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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百四十三話

 翌日の午前中。


 白百合の盾・本部、情報班解析室。


 窓のない部屋に、冷却ファンの低い唸りだけが満ちている。

 壁一面のモニターが放つ青白い光の中で、新実由鶴は静かに作業を続けていた。


 協会の技術開発部門の刻印。その追跡は、遅々として進んでいなかった。

 組織の管理番号は判明したものの、それが具体的に誰の手によって使われたのかは、協会内部の記録にアクセスしない限り確認できない。


 そして、白百合と協会の関係は、あの廃工場の一件以降、これまでにないほど冷え込んでいた。

 協会の討伐任務を白百合が妨害した——公式にはそういう扱いになっている。こちらから資料の提供を求めたところで、門前払いは目に見えていた。


 国防委員会のサーバーに残した穴は、協会の内部網までは届かない。

 正面からも、裏口からも、今は手が伸ばせなかった。


(……現状では、ここまでですね)


 彼女が深いため息をつき、冷めきったコーヒーに手を伸ばした、その時。


 解析室のドアが、ノックもなく開いた。


「——由鶴さん。ちょっといい?」


 入ってきたのは、三神澪だった。


 白百合の隊員としては、由鶴とはほとんど接点がない。炎属性の実働隊員と、情報班のトップ。任務中に通信を交わすことはあっても、こうして顔を突き合わせて話したのは、先日、玲奈の件で三神家を訪ねた夜の一度きりだ。


 あの夜、この人はテーブルを叩いて立ち上がり、妹のために本気で怒っていた。


 だからこそ、その来訪自体が異例だった。

 そして、その表情は、明らかに世間話をしに来た顔ではなかった。


 目の下には薄い隈がある。髪は整っているが、どこか無造作だ。眠れていないのだろう、と由鶴は察した。


「……三神澪さん。どうかしましたか」


「聞きたいことがあるの」


 澪は、遠慮なく由鶴の向かいの椅子に座った。

 背もたれに身を預けることもなく、前のめりに、まっすぐ由鶴を見据えている。


「白百合で、非戦闘員向けの後方支援研修ってやってる?」


 由鶴の眉が、僅かに動いた。


「……いえ。そのような研修プログラムは、存在しません」


「やっぱり」


 澪は、静かに拳を握りしめた。

 その指の関節が、白く浮き上がっていた。


「二週間前から、うちの弟がその研修に参加してることになってるの」


 澪は、淡々と語り始めた。

 感情を抑えようとしている声だった。だが、その抑制がかえって、内側で渦巻いているものの大きさを伝えていた。


「緋雪ちゃんが言うには、白百合が主催してて、山の施設に泊まり込みで、電波も入らない場所だって」


「……緋雪が」


「そう。しかも昨日、一週間延長になったって」


 由鶴は、しばらく無言だった。


(……緋雪が、そのような嘘を)


 あの人は、嘘が上手くない。

 それでも嘘をつくのなら、それは余程のことだ。


 彼女の脳裏に、この数週間の断片が次々と浮かび上がる。


 ゴーストの出現現場に、非番で駆けつけていた緋雪。

 「もらい物」と言い淀んだ、丁寧にラップされたおにぎり。

 そして——かつて自分が『ジャマーキラー』の秘密を握る者だと睨み、結局は見当違いだと結論づけた、一人の男子高校生。


 自分で捨てたはずの仮説が、喉の奥で小さく燻り始めていた。


(つまり、緋雪は三神くんを匿っている)


 その結論は、すぐに出た。

 だが、理由が分からない。なぜ、匿わねばならないのか。何から、匿っているのか。


「……澪さん。弟さんが、何かトラブルに巻き込まれた可能性は?」


「それを考えてるところよ」


 澪は、腕を組んで天井を見上げた。


 解析室の天井には、無数の配線が走っている。彼女は、そのどれか一本を意味もなく目で追っているようだった。


「あの子、ここ最近ちょっとおかしかったのよね」


「おかしい、とは」


「夜中に出かけることが増えてた。……あと、緋雪ちゃんが来る頻度も増えてた」


 由鶴は、静かに頷いた。


 夜中の外出。それが何を意味するのか、由鶴にはいくつかの心当たりがあった。

 だが、澪はそれを知らない。彼女にとっては、ただ「弟が夜にどこかへ行く」という事実でしかない。


「……そして、二週間前から姿を消した」


「そう」


 澪は、しばらく黙り込んだ。


 その沈黙の中で、彼女の視線は天井から壁へ、壁から床へと彷徨った。

 言葉にすべきかどうか、迷っているのだと由鶴は思った。


 やがて、澪は静かに口を開いた。


「……ねえ由鶴さん。あなた、どう思う?」


「何がでしょう」


「零が、緋雪ちゃんに連れ去られた可能性」


 由鶴は、思わず咳き込んだ。


 喉に何も詰まっていないのに、身体が勝手に反応したのだ。


「……連れ去り、ですか」


「だって、おかしいでしょ」


 澪は、真剣な顔で身を乗り出した。

 その目には、冗談の色は微塵もなかった。


「二週間も帰ってこない。緋雪ちゃんは嘘の研修をでっち上げてる。しかも延長までしてる」


「……」


「つまり緋雪ちゃんは、零をどこかに隠してるってこと」


 その推論は——恐ろしいことに、限りなく正しかった。


 由鶴は、内心で舌を巻いた。

 この女性は、情報班の訓練など一切受けていない。だが、家族という一点への執着だけで、真実の輪郭を正確に捉えている。


「……それで、どこに?」


「分からない。でも、白百合の管轄外の場所よね。だってここには来てないんだから」


 澪は、指を折りながら続けた。


「緋雪ちゃんのマンション? ……いや、あそこはうちから歩いて行ける距離だし、すぐバレるわね。じゃあ、実家?」


 由鶴は、ふと思い出した。


 緋雪の実家——羽衣家が所有していたという、山中の洋館。

 白鳥を最初に匿った場所として、彼女から一度だけ聞いたことがある。魔力迷彩の結界が幾重にも張られ、由鶴のドローンでも捕捉できない、と。


(……あそこですか)


 由鶴は、しばらく迷った。


 この情報を、澪に伝えるべきか。


 伝えれば、澪は間違いなくそこへ向かう。今日のうちにでも、白百合の車両を無断で持ち出して。

 そして、弟の姿を見ることになる。

 その姿が——もし、由鶴の推測通りのものだとしたら。


(……いえ)


 彼女は、口を閉じた。


(緋雪には、緋雪なりの理由があるはずです。……まずは、それを確かめてから)


「……分かりません」


 由鶴は、静かに答えた。


「緋雪の実家については、私も詳しくは存じ上げません」


 嘘だった。

 そして、由鶴にとって、この種の嘘は本来最も苦手とするものだった。


 データを偽るのは簡単だ。報告書の一行を書き換えるだけでいい。

 だが、目の前にいる人間の、まっすぐな目を見ながらつく嘘は、まるで別物だった。


 澪は、由鶴の答えに納得しなかった。


「……ふうん」


 彼女は、じっと由鶴を見つめた。


 その視線は、情報班のトップが日頃使っている観察の目と、驚くほど似ていた。

 相手の表情、視線の動き、呼吸の乱れ。そのすべてを、無意識に読み取ろうとしている。


「由鶴さん。あなた、何か知ってるでしょ」


「……何のことでしょうか」


「今、目が泳いだ」


「泳いでいません」


「泳いだって」


 澪は、身を乗り出した。


「あなた、情報班のトップでしょ。緋雪ちゃんのことも、零のことも、私より絶対詳しいはず」


「……澪さん」


「隠さないで。……あの子、私の弟なの」


 その最後の一言だけは、声が僅かに震えていた。


 由鶴は、静かに目を伏せた。


(……本当に、家族思いですね)


 三神家の姉妹。

 兄の失踪を心配し、こうして情報班にまで乗り込んでくる姉。そして、兄の料理を恋しがって泣く妹。


 あの夜、三神家の食卓で食べた唐揚げの味を、由鶴は今でも覚えている。

 四人が同じテーブルを囲み、誰かが誰かを気遣い、当たり前のように皿が回っていく。あの家には、そういう温度があった。


 由鶴自身には、家族と呼べる者がほとんどいない。

 だからこそ、この姉の必死さが、どこか眩しく、そして少しだけ痛かった。


 彼女は、深く息を吐いた。


「……澪さん。一つだけ、申し上げます」


「なに」


「弟さんは、無事です」


 彼女は、まっすぐに澪を見つめた。


「それだけは、緋雪の言葉を信じてください。……彼女は、あなたの弟さんに害を成すような人ではありません」


「……知ってるわよ、そんなの」


 澪は、僅かに視線を逸らした。

 その横顔には、苛立ちと、それ以上に不安が滲んでいた。


「緋雪ちゃんのことは、信じてる。……でも、それとこれとは別なのよ」


 澪は、しばらく黙り込んでいた。


 その間、解析室には機器の稼働音だけが低く響いていた。

 由鶴は、冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦かった。


 そして、澪がぽつりと呟いた。


「……あのさ。私、ちょっと変なこと考えてるんだけど」


「はい」


「緋雪ちゃんと零って、付き合ってるでしょ」


「……ええ、まあ」


「で、零が二週間も家に帰ってこない。緋雪ちゃんが嘘をついてまで隠してる」


 澪の目が、す、と細くなった。


「……これ、駆け落ちじゃない?」


 由鶴は、二度目の咳き込みをした。


 今度は、本気で喉が痛んだ。


「……駆け落ち、ですか」


「そう」


 澪は、真顔だった。

 冗談で言っているのではない。彼女の中では、この仮説が本気の候補として検討されているのだ。


「あの子、真面目だから。付き合ってることを私たちにちゃんと言えなくて。でも、緋雪ちゃんとはもう離れられなくて」


「……」


「それで、緋雪ちゃんの実家に転がり込んで、ずっと二人で——」


「澪さん」


 由鶴は、静かに遮った。


 このまま放置すれば、澪の想像はどこまでも膨らんでいく。

 その想像が真実からどれほど遠いかを知っている由鶴には、それを止める義務があった。


「それは、さすがに飛躍しすぎです」


「そう?」


「弟さんは高校生です。学校を二週間も無断欠席してまで、そのような真似をなさる方には見えません」


「……まあ、それはそうね」


 澪は、腕を組んで唸った。


 自分でも、無理があると分かっているのだろう。

 だが、他に説明がつかない。だから、無理のある仮説に縋るしかない。


「じゃあ、なに。……なんで零は帰ってこないの」


 由鶴は、答えられなかった。


 彼女自身、その理由の全容が分からないからだ。

 いや、正確には——推測はある。だが、それを口にすることは、あまりにも重すぎた。


 その日の午後。


 白百合の盾・本部の廊下。


 任務から戻った緋雪は、廊下の角を曲がったところで足を止めた。


 そこに、澪が腕を組んで立っていたからである。


 壁に背を預け、じっと廊下の向こうを見つめている。

 偶然通りかかったのではない。明らかに、緋雪を待ち伏せていた。


「……澪さん」


「緋雪ちゃん。ちょっといい?」


 その声は、静かだった。

 だが、その静かさが逆に恐ろしかった。


 緋雪は、任務用の装備を抱えたまま、一瞬だけ逃げ道を探した。

 だが、廊下の反対側には他の隊員がいる。ここで不自然に踵を返せば、それこそ怪しまれる。


「……ええ」


 人気のない休憩室。


 自動販売機の低い唸りと、遠くから聞こえる訓練場の喧騒。

 窓際のパイプ椅子は、冬の日差しにほんのりと温まっていた。その中で、二人は向かい合って座った。


「単刀直入に聞くね」


 澪は、静かに切り出した。


「白百合に、後方支援研修なんてないよね」


 緋雪の呼吸が、止まった。


 覚悟はしていた。澪が疑っていることは、昨日の時点で分かっていた。

 だが、こうも早く、こうも直接的に切り込まれるとは思っていなかった。


「……調べたんですか」


「調べた。由鶴さんにも聞いた」


「……そう、ですか」


「で、零はどこにいるの」


 緋雪は、しばらく答えられなかった。


 膝の上で組んだ手に、じわりと汗が滲む。

 言い訳を考えようとする頭が、空回りしている。


「……申し訳ありません」


 やがて、彼女は静かに頭を下げた。


「研修の話は、嘘です」


「知ってる」


「ですが、零くんが無事なのは本当です。……それだけは、信じてください」


「それも、信じてる」


 澪は、静かに頷いた。


 そこには、責める色はなかった。ただ、疲れたような、諦めたような、それでいて決して引き下がらない意志だけがあった。


「じゃあ、なんで隠すの」


 緋雪は、答えられなかった。


(……言えない)


 零がゴーストであること。変身が解けなくなっていること。

 そのどちらも、澪に告げるわけにはいかなかった。


 前者は零自身が守り続けてきた秘密であり、後者はその秘密が崩壊しかけていることの証明である。


 十一年間、彼がたった一人で抱えてきたものを、自分が勝手に明かしていいはずがない。


 沈黙が続く中。


 澪の表情が、徐々に変わっていった。


 困惑から、疑念へ。そして——何かに思い当たったような、奇妙な確信へ。


「……緋雪ちゃん」


 彼女は、僅かに身を乗り出した。


「まさか、本当に囲ってるの?」


「……は?」


「零を。緋雪ちゃんの実家かどこかに、二人だけで」


「ち、違います!」


 緋雪は、勢いよく首を振った。


「そんな、そんなことは——!」


 その顔は、耳まで真っ赤になっていた。


 だが、その反応が——最悪だった。


 緋雪の動揺には、二つの理由があった。


 一つは、澪の推測が「囲っている」という点においては正しいこと。零は確かに、緋雪の実家にいる。

 もう一つは、その理由が「二人きりの甘い生活」などではまったくないこと。彼は変身が解けず、社会から切り離され、毎日鏡の中の見知らぬ少女と向き合っている。


 緋雪が真っ赤になったのは、後者の理由を口にできないもどかしさと、前者を誤解された恥ずかしさが、同時に襲ってきたからだった。


 だが、澪にはそう見えない。


 結果として、緋雪は「囲っている」という部分だけを否定できず、「そういう関係ではない」という部分だけを必死に否定するという、極めて不自然な反応を示すことになった。


「……ふうん」


 澪の目が、す、と細くなった。


「否定するにしては、随分と赤いわね」


「こ、これは、その」


「否定してるのは『二人きりでいちゃついてる』って部分だけで、『囲ってる』って部分は否定してないよね」


「……っ」


 緋雪は、完全に固まった。


 魔獣の群れを前にしても揺るがない『氷の女王』が、パイプ椅子の上で石像のように硬直している。

 白百合の隊員が見たら、目を疑う光景だっただろう。


 その時。


 休憩室のドアが開いた。


「——羽衣さん。少しよろしいでしょうか」


 入ってきたのは、由鶴だった。


 彼女は、室内の空気を一瞥した。


 真っ赤になって固まった緋雪。腕を組んで彼女を睨む澪。

 その構図だけで、状況を理解するには十分だった。


「……お取り込み中でしたか」


「由鶴さん」


 澪が、振り返った。


「ちょうどいいわ。あなたも見て」


 彼女は、緋雪を指差した。


「これ、どう思う?」


 由鶴は、しばらく緋雪を観察した。


 その観察は、情報班のトップとしての職業的なものだった。

 瞳孔の開き。呼吸の速さ。手の位置。視線の逃げ方。


 そして、静かに告げた。


「……羽衣さんの反応は、明らかに何かを隠している時のものですね」


「でしょ!」


「ただし」


 由鶴は、眼鏡の位置を直した。


「隠しているものが、澪さんの推測と一致しているかどうかは、別問題です」


「どういうこと?」


「羽衣さんは、『囲っている』という部分については否定していません。ですが、その理由については、澪さんの想像とは異なる可能性が高い」


 由鶴は、淡々と続けた。


「顔の赤さは、恥ずかしさによるものです。ですが、その恥ずかしさが『恋人と二人きり』であることに由来するのか、あるいは『まったく別の、口にできない事情』に由来するのか」


「……別の事情?」


「はい。……例えば、弟さんが何らかの状態にあり、それを家族に見せられないような」


 その分析に、緋雪の顔から血の気が引いた。


(……由鶴、あなた)


 由鶴の言葉は、慎重に選ばれていた。

 澪に対しては「駆け落ちではない」という方向に思考を導き、緋雪に対しては「あなたの事情を、私は察している」と暗に告げている。


 二人に向けて、同時に別のメッセージを送っているのだ。


「……見せられない状態って、なに」


 澪が、低い声で問うた。


「分かりません」


 由鶴は、正直に答えた。


 推測はある。だが、確証はない。そして、確証のないことを口にするのは、情報班の矜持に反する。


「ですが、緋雪の反応から推測するに、少なくとも『駆け落ち』ではないでしょう」


「……じゃあ、何なの」


「それは、緋雪にお聞きください」


 二人の視線が、緋雪に集中した。


 緋雪は、しばらく俯いていた。


 膝の上で、両手を固く組んでいる。

 その指先が、微かに震えていた。


 やがて、彼女は静かに顔を上げた。


「……申し訳ありません。今は、言えません」


「緋雪ちゃん」


「ですが、必ず話します」


 緋雪は、まっすぐに澪を見つめた。


「零くんが……零くん自身が、話せるようになったら。その時は、必ず」


「……」


「それまで、待っていただけませんか」


 澪は、しばらくその目を見つめていた。

 その視線の奥に、緋雪の必死さと、そして——何か、言葉にできない重いものがあることを、彼女は感じ取ったようだった。

 深いため息が、休憩室に落ちた。


「……あと一週間」


「え?」


「研修の延長、一週間って言ったでしょ。……それまでは、待つ」


 澪は、静かに立ち上がった。


「でも、それを過ぎたら」


 彼女は、扉に手をかけた。


「私は、緋雪ちゃんの実家に乗り込むから」


 扉が閉まる音は、思いのほか静かだった。


 澪が去った後。

 休憩室には、緋雪と由鶴だけが残された。

 自動販売機の唸りが、やけに大きく聞こえる。

 緋雪は、しばらく扉を見つめたまま動かなかった。


「……由鶴」


 やがて、彼女は静かに呟いた。


「あなた、どこまで気づいているの」


「……さあ」


 由鶴は、視線を逸らした。


「私は、情報班です。データに基づいて分析しているだけで」


「嘘ね」


「……」


「あなた、今『弟さんが何らかの状態にある』って言ったわよね」


 由鶴は、答えなかった。


「……それ、どういう意味?」


 由鶴は、しばらく無言だった。


 言うべきか、言わざるべきか。

 彼女は、この数日間、何度もその問いを自分に投げかけてきた。


 だが、緋雪の目を見た瞬間、答えは決まった。

 この人は、これ以上一人で抱えるべきではない。


「羽衣さん」


「なに」


「一つだけ、お聞きします」


 由鶴は、まっすぐに緋雪を見つめた。


「三神くんは、今——ゴーストの姿で、いらっしゃるのではありませんか」


 緋雪の呼吸が、完全に止まった。


「……なぜ」


 やがて、緋雪は掠れた声で問うた。


「なぜ、そう思うの」


「消去法です」


 由鶴は、淡々と答えた。


「三神くんが姿を消した時期と、ゴーストが奈緒さんを保護した時期は一致しています。あなたは、その現場にいた」


「……」


「そしてその後、ゴーストが確認されたのはただ一度。山間部に出た魔獣を、うちの巡回部隊より先に片付けた時だけです。……あの山は、羽衣さんのご実家の洋館がある山域ですね」


 緋雪の指先が、ぴくりと動いた。


「そして、三神くんは帰ってこない。あなたは嘘をついてまで彼を匿い、その理由を『彼自身が話せるようになるまで』と表現した」


 由鶴は、静かに続けた。


「『話せるようになる』——つまり、今は話せない状態にある。……ならば、彼が今どんな姿でいるのか、推測は一つしかありません」


 緋雪は、しばらく言葉を失っていた。


 そして、静かに顔を覆った。


「……由鶴。あなた、本当に」


「申し訳ありません」


 由鶴は、深く頭を下げた。


「これ以上は、聞きません。……ですが、一つだけ」


「……なに」


「私にできることがあれば、言ってください」


 由鶴は、静かに告げた。


「あの装置の解析について、星監とは別の視点から協力できるかもしれません。……協会の技術開発部門の刻印について、追跡を続けていますから」


 緋雪は、顔を上げた。


 その目には、涙が滲んでいた。

 この二週間、誰にも打ち明けられずに張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ顔だった。


「……ありがとう」


 同じ頃。


 山中の洋館では。


 零が、窓辺で静かに夕暮れを眺めていた。


 今日も、鏡の前で髪を結び、化粧水を塗り、緋雪から教わった手順で朝を始めた。

 朝食を作り、洗濯物を干し、午後には隣県のスーパーへ買い出しに出た。


 その一連の動作に、もはや何の躊躇もなかった。


 最初の一週間で覚えた「女性としての生活」は、二週目に入って完全に身体に染み込んでいる。

 鏡を見ても心臓は跳ねない。髪を梳く指は迷わない。声も、口調も、自然にゴーストのものになっている。


 洗濯物を畳む手つきさえ、以前とはどこか違っていた。

 ブラウスの袖を揃える指先が、自分でも気づかないうちに、姉のやり方をなぞっている。


(……あと一週間、か)


 彼女は——いや、彼は、静かに息を吐いた。


 その「彼女」と「彼」の境界が、自分の中でどこにあるのか。

 零は、それを考えるのが少しだけ怖くなっていた。


(それまでに、何か変わるといいけど)


 山の稜線に、最後の陽が引っかかっている。

 それが沈みきるまで、零は窓辺を動かなかった。


 窓の外では、冬の日が静かに沈んでいった。


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