第二百四十四話
都内某所、福音の鐘の作戦室。
地下深くに設けられたその空間には、壁一面に日本地図が張られていた。
打ちっぱなしのコンクリートに、燭台を模した照明が等間隔に並んでいる。教団の拠点らしい、どこか聖堂めいた薄暗さだった。
だが、地図に突き刺されているピンは、かつてのような政府施設の位置を示すものではなかった。
赤いピンは「三神零の立ち寄り先」。
青いピンは「三神零の通学経路」。
黄色いピンは「三神零が過去三ヶ月以内に訪れた店舗」。
そして地図の中央には、大きな写真が貼られていた。
スーパーのエコバッグを提げて歩く、一人の男子高校生の姿である。
特売の長ネギが、袋の口から斜めに飛び出していた。
「——現時点での捜索状況を報告なさい」
ルディア・ロンディニウムが、黄金の瞳を鋭く光らせて告げた。
その表情は、かつて政府の隠密施設を襲撃した時と、寸分違わぬ真剣さだった。
「はい、ルディア様」
須藤真里が、分厚い報告書を抱えて進み出た。
「関東一円の福音の信徒、総勢八百四十名を動員し、三神零様の捜索を継続しております」
「八百四十……」
「はい。駅、商業施設、公園、図書館、コンビニエンスストア。三神様が過去に立ち寄った可能性のある全施設に、監視要員を配置いたしました」
真里は、報告書をめくった。
紙の端は、何度も捲られたせいで柔らかく波打っている。
「加えて、ヤオヨシの全店舗に信徒を配置。三神様が食材の購入に現れた場合、即座に報告が上がる体制を整えております」
「……よろしい」
ルディアは、静かに頷いた。
「それで、成果は」
「……ございません」
真里の声が、僅かに沈んだ。
「三神様の姿は、この二週間、一度も確認されておりません」
作戦室に、重い沈黙が落ちた。
燭台の灯りが、微かに揺れる。
その静寂を破ったのは、部屋の隅で足をぶらぶらさせていたルカだった。
「ねえルディア様。あたし、思うんだけど」
「なにかしら」
「これ、本当に組織の任務なの?」
その一言に、真里の肩がびくりと跳ねた。
「……ルカ。それは」
「だって、八百人だよ? 八百人使って、高校生一人探してるんだよ?」
ルカは、無邪気に首を傾げた。
「あたしたち、前は政府の施設とか襲ってたのに。今は、お兄さんがどこのコンビニ行ったかを調べてるんだよ」
「ルカ」
リリアが、姉の頭を軽く叩いた。
「言い方」
「だって本当のことじゃん」
「本当のことでも、言っちゃダメなことがあるの」
ルディアは、しばらく無言でルカを見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……ルカ。あなたの疑問は、もっともですわ」
「え、そうなの?」
「ええ。組織の任務として考えれば、明らかに異常です」
ルディアは、地図に貼られた零の写真を見つめた。
エコバッグを提げた少年は、写真の中でいつも通りに、少しだけ眠たそうな顔をしていた。
「ですが、これは組織の任務ではありません」
「じゃあ、なに?」
「……わたくし個人の、我儘ですわ」
その言葉に、作戦室の空気が変わった。
教祖が、自らの私情を認めた。
狂信者たちにとって、それは教義の一節を読み上げるのと同じくらい重い言葉だった。
「三神くんは、この二週間、一度もヤオヨシに来ておりません」
ルディアは、静かに続けた。
「特売日も、ポイント五倍デーも、すべて素通りです。……あの方が、そのような真似をなさるはずがない」
真里が、静かに頷いた。
彼女もまた、ヤオヨシで零と何度も顔を合わせてきた一人である。
あの少年が、豚こま切れ肉の三割引を見逃すはずがない。それは、福音の幹部全員が共有する認識だった。
「何かが、起きている」
ルディアは、拳を握りしめた。
「そして、それを確かめないまま、わたくしは眠ることができないのです」
同じ頃。
星監の東京拠点、最上階の執務室。
床から天井まで続く一枚ガラスの向こうに、昼の東京が霞んで広がっている。
ヴィクトリア・ローゼンベルグは、その景色に背を向け、巨大なモニターの前に立っていた。
画面には、都内の衛星画像がリアルタイムで表示されている。
星監が保有する軍事衛星の一つを、彼女はこの二週間近く、私的に占有していた。
「——ローゼンベルグ様。よろしいでしょうか」
技術班の主任が、恐る恐る声をかけた。
「なにかしら」
「その、衛星の件ですが。……欧州本部から、問い合わせが来ております」
「問い合わせ?」
「はい。『東京拠点が軍事衛星を二週間近く占有しているが、いかなる作戦に使用しているのか』と」
ヴィクトリアは、振り返りもせずに答えた。
「重要な監視任務だと答えなさい」
「……その、具体的には」
「隣家の少年の捜索よ」
「…………」
主任は、しばらく言葉を失っていた。
手元のタブレットと、上司の背中とを、何度も見比べている。
「……失礼ですが、それは、軍事衛星を使うような案件なのでしょうか」
「私にとっては、そうよ」
ヴィクトリアは、モニターに映る三神家の屋根を見つめた。
住宅街の一角。瓦屋根の、ごく普通の二階建て。
世界の裏側を束ねる組織の長が、今もっとも注視している建造物がこれだった。
この二週間、彼女は毎朝この画像を確認していた。
台所の換気扇が回っているか。玄関から誰が出入りしているか。庭に洗濯物が干されているか。
結果は、毎回同じだった。
母親が出勤し、姉妹が白百合の任務に出かける。
だが、あの少年だけが、一度も姿を現さない。
(……研修、ね)
ヴィクトリアは、静かに目を細めた。
(あの子の家族は、それを信じているようだけれど)
彼女は、隣家の様子を「近所付き合い」の名目で、何度か直接確認していた。
手作りの焼き菓子を持って呼び鈴を押し、玄関先で世間話をする。それだけで、家の中の空気は大抵読める。
母親は呑気で、妹は寂しがっていて、姉は——明らかに何かを疑っていた。
(三神澪。……あの姉は、賢いわ)
焼き菓子を受け取る時の、あの目。
礼儀正しく微笑みながら、こちらの顔色を一瞬で測っていた。
「——ヴィクトリア様」
執務室の扉が開き、シルヴィア・バークスが入ってきた。
いつもの気だるげな表情。片手には、缶コーヒー。
「呼びました?」
「ええ。……あなた、最近どこかで妙なものを見なかった?」
シルヴィアの動きが、僅かに止まった。
ほんの一瞬。瞬きよりも短い間。
だが、この部屋の主は、その一瞬を見逃すような女ではなかった。
「……妙なもの、とは」
「なんでもいいわ。ゴースト様に関することでも、三神くんに関することでも」
ヴィクトリアは、鋭い視線をシルヴィアに向けた。
「あなた、この一週間で三回、隣県に出向いているわね。……何をしに行っていたの」
シルヴィアは、缶コーヒーのプルタブを開けた。
かしゅ、と乾いた音が、静かな執務室に響く。
そして、一口飲んでから答えた。
「……さあ」
「さあ?」
「休憩です。あの辺のスーパー、サンドイッチが美味しいので」
ヴィクトリアは、しばらく無言でシルヴィアを見つめていた。
「……そう」
彼女は、それ以上追及しなかった。
だが、その視線は、明らかに「信じていない」と語っていた。
執務室を出た廊下で。
シルヴィアは、缶コーヒーを傾けながら深いため息をついた。
(……危なかった)
背中に、じっとりと汗が滲んでいる。
欧州の戦場でさえ、ここまで冷や汗をかいたことはなかった。
彼女は、あの日隣県のスーパーで見たものを、誰にも報告していなかった。
白いブラウス姿で、長い黒髪を一つに束ねた少女が、大根を吟味していた光景。
筑前煮の材料が詰まった買い物カゴ。
どこからどう見てもただの女の子なのに、肌を刺すような魔力だけが、あの死神のものだった。
(あれを報告したら、ヴィクトリア様は間違いなくあのスーパーに突撃する)
そして、ルディアも。八百人の信徒を引き連れて。
(……そうなったら、あの死神は買い物すらできなくなる)
シルヴィアは、缶を握りしめた。
薄いスチール缶が、指の形に僅かにへこむ。
(別に、あいつのためじゃないけど)
彼女は、自分にそう言い聞かせた。
(ただ、面倒なことになるのが嫌なだけ)
「——あ、シルヴィアさん」
廊下の向こうから、レイラ・メリクスが駆け寄ってきた。
淡い水色の三つ編みが、小走りに合わせて揺れている。
「お疲れ様です。今、ヴィクトリア様のところから?」
「まあね」
「何のお話だったんですか?」
「別に。……大したことじゃない」
レイラは、じっとシルヴィアの顔を見つめた。
治癒術師の目は、傷を探す目だ。
身体の傷も、そうでない傷も。
「……シルヴィアさん、なんだか最近優しいですね」
「は?」
「だって、前は『面倒くさい』しか言わなかったのに。最近は、なんていうか……誰かのことを考えてる顔してます」
シルヴィアは、思わず缶コーヒーを落としそうになった。
「……気のせいよ」
「そうですか?」
「そうよ」
彼女は、足早に廊下を歩き去った。
レイラは、その背中を見送りながら、静かに微笑んだ。
そして、夜。
影の結界空間に、二人の裏社会のトップが向かい合っていた。
上下も奥行きも曖昧な、闇色の空間。
足元に落ちる影だけが、辛うじてここに床があることを教えている。
「——それで、あなたの成果は」
ヴィクトリアが、静かに問うた。
「……ございません」
ルディアは、悔しげに唇を噛んだ。
「八百四十名を動員しても、三神くんの痕跡は一つも見つかりませんでしたわ」
「こちらも同様よ。衛星で二週間監視しても、あの子は一度も家に帰っていない」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
「……ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
やがて、ルディアが静かに口を開いた。
「わたくしたち、何をしているのでしょうね」
「……なにかしら」
「世界最大級の犯罪組織が二つ。その全力を挙げて、一人の男子高校生を探している」
ルディアは、自嘲するように笑った。
「かつての福音の鐘であれば、こんなことのために信徒を動かすなど、考えられませんでしたわ」
「星監も同じよ」
ヴィクトリアは、静かに答えた。
「軍事衛星を、隣家の少年の捜索に使うなんて。……欧州本部が知ったら、私は即座に解任されるでしょうね」
「それでも、やめられませんの?」
「ええ」
ヴィクトリアは、僅かに口の端を上げた。
「あなたも、そうでしょう」
ルディアは、答えなかった。
だが、その沈黙が何よりの肯定だった。
「……一つ、提案がありますわ」
しばらくして、ルディアが静かに切り出した。
「なにかしら」
「わたくしたちは、これまで別々に動いてきました。……ですが、それでは効率が悪い」
「……つまり」
「協力いたしませんこと?」
ヴィクトリアは、しばらく無言でルディアを見つめていた。
福音の鐘と星監。かつては血で血を洗う抗争を繰り広げ、今は緩やかな同盟関係にある二つの組織。
その二つが、一人の少年を探すためだけに、正式な共同作戦を組む。
かつてこの二人が本気で睨み合った時、周囲の空間そのものが軋んで歪んだ。
その二人が今、同じ一人の少年のために、手を組もうとしている。
「……いいでしょう」
ヴィクトリアは、静かに頷いた。
「福音の人海戦術と、星監の衛星監視。組み合わせれば、隣県まで捜索範囲を広げられるわ」
その言葉に。
結界空間の隅で、シルヴィアの背筋が凍りついた。
(……隣県)
彼女は、缶コーヒーを握りしめた。
(まずい。あのスーパーが、範囲に入る)
もし、ゴーストがあの店で買い物をしているところを、八百人の信徒と軍事衛星が捕捉したら。
(……あの死神、二度と外に出られなくなるわよ)
青果コーナーで大根を吟味していた、あの真剣な横顔が脳裏をよぎる。
あれを奪うのは、なぜだかひどく後味が悪い気がした。
シルヴィアは、深いため息をついた。
(面倒くさい。……本当に、面倒くさい)
だが、彼女は何も言わなかった。
言えば、自分が何を見たのかを説明せねばならなくなる。
そして、その説明は——あの死神の秘密を、暴くことになる。
同じ夜。
山中の洋館では。
零が、二階の窓辺で静かに星空を見上げていた。
膝の上には、今日隣県のスーパーで買ってきた食材のレシートが置かれている。
大根、九十八円。鶏もも肉、三百二十円。値引きシールの分だけ、合計が少し安い。
(……明日は、何を作ろうかしら)
彼女は——いや、彼は、そう考えて、ふと動きを止めた。
(……『かしら』)
零は、自分の思考を反芻した。
(今、俺は……『かしら』って、考えた)
心の中の独白ですら、女性の口調になっている。
その事実に、零は静かに息を呑んだ。
(……いつから)
答えは、分からなかった。
少なくとも、一週間前は違ったはずだ。いや、三日前も。
だが、今日——気づいた時には、もう変わっていた。
口から出る言葉が変わったことには、薄々気づいていた。
だが、誰にも聞かれない頭の中だけは、ずっと「俺」のままだと思っていた。
最後の砦だと、どこかで信じていた。
零は、窓に映る自分の顔を見つめた。
夜より深い黒髪。紫水晶の瞳。
毎日見ているうちに、もはや「見知らぬ誰か」とは感じなくなった顔。
(……これが、慣れってことか)
彼は、静かに拳を握りしめた。
だが、その拳もまた、細く白い少女のものだった。
窓の外では、冬の星が静かに瞬いていた。




