第二百四十話
変身が解けなくなって、四日目。
零は、洗面台の前で三十分近く格闘していた。
原因は、髪である。
背中まで伸びた黒髪は、寝癖がつくと恐ろしく厄介だった。
後頭部が盛大に跳ね、毛先はあちこちを向いている。適当に手櫛で撫でつけたところで、まったく収まる気配がない。
これまで、変身は数時間で解けていた。
寝癖などという概念とは、無縁の存在だったのだ。
(……どうすんだ、これ)
零は、鏡の中の自分を睨みつけた。
澪も玲奈も髪が長い。毎朝洗面所を占領していた理由が、今になってようやく理解できた。
結局、緋雪に助けを求めることになった。
彼女は、洗面所に呼ばれた理由を聞いて、静かに笑いを堪えていた。
「……分かったわ。座って」
零を椅子に座らせると、緋雪は霧吹きと櫛を手に取った。
まず髪全体を軽く湿らせ、根元から丁寧に梳かしていく。
その手つきは、驚くほど慣れていた。
「トップエースって、こういうのも上手いんだね」
「毎朝、自分でやってるもの」
緋雪は、櫛を動かしながら答えた。
「それに、真奈が寝癖をつけてくる日が多いから。……あの子の髪、何度も直してあげてるのよ」
零は、黙って鏡の中を見つめていた。
背後に立つ緋雪の、真剣な横顔。
そして、椅子に座って髪を梳かされている、見慣れない少女の姿。
(……変な感じだ)
彼は、少しだけ落ち着かない気分になった。
その日から、零の朝は「髪を結ぶ」という工程が加わった。
緋雪に教わりながら、まずは低い位置で一つに束ねる練習を始めた。
だが、これが恐ろしく難しい。
後ろ手で髪をまとめる感覚が掴めない。指が滑る。毛束の量が均等にならない。ゴムを通そうとした瞬間に全部崩れる。
三日目にしてようやく、緩いながらも一つ結びができるようになった。
その日、洋館を訪れた緋雪は、後ろで髪を束ねた零の姿を見て——しばらく無言で固まった。
「……どうかした?」
「……いえ、なんでもないわ」
彼女は、慌てて顔を背けた。
その耳が、微かに赤くなっていた。
困りごとは、髪だけではなかった。
まず、歩き方である。
ゴーストの姿になると、身長が十センチ以上縮む。重心の位置も、腰の据わり方も、まるで違う。
戦闘中は魔力で補正がかかるため気にならなかったが、日常動作となると話は別だった。
階段を降りる時、無意識に元の身体の感覚で足を出してしまい、何度も踏み外しかけた。
棚の上のものを取ろうとして届かず、椅子を持ってくる羽目になった。
ドアの取っ手の位置が、微妙に高く感じられた。
(……こんなに違うのか)
零は、自分がこれまでどれだけ無意識に身体を使っていたかを痛感していた。
そして、声。
これが、最も深刻な問題だった。
ゴーストの声は、完全に女性のものである。
しかも、澄んだ、どこか凛とした響きを持つ声だ。
零は、この四日間で数え切れないほど、この声に裏切られていた。
うっかり素の調子で喋ると、その内容と声質のちぐはぐさに、自分で鳥肌が立つ。
かといって意識してゴーストらしく喋ろうとすると、日常会話が異様に芝居がかってしまう。
結果として、零は洋館ではほとんど無口になっていた。
「……無理に喋らなくてもいいわよ」
緋雪は、そんな零の様子に気づいて、静かに言った。
「私は、あなたの声がどっちでも気にしないから」
その一言に、零は少しだけ救われた気がした。
変身解除不能となって、五日目。
零は、初めて洋館の外へ出た。
理由は単純だった。魔獣の反応が、山の麓に出たのである。
緋雪から通報が入ったのは、夕方のことだった。
白百合の巡回部隊が到着するまで、二十分以上かかる位置。しかも、近くにハイキングコースがある。
零は、迷わなかった。
現場に降り立ったゴーストは、二体の中型魔獣を前に静かに手を上げた。
いつも通りの、深淵の重圧。
魔獣たちは、地面に叩き伏せられ、身動き一つできないまま沈黙した。
巡回部隊が到着した時には、すでにすべてが終わっていた。
その光景に、隊員たちは呆然としていた。
世論では暴走したテロリストとされているはずの死神が、彼らより先に現場に到着し、被害を出す前に事態を収めていたのだ。
ゴーストは、彼らに一瞥もくれず、影の中へと沈み込んだ。
洋館に戻った零は、深く息を吐いた。
(……戦闘は、問題ないな)
変身が解けないという以外、能力に一切の支障はない。
むしろ、常時変身状態であるぶん、初動が速くなっているとすら言えた。
だが、それは同時に、別の問題も示していた。
(……このまま、ずっと戦い続けることはできる)
零は、窓の外を見つめた。
(でも、それは「三神零としての生活を捨てる」ってことだ)
六日目。
零は、都内の極秘ラボを訪れていた。
目的は、奈緒の見舞いである。
彼女は三日前に意識を取り戻し、今は簡素な病室で療養していた。
呪符は完全に破壊され、もはや彼女を縛るものは何もない。
病室の扉を開けると、奈緒はベッドの上で膝を抱えて座っていた。
備え付けの検査着姿。肩まで伸びた黒髪は、寝乱れたままである。
そして、零の姿を見た瞬間、その紅色の瞳が大きく見開かれた。
「……あ」
「来てくれたの」
奈緒は、勢いよくベッドから降りようとして、レイラに慌てて止められた。
「奈緒さん、まだ安静に!」
「……はい」
彼女は、素直にベッドへ戻った。
零は、静かに椅子を引いて腰を下ろした。
「……体調は、どう?」
「へいき」
奈緒は、こくりと頷いた。
「ごはんも、たべた。……あと、名前も、ちゃんと覚えてる」
彼女は、少しだけ得意げに胸を張った。
「なお。……わたしは、奈緒」
その言葉に、零の胸が温かくなった。
この五日間、奈緒はレイラや星監の医療スタッフから、少しずつ言葉と生活を教わっていた。
箸の持ち方。服の着方。挨拶の仕方。
物心ついてから、ずっと番号で呼ばれ、白い部屋で管理されていた少女には、そのすべてが未知の体験だった。
彼女の言葉遣いはまだ幼く、たどたどしい。
だが、その目には確かな光が宿るようになっていた。
「ねえ」
しばらくして、奈緒がふと零を見上げた。
「あなたは、いつもその格好なの?」
その問いに、零の動きが止まった。
「……え?」
「その、黒い服。……ずっと着てるでしょう」
奈緒は、無邪気に首を傾げた。
「わたし、前に会った時も、その前も、ずっとその格好だなって」
零は、しばらく答えられなかった。
彼女に悪意はない。
ただ、生まれてから一つの姿しか持たなかった少女が、素朴な疑問を口にしただけだ。
だからこそ、その問いは深く刺さった。
「……そうね」
零は、静かに答えた。
「今は、そうなの」
「今は?」
「ええ。……ちょっと、事情があって」
奈緒は、しばらく零の顔を見つめていた。
そして、こくりと頷いた。
「そっか。……大変だね」
それだけだった。
彼女は、それ以上何も聞かなかった。
零は、その素っ気なさに、なぜか救われた気がした。
その後、零は一時間ほど奈緒の相手をした。
といっても、特別なことをしたわけではない。
レイラが用意した絵本を、二人で眺めた。
奈緒はまだ読める字が少なく、零が代わりに読み上げることになった。
声はゴーストのものだったが、奈緒は気にしなかった。
彼女にとって、この声こそが「名前をくれた人の声」なのだ。
「……この動物、なんていうの」
「猫よ」
「ねこ」
「そう。……可愛いでしょう」
「うん」
奈緒は、絵本の猫を指でそっとなぞった。
「……本物、見たことない」
その言葉に、零は静かに息を呑んだ。
この少女は、物心ついてから、あの白い部屋しか知らなかった。
猫も、犬も、花も、雨も、雪も。
窓の外に広がる世界のすべてを、彼女は知らないのだ。
「……いつか、見に行きましょう」
零は、静かに告げた。
「え?」
「猫も、他のものも。……全部、あなたに見せてあげる」
奈緒は、しばらく零の顔を見つめていた。
そして、はにかむように微笑んだ。
「……うん」
病室を出た後。
廊下でレイラが待っていた。
「……ありがとうございます」
彼女は、深く頭を下げた。
「あの子、あなたが来る日は本当に嬉しそうなんです」
「……そう」
「昨日から、ずっと『次はいつ来るの』って聞かれていて」
レイラは、困ったように微笑んだ。
「私たちがどれだけ丁寧に接しても、あの子が本当に心を許しているのは、あなただけみたいで」
零は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに問うた。
「……あの子の、記憶は」
「断片的なままです」
レイラは、静かに首を振った。
「周防凛音さんの記憶は、彼女自身の記憶ではありませんから。……おそらく、あの男の子の場面以外は、これ以上戻らないでしょう」
「……そう」
「ただ」
レイラは、僅かに表情を和らげた。
「あの子は、それでいいと言っています」
「え?」
「『わたしには、これから作る記憶があるから』と」
その夜。
洋館に戻った零は、二階の窓辺に座っていた。
膝の上には、緋雪が持ってきてくれた櫛が置かれている。
今日は、自分で髪を梳かして、自分で結ぶことができた。
(……慣れてきたな)
彼は、そう思って——すぐに、その考えを打ち消した。
零は、静かに拳を握りしめた。
(俺は、戻らなきゃいけない)
だが、彼の頭には、今日の奈緒の言葉が残っていた。
『わたしには、これから作る記憶があるから』
過去を持たない少女が、そう言って前を向いている。
それに比べて、自分はどうだろうか。
(……俺は、戻ることばかり考えてる)
零は、窓の外の星空を見上げた。
(それは、悪いことじゃないはずだ。……家族がいる。学校がある。守りたい日常がある)
彼は、静かに息を吐いた。
(でも、もし。……もし、戻れなかったとしたら)
その先を、彼はまだ考えることができなかった。
階下から、控えめなノックの音が響いた。
扉を開けると、緋雪が夕食の入った保温バッグを提げて立っていた。
彼女は、零の髪を見て——僅かに目を見開いた。
「……自分で結んだの?」
「うん。ようやく、まともにできるようになった」
「……そう」
緋雪は、少しだけ複雑な表情を浮かべた。
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
彼女自身、判断がつかないようだった。
その夜の食卓には、少しだけ形の整った卵焼きが並んでいた。
「上手くなったね」
「……三日連続で作ったもの」
緋雪は、少しだけ得意げに答えた。
「明日は、煮物に挑戦するわ」
「無理しないでよ」
「無理じゃないわ。……あなたに、美味しいものを食べてほしいだけよ」
零は、しばらくその横顔を見つめていた。
(……ありがとう)
彼は、心の中でそう呟いて、静かに箸を進めた。
窓の外では、冬の星が静かに瞬いていた。




