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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百四十一話

 変身が解けなくなって、一週間が過ぎた。

 この間、零が直面した困難は、魔獣との戦闘でも、政府の陰謀でもなかった。

 もっと地味で、もっと切実な——生活そのものだった。

 特S級の魔力があれば、大抵のことは解決できると思っていた。

 だが、魔力では髪も乾かせないし、服も着られない。空間を裂いて跳躍できる少年が、洗面所の前で立ち往生しているのである。


 最初の関門は、風呂だった。


 洋館の浴室は、古いながらも手入れが行き届いていた。緋雪が定期的に管理していたおかげだろう。

 磨き込まれたタイルも、真鍮の蛇口も、どこか異国めいた趣がある。湯を張れば、それだけで小さな旅館のような風情になった。

 問題は、設備ではなく、零自身にあった。

 初日、脱衣所で服を脱ぎ終えた零は、そのまま三分近く動けなかった。

 当たり前のことだが、風呂に入るには身体を洗わねばならない。

 そして、身体を洗うには、自分の身体に触れねばならない。


(……いや、待て)


 彼は、天井を仰いだ。

 古い洋館の天井には、細かなひび割れが走っている。その一本一本を、零は無意味に目で追った。


(落ち着け。これは俺の身体だ。ただの、俺の身体だ)


 そう言い聞かせても、視線をどこに向ければいいのか分からない。

 鏡は見られない。下も見られない。結局、彼は洗い場の壁の一点を凝視したまま椅子に座った。

 湯気で曇った壁のタイル。その目地の一つを、零はひたすら睨みつけていた。

 実際に洗い始めてからも、状況は改善しなかった。

 手のひらに感じる感触が、あまりにも自分のものではなかった。


 骨格が違う。肌の質感が違う。腕の細さも、肩の丸みも、腰のくびれも——十六年間慣れ親しんだ身体とは、まるで別物である。


 これまでも、ゴーストの姿で何百回と戦ってきた。だが、戦闘中は魔力の高揚で意識が飛んでいる。敵の位置、魔力の流れ、退路の確保——考えるべきことが多すぎて、自分の身体の造りなど気にする余裕は一度もなかったのだ。

 湯気に満たされた静かな浴室で、その事実だけが、逃げ場もなく突きつけられていた。

 零は、可能な限り最短時間で作業を終えようとした。

 だが、急げば急ぐほど、意識してしまう。


(……っ!)


 結局、彼は目を固く閉じたままとはいかず、体を極力見ないようにしつつも好奇心にはあらがえなかった。

 そして、何とか洗い終えた。

 その結果、背中とふくらはぎを洗い忘れ、翌日やり直す羽目になった。

 湯船に浸かった時、零はようやく人心地ついた。


 古い洋館の浴槽は、思いのほか深い。肩まで沈むと、張り詰めていた何かが、ゆっくりと湯に溶けていくようだった。

 だが、そこでまた新しい問題に気づく。


 湯に浮かんだ長い黒髪が、身体にまとわりついてくるのだ。

 払っても払っても、湯の流れに乗って戻ってくる。まるで意思を持った海藻のようだった。


(……髪、まとめてから入るのか)


 彼は、この時初めて、姉と妹が入浴前に髪をタオルで巻いていた理由を理解した。

 あれは面倒な儀式などではなく、必要に迫られた手順だったのだ。

 そして、最大の関門が待っていた。


 髪だ。


 背中まで伸びた黒髪は、洗うだけで途方もない労力を要した。

 これまでの短髪なら、シャンプーを一度泡立てて流せば終わりだった作業が、まるで別物になっている。

 量が多い。長い。絡まる。すすいでも泡が落ちきらない。

 毛先まで指を通そうとすると、途中で引っかかって進まなくなる。無理に引けば、頭皮が悲鳴を上げた。

 初日は、洗い終えるまでに三十分以上かかった。

 しかも、そこからが本番だった。

 濡れた長髪は、恐ろしく重い。

 水を吸った黒髪は、まるで濡れたロープのように背中に張り付いてくる。首を動かすたび、その重みが引っ張られる感覚があった。

 タオルで拭いても拭いても水気が抜けず、放置すれば服も背中もびしょ濡れになる。

 零は、タオルを頭に巻いたまま途方に暮れることになった。

 結局、翌日訪れた緋雪に相談する羽目になった。

 彼女は、話を聞いて静かに頷いた。


「……乾かし方を、教えるわ」


 その日、緋雪はドライヤーを持参してきた。

 タオルで水気を吸わせる手順。根元から乾かすこと。毛先は最後に、冷風で仕上げること。

 髪を傷めないための、細かな作法。

 緋雪の説明は、驚くほど丁寧だった。

 彼女は零の背後に立ち、実際に手を動かしながら、一つ一つ手順を確かめさせていく。ドライヤーの温風の音に負けないよう、少しだけ声を張って。


「根元が乾いていないと、いつまでも湿ったままなの。毛先ばかり乾かしても意味がないわ」


「……なるほど」


「それと、熱を一箇所に当て続けないこと。……髪は、思っているよりずっと傷むから」


 零は、鏡の前に座って、その手順を必死に頭に叩き込んだ。

 鏡の中では、見知らぬ少女が、真剣な顔でドライヤーの風を受けている。

 その背後に立つ緋雪の表情は、任務のブリーフィングをしている時と、まったく同じ真剣さだった。


 次の関門は、衣服だった。


 澪と玲奈が選んだ白いブラウスとデニムのスカート。それ自体の着脱は、特に問題なかった。


 問題は、その下である。


 零は、初日にそれを手に取って十分近く固まった後、静かに紙袋へ戻した。

 だが、いつまでも避けているわけにもいかない。

 二日目、彼は覚悟を決めて挑戦した。


 結果は、惨敗だった。


 構造が理解できない。

 留め具の位置が背中にある理由が分からない。

 どの方向に力をかければ留まるのか、まったく見当がつかない。指先の感覚だけを頼りに背中で作業するというのは、想像していた以上に無理のある行為だった。

 肩をひねる。腕が攣りかける。手を替える。今度は反対側が届かない。

 零は、洗面所で三十分近く格闘した末に、腕を攣らせて崩れ落ちた。

 その日の夕方、緋雪が訪れた時。

 零は、床に座り込んだまま、生気の抜けた顔で天井を見上げていた。


「……零くん?」


「……緋雪さん」


 彼は、掠れた声で答えた。


「……女の人はみんなすごいわね」


「……なんの話?」


 事情を聞いた緋雪は、一瞬にして耳まで真っ赤になった。


「そ、そういうことは……もっと早く言いなさいよ!」


「言えるわけないでしょっ!」


「言いなさいよ! こっちだって、そういうこともあるだろうと思って持ってきたのよ!」


 互いに顔を真っ赤にしたまま、しばらく無言の時間が流れた。

 窓の外で、風が鳴っている。その音だけが、やけに大きく聞こえた。

 やがて、緋雪が深く息を吐いた。


「……分かったわ。教える」


「え」


「後ろで留めるから難しいのよ。前で留めてから回せばいいの」


 彼女は、視線を斜め下に固定したまま、早口で説明した。


「留め具は三段階になっていて、身体に合わせて調整するの。きつすぎても、緩すぎてもダメ。……それから」


 説明は、五分ほど続いた。

 その間、二人は一度も目を合わせなかった。

 なお、それ以外の生活動作についても、零は数々の困難に直面していた。

 特に、日に何度も訪れる不可避の用事については、初日に相当な混乱があった。

 この件については、本人の名誉のため、詳細は伏せることとする。

 ただ一つ言えることは、零がその日、生まれて初めて「世の中の女性は毎日こんなことを」と本気で感嘆したという事実だけである。

 身だしなみについても、覚えることは山ほどあった。


 肌の手入れ。

 零はこれまで、洗顔後に何かを塗るという習慣を持っていなかった。石鹸で洗って、タオルで拭く。それで十分だと思っていたし、実際、元の身体では何の問題も起きなかった。

 だが、冬の乾燥した山中でそれを続けた結果、三日目には頬がカサカサになっていた。

 鏡に近づいて見ると、白い肌の表面が、うっすらと粉を吹いている。

 緋雪は、それを見て呆れた顔をした。


「……あなた、化粧水使っていないの?」


「使ったことないわ、そんなの」


「まったく」


 彼女は、翌日きちんと基礎化粧品一式を持ってきた。

 洗顔の後、化粧水を手のひらで温めてから押し込むように馴染ませること。

 その後、乳液で蓋をすること。

 こすらないこと。叩かないこと。時間を置かずに続けて行うこと。


「肌は、放っておけば必ず荒れるわ。……特に、あなたの今の肌は繊細だから」


 零は、鏡の前で不器用にそれを実践しながら、姉と妹が毎朝洗面所を占領していた理由を、また一つ理解した。

 あれは怠慢でも道楽でもなく、毎日欠かせない作業だったのだ。


 爪の手入れも同様だった。


 ゴーストの手は、驚くほど細く、爪も薄い。

 これまで通り雑に切っていたところ、あっという間に割れてしまった。

 台所仕事で鍛えられた元の爪は、多少乱暴に扱っても平気だった。だが今の指先は、少し引っかけただけで欠けてしまう。

 緋雪は、それを見て小さくため息をついた。


「……爪切りじゃなくて、ヤスリを使いなさい」


「ヤスリ?」


「そう。切った後に、断面を整えるの。……そうしないと、引っかかって割れるわ」


 彼女は、そう言いながら零の手を取った。

 そして、慣れた手つきでヤスリを当て始める。

 しゃり、しゃり、と乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。

 零は、その様子を黙って見つめていた。

 自分の手のひらが、他人の手に包まれている。

 その手は、白百合の盾のトップエースの手であり、数え切れない魔獣を屠ってきた手でもある。

 剣を握るために硬くなった指の付け根も、そこにはあった。

 だが今、その指先はひたすら丁寧に、爪の断面を整えていた。

 一週間が過ぎる頃には、零は最低限の生活動作を習得していた。

 髪を洗い、乾かし、結ぶ。

 衣服を正しく着る。

 肌と爪を手入れする。

 どれも、世の中の女性が当たり前にこなしていることだ。

 だが、それを一から覚えるというのは、想像を絶する労力を要した。

 これまで零は、自分のことを「家事のできる人間」だと思っていた。料理も掃除も洗濯も、家族の誰よりも手際よくこなせる自信があった。

 だが、それは「三神零の身体」という前提の上に成り立っていた技能に過ぎなかったのだ。


 そして、それ以上に。

 零を苦しめていたのは、身体感覚そのものだった。

 重心の位置が違う。歩幅が違う。腕の長さが違う。

 視線の高さが十センチ以上低いだけで、見える景色がまるで変わる。

 棚の二段目にあるはずのものが、見上げる位置にある。

 すれ違う人の顔が、少しだけ上にある。

 いつも通りに手を伸ばしたつもりで、指先が空を切る。

 最も戸惑ったのは、力の入り方だった。

 これまで無意識にできていた動作——例えば、水の入ったペットボトルの蓋を開けるとか、重い扉を押し開けるとか——が、微妙に重く感じられる。

 魔力を使えば問題ない。魔力を通せば、この細腕でも鉄骨を引きちぎれる。

 だが、日常でいちいち魔力を使うわけにはいかない。ペットボトル一本のために特S級の魔力を練る魔法少女など、聞いたこともなかった。

 零は、その事実に静かな恐怖を覚えていた。


(……俺は、この身体で戦ってきたはずなのに)


 戦えるのに、暮らせない。

 その歪さが、日を追うごとに重くのしかかってくる。

 だが、彼が本当に恐れていたのは、別のことだった。

 慣れ、である。


 五日目には、髪を結ぶのが日課になった。

 六日目には、朝の肌の手入れを忘れなくなった。

 七日目には、階段を踏み外さなくなった。


 身体が、この形に馴染み始めている。


 初日はあれほど震えた指先が、今では迷いなく留め具を探り当てる。

 鏡の中の少女を見ても、もう心臓が跳ねなくなった。


(……まずいな)


 零は、鏡の前でそう思った。


(このままだと、俺は)


 その先を言葉にするのが、彼は怖かった。


 その日の夜。


 夕食の後、零は思い切って緋雪に問うた。


「……緋雪さん」


「なに?」


「私が、このまま戻れなかったら」


 その言葉に、緋雪の手が止まった。


 湯呑みに注がれていた茶が、揺れて止まる。


「……どうなると思う?」


 彼女は、しばらく答えなかった。


 やがて、静かに湯呑みを置いた。

 陶器がテーブルに触れる、小さな音が響く。


「……そうね」


 緋雪は、まっすぐに零を見つめた。

 誤魔化しも慰めもない、まっすぐな視線だった。


「まず、あなたは三神零として生きられなくなる」


「……ええ」


「学校にも行けない。家にも帰れない。家族にも会えない。……戸籍上は行方不明者になるでしょうね」


 彼女の声は、驚くほど冷静だった。

 それは、この一週間、彼女自身が何度も考え続けてきた結論なのだろう。


「あなたが今持っている日常は、全部なくなるわ」


 零は、しばらく黙っていた。

 やがて、掠れた声で問うた。


「……それでも、緋雪さんは」


「ええ」


 緋雪は、即答した。

 考える間すら、置かなかった。


「隣にいるわ」


 その一言に、零は顔を上げた。


「あなたが三神零でも、ゴーストでも。……私が好きになったのは、姿じゃないもの」


 緋雪は、静かに続けた。


「あなたが、誰かのために台所に立つ人だから。困っている人を放っておけない人だから。……そういう中身を、好きになったの」


 彼女は、テーブル越しに手を伸ばし、零の手をそっと握った。

 その手は、少しだけ冷たかった。

 この一週間、彼女がどれだけの時間を洋館と本部の往復に費やしてきたのかを、その冷たさが語っていた。


「だから、どっちの姿でも構わないわ」


 零は、しばらく言葉が出なかった。

 やがて、彼は静かに首を振った。


「……ありがとう」


「ええ」


「でも、私は」


 彼は、握られた手を見つめた。


「戻りたい。……戻らなきゃいけないわ」


「……分かってるわ」


「玲奈が、私の飯を待ってる。姉ちゃんも、母さんも。……稔も、学校で心配してる」


 零の声が、震えた。

 脳裏に浮かぶのは、大したことのない光景ばかりだった。

 朝の台所。三人分の弁当箱。玲奈が卵焼きを一つ多くねだる声。澪が寝癖のまま降りてくる足音。母が「今日も美味しいわねぇ」と笑う顔。

 守りたかったものは、いつだってその程度の、ささやかなものだったのだ。


「あの人たちのところに、帰りたいんだ」


 緋雪は、しばらく無言だった。

 やがて、彼女は握った手に力を込めた。


「……ええ」


 その声は、優しかった。


「帰りましょう。……絶対に」


 窓の外では、雪がちらつき始めていた。

 山の夜は、都心よりも早く更ける。灯りの一つもない闇の中を、白い粒が音もなく落ちていく。

 零は、緋雪の手の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。


(……大丈夫だ)


 彼は、自分に言い聞かせた。


(星監も、福音も、全力で解析してくれてる。……必ず、方法は見つかる)


 根拠のない確信だった。

 だが、そう思わなければ、この一週間を数えることさえ辛かった。

 だが、その一週間後。

 零を待っていたのは、解析の成功ではなかった。


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