第二百四十六話
変身が解けなくなって、二十日目。
その日、周防凛花は隣県にいた。
協会の業務で、地方支部に保管されていた資料を受け取りに来ていたのである。
本来であれば下級職員が担当する仕事だ。だが、凛花は自らその役を買って出た。
受け取る資料の中身が——技術開発部門の、古い開発記録だったからだ。
本部のサーバーからは削除され、紙の原本だけが地方の書庫に眠っていた記録。由鶴に渡すべきものが、そこにあった。
自分で運ぶ以外に、方法はなかった。
用件を終えたのは、午後三時過ぎだった。
鞄の底に沈めたファイルの重みを、凛花は何度も確かめていた。
書庫の担当者は、協会のトップエースが直々に来たことに恐縮するばかりで、中身を改めようともしなかった。
帰りの電車まで、まだ一時間近くある。
凛花は、駅前のロータリーで立ち止まり、周囲を見渡した。
見慣れない街並み。地方都市特有の、少しだけ時間の流れが緩やかな空気。
バスを待つ老人が、ベンチで居眠りをしている。風に乗って、どこかの焼き芋屋の匂いが流れてきた。
ふと、通りの向こうに大型スーパーの看板が見えた。
(……夕飯の買い物でも、していこうかな)
協会の寮に戻っても、待っているのは電子レンジと冷凍食品だけである。
姉が生きていた頃は、二人で買い物に行くのが日課だった。あの頃の癖が、今もときどき顔を出す。
小さな手を引かれて、野菜売り場を歩いた記憶。
白銀のポニーテールが、目の前で揺れていた。
凛花は、なんとなくその店へと足を向けた。
店内は、夕方の混雑が始まる直前の、緩やかな賑わいに包まれていた。
主婦たちが野菜を吟味し、店員が特売の札を貼り替えている。
どこにでもある、平凡な光景だった。
凛花は、カゴを手に取って青果コーナーへと向かった。
そして——足を止めた。
通路の先。
根菜の棚の前に、一人の少女が立っていた。
白いブラウスに、デニムのロングスカート。その上から、薄手のベージュのコートを羽織っている。
背中まで伸びた黒髪は、低い位置で一つに束ねられていた。
どこにでもいる、買い物中の女性の姿。
だが——凛花は、その横顔を見た瞬間、呼吸が完全に止まった。
(……嘘)
彼女は、咄嗟に商品棚の陰に身を隠した。
心臓が、痛いほど跳ねている。
(ゴースト……!? なんで、こんなところに)
服装は、まったく違う。あの豪奢なゴシックドレスの面影すらない。
だが、あの顔を、あの髪の色を、凛花は忘れるはずがなかった。
廃工場で、至近距離から見つめ合ったのだ。
(間違いない。……あの人だ)
意識を研ぎ澄ませば、分かる。
穏やかな買い物客の皮膚の下で、深い湖の底のような魔力が静かに息づいている。
凛花は、棚の隙間から様子を窺った。
少女は、ごぼうを一本手に取り、指先で表面を確かめていた。
そして、僅かに首を傾げ、それを戻す。
次に、別の一本を取る。今度は、納得したように頷いてカゴへ入れた。
(……何してるの、あの人)
凛花の頭の中が、真っ白になった。
世論では、街を破壊する危険なテロリストとされている存在。
協会が討伐令を出し、政府が最重要指定した相手。
それが今、スーパーの青果コーナーで、ごぼうの品定めをしている。
しかも——普通の私服で。
(……そういうことか)
凛花は、ようやく気づいた。
(あのドレスは、変身した時の姿。……普段は、こうして服を着替えてるんだ)
考えてみれば、当然のことだった。
あの目立つ衣装で街を歩けば、五分と経たずに通報される。
(でも、だからって)
凛花は、棚の陰で頭を抱えた。
(なんで買い物なの。……なんで、こんなに馴染んでるの)
凛花は、光の剣を呼び出そうとして——手を止めた。
掌に集まりかけた光の粒子が、ふっと霧散する。
(……待って)
彼女は、深く息を吸い込んだ。
(ここで戦えば、店内の人たちが巻き込まれる)
周囲を見渡す。
主婦、老人、子供連れ。少なく見積もっても、五十人はいるだろう。
カートに乗った幼児が、菓子売り場の方を指差して何かをねだっている。
それに——
(あの人は、廃工場で誰も殺さなかった)
凛花の脳裏に、あの夜の光景が蘇る。
協会のエース三人を無力化した奈緒を、闇の魔力で押さえ込んだ姿。
そして、その少女に名前を与えた時の、驚くほど優しい声。
『……約束したわね。次に会えたら、あなたに名前をあげるって』
凛花は、カゴを持ったまま、じっとその様子を観察し続けた。
ゴーストは、青果コーナーを離れ、精肉コーナーへと移動していく。
鶏もも肉のパックを二つ手に取り、パッケージの裏を確認している。
おそらく、産地か消費期限を見ているのだろう。
その仕草は、あまりにも——日常的だった。
迷いがない。慣れている。
昨日も、一昨日も、同じようにこの棚の前に立っていたのだと、見ているだけで分かる。
(……何なの、これ)
凛花は、混乱の極みにあった。
(あの人は、何がしたいの。何のために、こんなところで買い物を)
その時。
店内アナウンスが流れた。
『——本日、午後四時より鮮魚コーナーにて、刺身の盛り合わせを半額でご提供いたします』
その瞬間。
ゴーストの動きが、明らかに変わった。
彼女は、腕時計を確認するような仕草を見せ——実際には時計などしていないのだが——そして、迷いのない足取りで鮮魚コーナーへと向かい始めた。
背筋が伸び、歩幅が僅かに広がる。
廃工場で瓦礫の頂に立った時と、どこか似た気迫だった。
(……え?)
凛花は、思わず目を丸くした。
(今、完全に反応したよね。……半額に)
鮮魚コーナーの前には、すでに数人の主婦が集まり始めていた。
ゴーストは、その列の最後尾に、ごく自然に並んだ。
誰も、彼女を気にしていなかった。
当然である。今の彼女は、ただの買い物客にしか見えないのだから。
「あら、今日も来てるのね」
「そうねぇ。この子、いつも四時前に来るのよ」
主婦たちが、親しげに囁き合っている。
「ねえ、あなた。今日は何を作るの?」
一人の中年女性が、気軽にゴーストに話しかけた。
凛花は、思わず息を呑んだ。
(え、話しかけるの!?)
「……筑前煮を、と思っていたのですけれど」
ゴーストが、静かに答えた。
「刺身が半額なら、そちらも買おうかと」
「あら、いいわねぇ。今日の鮪、脂がのってていいわよ」
「そうなんですか」
「そうよ。……あ、でも鯛はやめときなさい。今日のは、ちょっと目が濁ってるから」
「……ありがとうございます。参考になります」
ゴーストは、丁寧に頭を下げた。
凛花は、棚の陰で完全に固まっていた。
(……なにこれ)
彼女の脳内で、世界が音を立てて崩れていく。
最強の死神。裏社会の頂点。国家の敵。
その存在が、スーパーの主婦と鯛の鮮度について語り合っている。
(……いや、待って。待って)
凛花は、必死に思考を整理しようとした。
(そもそも、なんで買い物をしてるの。裏社会のトップなんだから、部下に買わせればいいじゃない)
その疑問は、ごく自然なものだった。
福音の鐘も星監も、彼女のためなら何でもする組織である。
食材が必要なら、一言告げるだけで最高級品が届くはずだ。
(それをしないってことは……誰にも知られたくない、ってこと?)
凛花は、なおも観察を続けた。
ゴーストは、刺身の盛り合わせを二パック手に取り、カゴへ入れた。
(……二パック)
凛花の目が、細くなった。
(一人分じゃない)
彼女は、ゴーストのカゴの中身を注意深く確認した。
ごぼう、人参、里芋、こんにゃく、鶏もも肉。
豆腐、油揚げ、長ねぎ、卵。
そして、刺身の盛り合わせが二パック。
(……明らかに、二人分以上ある)
買い物カゴは、嘘をつかない。
誰と暮らし、何を食べ、どんな毎日を送っているのか。その中身は、持ち主の生活をそのまま映す。
その時。
凛花の視界の端で、何かが動いた。
店の入り口。自動ドアをくぐって入ってきた、一人の女性。
凛花は、その姿を見た瞬間——身体が完全に硬直した。
チャコールグレーのコート。ハーフアップにまとめた銀髪。
そして、伊達眼鏡をかけた、見間違えるはずのない横顔。
(……羽衣、緋雪)
白百合の盾のトップエースが、変装して、このスーパーにいる。
しかも、彼女は真っ直ぐに——鮮魚コーナーの方へと歩いていく。
凛花は、息を殺して、その動きを追った。
緋雪は、ゴーストのすぐ近くまで来ると、そこで足を止めた。
そして、ごく自然に、隣に並んだ。
「……遅かったわね」
ゴーストが、振り返らずに言った。
「ごめんなさい。任務の報告書が長引いて」
緋雪も、振り返らずに答えた。
二人は、互いに顔を見合わせることもなく、ただ並んで鮮魚コーナーの商品を見つめている。
傍から見れば、たまたま隣り合った買い物客にしか見えない。
だが、その会話は——明らかに、親しい者同士のものだった。
「刺身、二パック買ったわ」
「え、刺身?」
「半額だったの」
「……あなた、そういうところ本当に」
緋雪は、呆れたように小さく笑った。
「いいじゃない。たまには」
「ええ。……嬉しいけれど」
二人は、そのまま並んでレジへと向かっていった。
凛花は、棚の陰で立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
カゴを持つ手が、微かに震えている。
(……なに、これ)
彼女の頭の中で、いくつもの断片が、猛烈な速度で繋がり始めていた。
廃工場で、白百合が「保護対象だ」と主張したこと。
緋雪が、ゴーストに一度も攻撃を仕掛けなかったこと。
そして今、二人が当たり前のように並んで買い物をしていること。
(……白百合の盾は、ゴーストと繋がってる)
いや、と凛花は首を振った。
(違う。……これは、組織同士の話じゃない)
あの二人の距離は、あまりにも近すぎた。
同盟関係にある組織の代表同士が交わす会話ではない。
共通の目的のために協力している者同士でもない。
あれは——
(……家族とか、恋人とか。そういう、距離だ)
凛花は、レジへ向かう二人の後ろ姿を見つめた。
ゴーストがカゴを持ち、緋雪がその隣を歩いている。
時折、緋雪が何かを言い、ゴーストが小さく頷く。
どこにでもある、買い物帰りの二人連れ。
かつて、自分と姉もそうだった。
今はもう、隣を歩いてくれる人はいない。
凛花は、しばらくその場から動けなかった。
やがて、彼女は自分のカゴを棚に戻し、静かに店を出た。
外は、すでに夕暮れに沈み始めていた。
彼女は、駅へ向かう道を歩きながら、必死に思考を整理しようとした。
(……どうすればいいの)
協会の人間として考えるなら、答えは一つだ。
ゴーストの所在を掴んだ。即座に本部へ報告し、討伐部隊を編成すべきである。
だが。
(……あの人を、討伐?)
凛花は、立ち止まった。
脳裏に浮かぶのは、あの廃工場の夜。
『その子に、どんな罪があるの?』
名前を持たない少女に、名前を与えたあの声。
『生まれたいと願ったわけじゃない。誰かの遺伝子を使わせてくれと頼んだわけでもない』
そして、姉の記憶を守ってくれた、あの言葉。
『この子の中で、お姉さんの一番大切な記憶だけが、ずっと生き続けていたのよ』
(……あの人は、私のお姉ちゃんを守ってくれた)
凛花は、拳を握りしめた。
(それなのに、私はあの人を売るの? 刺身を半額で買って喜んでる、あの人を?)
彼女は、しばらく夕暮れの空を見上げていた。
茜色が、ゆっくりと藍に溶けていく。
そして、静かにスマートフォンを取り出した。
連絡先を開く。
協会の緊急回線。そこに報告すれば、すべてが動き出す。
討伐部隊が編成され、あの二人は追われる身となる。
凛花の指が、画面の上で止まった。
冷えた指先に、画面の光だけが白く映っている。
しばらくの逡巡の後。
彼女は、静かにスマートフォンをポケットへと戻した。
(……報告は、しない)
凛花は、深く息を吐いた。
(でも、黙って見過ごすのも違う)
彼女は、振り返った。
スーパーの明かりが、夕闇の中に浮かび上がっている。
二人は、まだあの中にいるはずだった。
(……確かめなきゃ)
凛花は、店の裏手にある駐車場へと回り込んだ。
あの二人が買い物を終えて出てくるとすれば、この出口を使う可能性が高い。
正面玄関は人通りが多すぎる。誰にも見られたくない者が選ぶ道ではない。
彼女は、自動販売機の陰に身を潜め、静かに待った。
冬の夕暮れは、驚くほど早く沈んでいく。
駐車場の照明が、一つ、また一つと灯り始めた。
(……何を聞くの、私)
凛花は、自分に問いかけた。
(なんで買い物してるんですか? なんで羽衣さんと一緒なんですか? ……そんなこと聞いて、どうするの)
答えは、出なかった。
ただ、このまま帰ることだけは——できなかった。
自動販売機の低い唸りが、背中越しに伝わってくる。
吐く息が、白く濁っては消えていった。
十分ほど経った頃。
裏口の自動ドアが開いた。
エコバッグを提げた二人が、並んで歩いてくる。
ゴーストが荷物を持ち、緋雪がその隣で何かを話している。
その距離は、やはり近かった。
凛花は、深く息を吸い込んだ。
そして、自動販売機の陰から歩み出た。
「——羽衣、緋雪さん」
その声に、二人の足がぴたりと止まった。
緋雪が、弾かれたように振り返る。
そして、凛花の姿を認めた瞬間——彼女の顔から、血の気が引いた。
「……凛花、さん」
「こんばんは。……偶然ですね」
凛花は、静かに歩み寄った。
「協会の業務で、こちらに来ていたんです。……まさか、こんなところでお会いするとは思いませんでした」
緋雪は、答えられなかった。
彼女の視線が、隣に立つ零へと泳ぐ。
零もまた、身動き一つできずに立ち尽くしていた。
エコバッグを持つ手が、微かに震えている。
袋の中で、刺身のパックが小さく音を立てた。
(……凛花さん)
彼の頭の中は、真っ白になっていた。
(見られた。……全部)
凛花の視線が、ゆっくりと零へと向けられた。
白いブラウス。デニムのスカート。束ねられた黒髪。
そして、その顔。
「……ゴースト、ですよね」
凛花は、静かに問うた。
「……」
零は、答えなかった。
否定することもできず、肯定することもできない。
「廃工場でお会いした時と、同じ顔です。……間違えるはずがありません」
凛花は、まっすぐに零を見つめた。
「あなたが、奈緒さんに名前をくれた人だ」
「……凛花さん」
緋雪が、必死に口を開いた。
「これには、事情があって」
「分かっています」
凛花は、静かに遮った。
「……いえ、正確には、何も分かっていません。でも」
彼女は、深く息を吸い込んだ。
「討伐しに来たわけじゃないことだけは、分かってください」
緋雪の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
「協会には、報告していません」
凛花は、はっきりと告げた。
「スマホを取り出して、緊急回線を開いて。……でも、押せませんでした」
彼女は、僅かに視線を落とした。
「あの夜、あなたは奈緒さんを殺さなかった。……それどころか、名前をくれた」
「……」
「そして、姉の記憶を守ってくれた」
凛花の声が、震えた。
「そんな人を、私は売れません」
零は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「……ありがとう」
その声は、女性のものだった。
だが、そこに込められた感情は、紛れもなく三神零のものだった。
「……でも、いいの?」
「え?」
「あなたは、協会のエースでしょう。……こんなこと、知られたら」
「知られたら、処分されるでしょうね」
凛花は、あっさりと答えた。
「でも、それは私が決めたことです」
冬の駐車場に、しばらく沈黙が流れた。
遠くの国道を、トラックが一台通り過ぎていく。
やがて、凛花が静かに問うた。
「……一つだけ、聞いてもいいですか」
「……なにかしら」
「なんで、買い物をしてるんですか」
その問いに、零の身体が硬直した。
「裏社会のトップなら、部下に買わせればいい。……いえ、そもそも、あなたほどの人が自分で食材を選ぶ必要なんて、ないはずです」
凛花は、まっすぐに零を見つめた。
「なのに、あなたは自分で来ている。しかも、隣県の、なんの変哲もないスーパーに」
零は、答えられなかった。
真実を告げるわけにはいかない。
自分が男子高校生であることも、変身が解けなくなっていることも。
「……誰にも、迷惑をかけたくないからよ」
零は、静かに答えた。
「え?」
「私が一言頼めば、福音も星監も、喜んで何でも用意するわ。……でも、それをすれば、あの人たちの時間と労力を奪うことになる」
彼女は、エコバッグを持ち直した。
「自分の食べるものくらい、自分で選びたいの。……それだけよ」
嘘ではなかった。
すべてではないが、それは確かに、三神零という人間の本音の一つだった。
凛花は、しばらくその横顔を見つめていた。
そして、静かに息を吐いた。
「……変な人ですね」
「そうかしら」
「だって、あなた」
凛花は、僅かに口の端を上げた。
「刺身が半額になった時、すごく嬉しそうな顔してましたよ」
零の顔が、一瞬で赤く染まった。
「……見てたの」
「ずっと見てました。……ごぼうを三本くらい戻して選び直してたのも」
「……っ」
緋雪が、堪えきれずに小さく吹き出した。
その笑い声で、張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。
「……凛花さん」
緋雪が、静かに口を開いた。
「今日のことは、本当にありがとうございます」
「いえ」
「それと、一つだけお願いがあります」
緋雪は、深く頭を下げた。
「今日見たことは、誰にも……由鶴にも、話さないでいただけませんか」
凛花は、僅かに首を傾げた。
「新実さんにも? ……あの人、白百合の情報班ですよね」
「はい」
「羽衣さんの、味方じゃないんですか」
「味方です。誰よりも」
緋雪は、静かに答えた。
「……だからこそ、これ以上巻き込みたくないんです」
彼女は、拳を握りしめた。
「あの人はもう、十分すぎるほど背負ってくれています。……これ以上、私たちの秘密を抱えさせたくない」
凛花は、しばらく緋雪の顔を見つめていた。
鞄の底のファイルが、急に重く感じられた。
その由鶴に、自分はまさに今夜、協会の記録を届けようとしているのだ。
そして、静かに頷いた。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
「でも、条件が一つあります」
「条件?」
凛花は、まっすぐに二人を見つめた。
「もし、私にできることがあったら。……その時は、必ず言ってください」
「私は、協会の中にいます」
彼女は、静かに続けた。
「あなたたちが入れない場所に、私は入れる。……協会の資料にも、人事にも、技術部門にも」
凛花の目に、確かな光が宿った。
「あの夜、私は何も分かっていませんでした。政府の言うことを信じて、奈緒さんを殺そうとしていた」
「……」
「その償いを、させてください」
零は、しばらく凛花の顔を見つめていた。
十一年前、自分を助けて死んだ女性の、妹。
どう向き合えばいいのか、ずっと分からずにいた相手。
その少女が今、自分に手を差し伸べている。
真っ直ぐな目。芯の通った声。
誰かを守るためなら、自分の立場など平気で賭けてしまう危うさまで。
(……凛音さん)
零は、静かに目を伏せた。
(あなたの妹は、あなたにそっくりですね)
「……ありがとう」
彼女は、静かに頭を下げた。
「その時が来たら、必ず頼らせてもらうわ」
凛花が去った後。
零と緋雪は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
駐車場の照明の下で、二人分の影が長く伸びている。
「……緋雪さん」
「なに?」
「……由鶴さんに言わないでって、あれ」
零は、静かに問うた。
「本当に、それでよかったの?」
緋雪は、しばらく答えなかった。
やがて、彼女は静かに首を振った。
「……本当は、もう遅いのよ」
「え?」
「由鶴は、もう私が何か隠しているって気づいてる」
緋雪は、夜空を見上げた。
「……そっか」
零は、静かに呟いた。
「……ええ」
緋雪は、静かに頷いた。
凛花も真実を知った上で、それを守ることを選んでくれた人たち。
そんな彼女たちを思い零は、静かに微笑んだ。
その夜。
山中の洋館では。
零と緋雪が、テーブルに刺身を並べていた。
鮪の赤。鰤の淡い桜色。烏賊の透き通った白。
古い洋館の食卓に、そこだけ小さな祝い事のような彩りが灯っている。
「……贅沢ね」
緋雪が、少し嬉しそうに笑った。
「半額だったから」
「知ってるわ。三回言われたもの、でも、やっぱり零君の手料理がいいわ」
零は、思わず苦笑した。
窓の外では、冬の日が完全に沈み、山が闇に溶けていった。
この食卓が、いつまで続くのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。




