢雲……? そんな部隊、聞いたことがない)


 協会にも、白百合にも、そのような名称の部隊は存在しない。

 政府の隠密でもない。あれは御子柴の事件で完全に解体されている。


(それに、皇太子殿下直属?)


 あまりにも突飛な単語が並びすぎて、現実感が伴わなかった。

 ニュースの中でしか見たことのない存在が、なぜ今、この荒れた庭に繋がってくるのか。


「……何のご用かしら」


 零は、努めて平静を装った。


 首筋に刃を突きつけられたまま、それでも彼女はゴーストとしての威厳を崩さなかった。

 声は震えていない。少なくとも、そう聞こえるように喉を締めた。


「用件は、一つだけです」


 夕日紅は、静かに答えた。


「あなたが元の姿に戻る方法について、お話があります」


 その言葉に、零の思考が凍りついた。


(……戻る、方法)


 この三週間、誰も見つけられなかったもの。

 星監の技術班も、福音の浄化術者も、緋雪も、由鶴も。

 誰一人として、糸口すら掴めていない、その答え。

 喉の奥から、何かがせり上がってくる。

 希望と呼ぶには生々しすぎる、飢えにも似た感情だった。


「……どういうこと」


「言葉の通りです」


 夕日紅は、淡々と続けた。


「殿下は、あなたの現状をご存知です。そして、それを解決する手段をお持ちです」


「……なぜ、私の現状を」


「それも含めて、殿下から直接お聞きください」


 その時。


「——ゴーストから離れなさい!」


 庭の入り口から、鋭い声が響いた。


 羽衣緋雪。

 夕食の材料を抱えたまま、彼女は氷の太刀を生成していた。

 足元に落ちた紙袋から、玉ねぎが一つ、石畳の上を転がっていく。

 だが、彼女はそれに一瞥もくれなかった。


「……お邪魔ですね」


 夕日紅は、静かに呟いた。


 そして、零の首から刃を離し、音もなく後方へと跳躍した。

 零は、ようやく振り返った。

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 零や緋雪と、そう変わらない年齢に見える。


 膝丈の、濃紺を基調とした戦闘服。装飾は最小限で、機能性のみを追求した意匠。

 肩の下で切り揃えられた、燃えるような赤い髪。

 そして——感情の一切読み取れない、深い琥珀色の瞳。


 手にしているのは、緩やかに反った一振りの刀だった。

 刀身は、まるで陽炎のように輪郭が揺らいでいる。

 目を凝らしても、刃の在り処が定まらない。

 見つめるほどに、そこに刀があるのかどうかさえ曖昧になっていく。


「白百合の盾、羽衣緋雪さん」


 夕日紅は、静かに告げた。


「わたくしは、交戦の意思を持ちません。用件が済めば、速やかに撤収します」


「首に刃を突きつけておいて、交戦の意思がないですって?」


 緋雪の周囲に、冷気が渦を巻き始めた。


 足元の落ち葉が白く霜を帯び、吐く息が一瞬で凍りつく。

 洋館の窓ガラスに、ぴしり、と細い氷の筋が走った。


「……離れて」


「ですから、離れております」


「そういう問題じゃないわ!」


 緋雪が、地を蹴った。


 神速の踏み込み。

 彼女がこれまで数え切れないほど繰り返してきた、絶対の間合いの詰め方である。

 特級魔獣の首を、何度も一太刀で落としてきた踏み込みだった。


 氷の太刀が、真横に閃く。

 それは、夕日紅の首元へと——


「遅いです」


 零の目が、何も捉えられなかった。

 次の瞬間。


 ——ガキィィンッ!


 緋雪の氷の太刀が、根元から砕け散っていた。


「……え」


 緋雪は、自分の手元を呆然と見つめた。

 武器が、ない。

 いや——正確には、太刀の柄だけが残っていた。

 刀身は、根元から綺麗に切断されている。


 断面は、鏡のように滑らかだった。

 力任せに叩き割られたのではない。最初からそこで分かたれていたかのように、美しく切り離されている。


「——っ!」


 緋雪は、咄嗟に新たな氷を生成しようとした。

 だが、その前に。

 彼女の首筋に、陽炎の刀が添えられていた。


「……っ」


 緋雪の身体が、完全に硬直する。


(……見えなかった)


 彼女の背筋を、氷のような戦慄が這い上がった。


(動きが、まったく見えなかった)


 白百合の盾のトップエース。氷の頂点。

 その彼女が、初動から終了まで——何一つ、反応できなかった。


 ゴーストと刃を交えた時でさえ、少なくとも剣筋は見えていた。

 だが、この少女の刃には、始まりも終わりもなかった。


「言ったはずです。交戦の意思はない、と」


 夕日紅は、淡々と告げた。


「ですが、こちらの進行を妨げるのであれば、相応の対応を取ります」


「……あなた」


 緋雪は、震える声で問うた。


「何者なの」


「『叢雲』所属、夕日紅」


 彼女は、静かに繰り返した。


「それ以上のことは、申し上げられません」


「——そこまでよ」


 その時。


 庭全体に、圧倒的な重圧がのしかかった。

 冬の空気が軋み、枯れ葉が地面に叩きつけられる。

 石畳にひびが走り、倒れかけたベンチが粉々に砕けた。

 錆びたアーチが悲鳴のような音を立ててしなり、絡みついていた枯れ蔓がはらはらと千切れ落ちる。


「……ほう」


 夕日紅の瞳が、僅かに細められた。

 初めて、その琥珀色の奥に、何かが灯ったように見えた。

 彼女は、緋雪の首から刀を離し、ゆっくりと後退した。

 零は、静かに歩み出た。

 その全身から、闇色の魔力が立ち上っている。

 私服姿のまま。束ねられた黒髪を夜風に揺らしながら。

 白いブラウスの袖口から、黒い靄のような魔力が絶え間なく溢れ出している。

 だが、そこにいるのは紛れもなく——最強の死神だった。


「……緋雪さんに、刃を向けたわね」


 その声は、静かだった。

 だが、その静けさが、何よりも恐ろしかった。


「……それは、私の逆鱗に触れる行為よ」


 夕日紅は、しばらく無言で零を見つめていた。

 庭を満たす重圧の中で、彼女だけが平然と立っている。

 膝も折らず、呼吸も乱さず。ただ、その足元の石畳だけが、じわじわと沈み込んでいた。


 そして、静かに——刀を鞘へと納めた。


「……申し訳ありません」


 彼女は、深く頭を下げた。


「わたくしの判断が、軽率でした。……ご不快な思いをさせたことを、お詫びいたします」


「……」


「ですが、これだけは申し上げます」


 夕日紅は、顔を上げた。


「わたくしは、あなた方に危害を加えるために来たのではありません」


 零は、しばらく彼女を見つめていた。

 その目には、確かに敵意がない。

 あるのは、ただ任務を遂行しようとする冷徹な意志だけだった。


(……この子、本気で戦う気がなかったのか)


 そして、それでいて緋雪を一瞬で無力化した。


(……本気を出していたら、どうなっていた)


 考えたくもない問いだった。

 零は、静かに魔力を収めた。

 庭を押し潰していた重圧が、潮が引くように消えていく。

 止まっていた鳥の声が、遠くの梢で一つ、また一つと戻ってきた。


「……緋雪さん。大丈夫?」


「……ええ」


 緋雪は、青ざめた顔で頷いた。


「怪我はないわ。……ただ」


 彼女は、砕け散った氷の太刀の柄を握りしめた。

 指先が白くなるほど、強く。


「……何もできなかった」


 その声は、ひどく小さかった。

 零を守るために、この三週間を費やしてきた。その自負が、たった一太刀で切り落とされたのだ。


「話を、聞かせてもらえるかしら」


 零は、夕日紅へと向き直った。


「あなたは、私が元に戻る方法を知っていると言ったわね」


「はい」


「それを、なぜ私に教えるの」


「殿下のご意向です」


 夕日紅は、淡々と答えた。


「詳細については、わたくしの権限では説明できません。……ですが、一つだけ申し上げられることがあります」


「……なにかしら」


「あなたが今置かれている状況の原因は、皇室にも一端の責任があります」


 その言葉に、零と緋雪は同時に息を呑んだ。


「……どういう意味」


「あの装置の技術的基盤は、旧国防委員会が開発した『ダインスレイブ』です」


 夕日紅は、静かに続けた。


「そして、ダインスレイブの原型技術は——十一年前の『厄災』の折、皇室の要請によって研究が開始されたものです」


「……っ」


「当時の目的は、暴走した魔法少女を無力化するための、非殺傷手段の確立でした。ですが、その研究は後に国防委員会へと移管され、まったく別の兵器へと変質した」


 彼女は、僅かに目を伏せた。


「殿下は、それを『皇室の不作為が生んだ罪』とお考えです」


 零は、しばらく言葉を失っていた。


(……十一年前)


 凛音が死んだ、あの『厄災』。

 自分がゴーストになった、あの日。

 燃える街。雨の匂い。自分を庇って倒れた、白銀の髪の背中。

 そこから始まった技術が、巡り巡って——今、自分を縛っている。

 隠密たちの首に刻まれた呪符も、奈緒の首を縛っていた術式も、そして自分の変身を閉ざしたあの装置も。

 すべてが、同じ一つの根から伸びていたのだ。


「……皇太子殿下は、何を望んでおられるの」


 零は、静かに問うた。


「面会を」


 夕日紅は、即答した。


「殿下は、あなたと直接お話しすることを望んでおられます」


「……罠の可能性は」


 緋雪が、警戒を解かぬまま問うた。

 新たに生成した氷の短刀を、背中に隠すように握っている。


「ないとは申し上げません」


 夕日紅は、正直に答えた。


「わたくしの言葉を裏付けるものは、何一つございません。……信じるかどうかは、あなた方の判断です」


「随分と不誠実な誘い方ね」


「誠実であろうとすれば、こう答えるしかないのです」


 彼女は、静かに続けた。


「ただし、一つだけ申し上げます。……もし殿下があなたを害するおつもりなら、この三週間、いくらでも機会はございました」


 その言葉に、零の背筋が凍った。


「……私の居場所を、知っていたの」


「はい。当初から」


 夕日紅は、あっさりと認めた。


「この洋館の結界は、確かに優秀です。魔力探知では捕捉できません。……ですが、『叢雲』の索敵は、魔力に依存しておりませんので」


「……っ」


「福音の鐘が八百名を動員しても見つけられなかった理由は、そこにあります。彼らは、魔力とネットワークに頼りすぎている」


 零は、背後の洋館を振り返った。


 この三週間、ここは唯一の安全な場所だった。

 誰の目も届かない、自分と緋雪だけの隠れ家だと信じていた。


 その壁が、最初から紙のように薄かったのだとしたら。

 零は、しばらく沈黙していた。

 そして、静かに問うた。


「……もう一つ、聞かせて」


「はい」


「あなたは、私が誰なのか知っているの」


 その問いに、夕日紅の表情が——初めて、僅かに動いた。


「……三神零さん。十六歳。高校二年生」


 彼女は、淡々と答えた。


「母君は三神奈々美さん。姉君は三神澪さん、妹君は三神玲奈さん。……そして、通称『ゴースト』」


 零の心臓が、跳ねた。


 十一年間、守り続けてきた秘密。

 それが、見知らぬ少女の口から、まるで履歴書を読み上げるような調子で並べられていく。


「……全部、知ってるのね」


「はい」


「なぜ、公表しない」


「殿下が、そう望んでおられないからです」


 夕日紅は、懐から一枚のカードを取り出した。

 漆黒の台紙に、菊花を模した紋章が箔押しされている。

 それ以外に、文字は一切ない。

 夕闇の中で、金の菊花だけが、ぼんやりと光を返していた。


「……三日後の深夜、迎えを寄越します」


 彼女は、それを零へと差し出した。


「場所は、この洋館の正門前。……お受けになるかどうかは、あなたの自由です」


 零は、しばらくそのカードを見つめていた。

 指先に触れた台紙は、驚くほど厚く、ひやりと冷たかった。

 そして、静かに受け取った。


「……考えさせてもらうわ」


「結構です」


 夕日紅は、静かに一礼した。

 そして、踵を返し——庭の闇の中へと歩み去っていく。

 零も、緋雪も、その姿を目で追った。


 だが。


 彼女の姿は、数歩進んだところで——忽然と消えた。

 影移動でもない。転移でもない。

 魔力の残滓すら、そこには残っていなかった。

 ただ、そこにいたはずの存在が、最初からいなかったかのように、風景に溶けていったのだ。


「……なによ、あれ」


 緋雪が、掠れた声で呟いた。

 二人は、しばらく庭に立ち尽くしていた。

 冬の夜風が、枯れた薔薇の茂みを揺らしている。

 粉々になったベンチの残骸と、ひび割れた石畳。

 零が三週間かけて整えてきた庭は、ほんの数分で見る影もなくなっていた。


「……零くん」


「うん」


「どうするつもり?」


 緋雪の声には、隠しきれない不安があった。


「罠かもしれないわ。……いえ、罠である可能性の方が高い」


「……そうね」


 零は、手の中のカードを見つめた。


「でも、緋雪さん」


「……なに」


「他に、手がないの」


 その言葉に、緋雪は何も言えなかった。

 三週間。


 星監も、福音も、白百合も。誰一人として、解決の糸口を掴めていない。

 協会の技術顧問は失踪し、装置の術式は復元不可能。


 そして——零は、日に日に「ゴースト」へと馴染んでいる。


 口調も、仕草も、思考すらも。

 このまま待ち続ければ、戻る方法が見つかる前に、戻りたいと思う心の方が先に擦り切れてしまうかもしれない。

 それを一番恐れているのは、他でもない零自身だった。


「……行くわ」


 零は、静かに告げた。


「三日後。……その皇太子殿下とやらに、会いに行く」


 緋雪は、しばらく俯いていた。

 砕けた太刀の柄を、まだ手放せずにいる。

 やがて、彼女は静かに顔を上げた。


「……私も行くわ」


「緋雪さん」


「約束したでしょう」


 彼女は、まっすぐに零を見つめた。


「一人で決めない、って。……あの日、指切りしたじゃない」


 零は、しばらくその目を見つめていた。

 あの日、差し出された小指の細さを、今も覚えている。

 子供っぽいと思うかもしれないけど、こういうのは形が大事なの——そう言って、少しだけ照れていた顔も。

 そして、静かに微笑んだ。


「……そうね。約束したわ」


 足元に転がっていた玉ねぎを、零は拾い上げた。

 土を払い、紙袋へと戻す。


「……とりあえず、夕飯にしましょう」


「……ええ」


 緋雪は、ようやく小さく笑った。


 その夜。

 洋館の窓から漏れる明かりを、遠くの尾根から見つめる影があった。

 夕日紅である。

 冬の月が、赤い髪を冷たく照らしている。

 彼女は、無表情のまま懐から通信端末を取り出した。


「——接触、完了いたしました」


『……どうだった』


 端末の向こうから、若い男性の声が響く。


「対象は、カードを受け取りました。……おそらく、来られるかと」


『そうか』


 男の声には、安堵が滲んでいた。


『……無礼なことはしていないだろうな』


「……申し訳ありません。同行者の方と、一戦交えました」


『紅』


「……以後、気をつけます」


 通信の向こうで、短い沈黙が落ちた。

 叱責とも呆れともつかない、長い溜息だった。


『まあいい。……それより、彼女の様子はどうだった』


 夕日紅は、しばらく答えなかった。

 眼下の洋館の窓に、二つの影が映っている。

 食卓を挟んで、向かい合っているのだろう。

 やがて、静かに口を開いた。


「……庭の落ち葉を、掃いておられました」


『落ち葉?』


「はい。……国家に敵と呼ばれ、変身が解けず、家にも帰れない。そのような状況で」


 彼女の声に、初めて微かな感情が滲んだ。


「あの方は、荒れた庭を、少しずつ整えておられました」


 通信の向こうで、男が深く息を吐いた。


『……そうか』


 その声は、静かだった。


『やはり、会わねばならんな』


 彼は、そう呟いた。


『三日後だ。……最大限の礼をもって、お迎えしろ』


「……かしこまりました」


 通信が切れる。

 夕日紅は、しばらく端末を握ったまま、洋館の明かりを見下ろしていた。

 やがて、その姿は、尾根の闇に溶けるように消えた。


 冬の夜空の下。

 一つの巨大な歯車が、静かに回り始めようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。