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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百四十五話

 変身が解けなくなって、十八日目。


 その日の午後、零は都内の極秘ラボを訪れていた。

 奈緒の見舞いである。

 週に二度ほど、彼は影移動でこのラボへと通っていた。

 洋館とラボの往復。それが、今の零に許された数少ない外出だった。

 消毒液の匂いがする白い廊下を、零は迷わず歩いていく。

 すれ違う星監の医療スタッフが、足を止めて深く頭を下げた。この施設で、彼の顔を知らない者はもういない。


 病室の扉を開けると、奈緒はベッドの上で絵本を広げていた。


 もう検査着ではない。レイラが用意した、淡い水色のパジャマを着ている。

 肩まで伸びた黒髪は、きちんと梳かされ、片側で緩く結ばれていた。

 窓際には、小さな鉢植えが一つ置かれている。

 誰かが持ち込んだのだろう。白い部屋しか知らなかった少女の病室に、ほんの少しだけ色が増えていた。


「あ」


 零の姿を認めた瞬間、奈緒の紅色の瞳が輝いた。


「来てくれた」


「ええ。……調子はどう?」


「へいき。……ねえ、見て」


 奈緒は、絵本を掲げてみせた。


「これ、じぶんで読めるようになった」


 それは、猫が主人公の短い物語だった。

 平仮名だけで書かれた、幼児向けの絵本。

 だが、奈緒はその一行一行を、指でなぞりながら、たどたどしく読み上げていく。


「ねこは、あさ、おきました。……おなかが、すいたので、さかなを、さがしに、いきました」


 零は、椅子に腰を下ろして、静かにそれを聞いていた。

 一文字ずつ、確かめるように。

 読み間違えると、少しだけ眉を寄せて、もう一度最初からやり直す。

 この二週間で、奈緒は目覚ましい速度で言葉を覚えていた。

 レイラや星監の医療スタッフが、根気よく教え続けた成果である。


「……上手になったわね」


 零は、自然にそう言った。

 奈緒は、嬉しそうに笑った。

 絵本を読み終えた後。

 奈緒は、ふと零の顔をじっと見つめた。


「……ねえ」


「なに?」


「あなた、前より女の人っぽくなったね」


 その一言に、零の身体が硬直した。


「……え?」


「はじめて会ったとき、あなた、なんかちがった」


 奈緒は、無邪気に首を傾げた。


「声は女の人だったけど、しゃべりかたが、なんか……かたかった。……こわい人みたいな感じ」


「……」


「でも今は、やわらかい。……レイラさんとか、緋雪さんみたいな感じ」


 奈緒は、にこりと微笑んだ。


「そっちのほうが、わたしは好き」


 零は、しばらく言葉が出なかった。

 奈緒に、悪意はない。

 彼女はただ、目に映ったものを、そのまま口にしただけだ。

 だからこそ、その言葉は深く刺さった。

 言葉を覚えたばかりの子供は、飾ることを知らない。だから、その観察には嘘がない。


(……硬かった、か)


 零は、自分の初期のゴーストとしての振る舞いを思い出した。

 あれは、意識的に作っていた「威厳」だった。

 最強の死神として、冷徹に振る舞わねばならないという、自分への縛り。

 一言一言を選び、声の温度を下げ、感情を表に出さない。

 それは鎧であり、同時に、三神零という少年を隠すための壁でもあった。

 だが今、その縛りが——ない。


(俺は今、ゴーストを演じてない)


 ただ、この姿で、この声で、この口調で、生活している。


(……素の俺が、この口調になってるんだ)


「……どうしたの?」


 奈緒が、心配そうに顔を覗き込んできた。


「……ううん。なんでもないわ」


 零は、静かに首を振った。

 そして、その「なんでもないわ」という言葉が、自分の口から極めて自然に出てきたことに、彼はまた小さく息を呑んだ。


 ラボからの帰り道。

 零は、影移動を使わず、あえて夜の街を歩いていた。

 少し、考える時間が欲しかった。

 冬の冷たい風が、長い黒髪を揺らす。

 その感触にも、もう慣れていた。

 駅前の雑踏。コンビニの白い明かり。家路を急ぐ会社員の靴音。

 どれも見慣れた都会の夜なのに、十センチ低い視点から見ると、どこか知らない街のようだった。


(……変わってる)


 彼は、街灯の下を歩きながら思った。


(俺は、変わってる。……確実に)


 二週間前まで、零にとってゴーストは「仮面」だった。

 必要な時に被り、必要が終われば外す。その下には、常に三神零がいた。

 だが今、その仮面が外れなくなり——気づけば、仮面の下の顔が、仮面の形に馴染み始めている。


 零は、ふと立ち止まった。


 目の前に、ショーウィンドウがあった。

 閉店後のブティック。暗いガラスに、自分の姿が映っている。

 ベージュのコート。その裾から覗く、デニムのロングスカート。後ろで一つに束ねた、長い黒髪。

 ガラスの向こうに立つマネキンと、ほとんど区別がつかなかった。

 通りすがりの誰が見ても、ただの女の子だろう。

 帰りが少し遅くなった、どこにでもいる女子高生。


(……この姿で、あと何日)


 零は、ガラスに映る自分を見つめた。


(あと何日経ったら、俺は——)


 その先を、彼は考えることができなかった。

 ガラスの中の少女も、同じように唇を噛んでいた。

 洋館に戻ると、緋雪が夕食を用意していた。

 玄関を開けた瞬間、醤油と砂糖の甘い匂いが鼻をくすぐった。


 今夜は、肉じゃがだった。

 彼女が最も苦手としていた煮物が、ようやく形になり始めている。


「……おかえり」


「ただいま」


 零は、コートを脱いで椅子に座った。


 緋雪が、鍋から肉じゃがをよそう。

 その手つきは、二週間前とは比べものにならないほど慣れていた。

 玉ねぎの透き通り具合を確かめ、じゃがいもの角を崩さないように、そっとお玉を差し入れる。


「……奈緒さん、どうだった?」


「元気だったわ。絵本を、自分で読めるようになってた」


「そう。よかった」


 しばらく、二人は黙って食事を続けた。

 古い柱時計が、時を刻む音だけが響いている。

 肉じゃがは、少し煮崩れていたが、味は悪くなかった。

 甘すぎず、辛すぎず。じゃがいもの芯まで、出汁がちゃんと染みている。

 緋雪が、零の視線を気にして何度も様子を窺っているのが分かった。


「……美味しいわ」


 零がそう言うと、彼女はほっとしたように肩の力を抜いた。


「よかった。……昨日、三回作り直したのよ」


「三回も?」


「最初は煮崩れて、二回目は味が薄くて、三回目でようやく」


 彼女は、少し照れくさそうに笑った。

 零は、その顔を見つめていた。

 そして、ふと、口を開いた。


「……ねえ、緋雪さん」


「なに?」


「私、変わった?」


 緋雪の箸が、止まった。

 彼女は、しばらく零の顔を見つめていた。

 そして、静かに視線を落とした。


「……気づいたのね」


「うん。……今日、奈緒に言われた」


 零は、静かに続けた。


「『前より女の人っぽくなった』って。……しゃべり方が、柔らかくなったって」


「……」


「緋雪さんは、いつから気づいてた?」


 緋雪は、しばらく答えなかった。

 湯呑みの縁を、指先でゆっくりとなぞっている。

 やがて、彼女は静かに口を開いた。


「……四日前から。筑前煮を作った夜」


「四日」


「ええ。……料理を教えてくれてた時。あなた、『煮立たせすぎると根菜が崩れるから』って言ったの」


 緋雪は、箸を置いた。


「その時の口調が、完全にゴーストのものだった。……でも、あなたは気づいていなかった」


「……なんで、言ってくれなかったの」


「言えば、あなたが怖くなると思ったから」


 緋雪は、まっすぐに零を見つめた。


「あなたが自分の変化に気づいて、それを恐れて、余計に苦しむんじゃないかって。……だから、黙っていた」


 零は、しばらく無言だった。

 やがて、彼は静かに息を吐いた。


「……そうね。怖いわ」


 その「怖いわ」という言葉さえ、自然に女性の口調で出てきた。


「……私、どうなるのかしら」


 零は、自分の手を見つめた。

 箸を持つ指は、細く、白い。

 かつて包丁を握っていた手とは、似ても似つかない。


「このまま、あと一週間、一ヶ月と経ったら。……私は、三神零に戻れるのかしら」


 緋雪は、答えられなかった。


「変身が解けたとしても。……もう、俺の口調も、考え方も、元には戻らないんじゃないかって」


 零の声が、僅かに震えた。


「今、『俺』って言うのに、少し意識が必要だった。……無意識だと、『私』になる」


 その言葉に、緋雪の目が潤んだ。


「……零くん」


 緋雪は、テーブル越しに手を伸ばし、零の手を握った。


「聞いて」


「……」


「あなたが『私』と言っても、『俺』と言っても。……あなたは、三神零よ」


 緋雪の声は、静かだった。


「口調が変わっても、姿が変わっても。あなたが毎朝、誰かのために台所に立つ人であることは変わらない」


「……」


「玲奈さんが疲れてる日に、味を濃くする人。風邪気味の日に、生姜を多くする人。……それが、あなたよ」


 それは、玲奈が三神家の玄関で、涙目で語った言葉だった。

 緋雪は、それをそのまま、零に手渡した。

 零は、しばらく緋雪の顔を見つめていた。

 その目から、一筋の涙が零れ落ちた。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 その夜。

 零は、鏡の前に立っていた。

 洗面所の鏡に映る、自分の顔。

 蛍光灯の白い光が、濡れた頬の跡を静かに照らしている。

 毎日見ているうちに、もはや「見知らぬ誰か」とは感じなくなった顔。


(……私は、三神零)


 彼は、心の中でそう呟いた。


(この姿でも、この声でも、この口調でも)


 だが、その呟きが自然に「私」になっていることに、零はもう驚かなかった。

 驚かなくなったこと自体が、一番の変化なのかもしれなかった。


(……それでも、帰る)


 彼は、静かに拳を握りしめた。


(玲奈が、待ってる。姉さんも、母さんも。……だから、絶対に)


 同じ夜。

 白百合の盾・情報班解析室。

 新実由鶴は、モニターの前で一つのファイルを開いていた。

 協会技術開発部門の刻印。その追跡は、彼女の予想より早く進展していた。

 理由は、単純だった。

 協会内部に、協力者がいたのだ。


「——由鶴さん。こちらが、技術開発部門の人事記録です」


 画面の向こうで、周防凛花が静かに告げた。

 協会の制服ではなく、私服姿だった。背後に映っているのは、殺風景な寮の一室だろう。

 協会のトップエースが、白百合の情報班に内部資料を横流ししている。

 それは、明白な規律違反だった。


「……凛花さん。本当に、よろしいのですか」


「はい」


 凛花は、迷いなく答えた。


「あの廃工場で、私は……何も分かっていませんでした。政府の言うことを信じて、奈緒さんを殺そうとしていた」


 彼女の声が、僅かに震えた。


「それを止めてくれたのが、ゴーストでした。……あの人が、姉の記憶を守ってくれた」


「……」


「だから、今度は私が動く番です」


 画面越しでも分かるほど、その瞳はまっすぐだった。

 姉と同じ、芯の通った光だった。

 由鶴は、静かに資料を確認した。

 技術開発部門の人事記録。装置の管理番号と紐づく、開発担当者の名簿。

 スクロールする指が、一行ごとに速度を落としていく。

 そして、その中に——一人の名前があった。


「……この方は」


「協会の技術顧問です。……旧体制の頃から、ずっと在籍しています」


 凛花は、静かに続けた。


「御子柴の事件の後、多くの上層部が入れ替わりました。でも、技術部門だけは、ほとんど手つかずだったんです」


「……つまり、旧体制の残党が」


「はい」


 由鶴は、その名前を見つめた。

 そして、静かに呟いた。


「……見つけました」


 装置を作った者の名前が、ついに判明した。

 だが、それは同時に——敵が協会の内部に、今なお潜んでいるという事実の証明でもあった。

 窓の外では、冬の夜が静かに更けていた。


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