第二百三十九話
変身が解けなくなって、二日目の朝。
山中の洋館は、静寂に包まれていた。
零は、二階の一室のベッドで目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む冬の朝日が、埃の舞う空気を白く照らしている。
寝返りを打とうとして、彼はすぐに違和感に気づいた。
髪だ。
背中まで伸びた長い黒髪が、寝ている間に身体の下敷きになっていた。
引っ張られて、頭皮が微かに痛む。
零は、のろのろと身を起こし、絡まった髪を手で梳いた。
(……毎朝これか)
これまで変身している時間は、長くても数時間だった。
髪の扱いに困るなどという状況は、一度もなかったのだ。
昨夜、寝る前にも同じ問題に直面していた。
漆黒のゴシックドレスは、魔力によって構成されているが普通に脱げることは以前に実証済みであり、脱いだドレスは魔力となって消える仕組みだ。
しかし、問題は、その下だった。
脱いだ後、鏡に映った自分の姿を見て、零は真っ赤になって固まった。
(……そりゃ、そうか)
変身しているのだから、身体そのものが少女のものになっている。
その事実を、彼は十一年間、ほとんど意識せずに済んでいた。
結局、その夜は緋雪が持ってきた紙袋の中身に助けられた。
中には、着替えが一式入っていた。
それも、零にとって見覚えのあるものだった。
白いブラウスと、デニムのロングスカート。
(……これ)
零は、しばらくその服を見つめて動けなかった。
半年ほど前。
ゴーストとして三神家に押しかけた挙句、澪と玲奈に引きずり回されて、ショッピングモールで着せ替え人形にされたことがある。
あの時、澪が「これが一番マシね」と選んだのが、この組み合わせだった。
ゴーストの姿から戻れた時にクローゼットの奥深くに服の入った紙袋を段ボールに梱包し、ガムテープでぐるぐる巻きにして封印したものだ。
『顔はすっごく可愛いんだから、もっと普通の可愛い服着ればいいのに』
玲奈の無邪気な声が、耳の奥に蘇る。
(……姉さんと、玲奈が選んでくれた服)
零は、静かに息を吐いた。
あの時は、ただひたすら恥ずかしくて、一刻も早く帰りたいとしか思っていなかった。
それが今、自分の生活を支える唯一の着替えになっている。
紙袋の底には、下着も入っていた。
これも、あの日の買い物で押し付けられたものだ。
澪が「服だけじゃダメでしょ」と言い出し、玲奈が大喜びで店に突撃した結果である。
(……何も言わずに、持ってきてくれたんだよな)
零は、複雑な気分でその紙袋を見つめた。
昨夜、これを渡された時。
緋雪は一度も目を合わせず、「……必要でしょう」とだけ言って、すぐに部屋を出ていった。
その耳が真っ赤だったことは、零も気づいていた。
朝、階下に降りると、台所から物音がした。
緋雪が、慣れない手つきでフライパンと格闘していた。
「……おはよう、零くん」
彼女は、振り返って少しだけ照れくさそうに笑った。
「今、朝ごはん作ってるところなの。……もう少しだけ待っていて」
零は、しばらくその後ろ姿を見つめていた。
白百合の盾のトップエース。氷の魔法で数え切れないほどの魔獣を屠ってきた少女が、目玉焼きの黄身を割らないよう必死になっている。
(……手伝いたい)
零は、無意識に一歩前に出た。
だが、そこで足が止まった。
この手で包丁を握れば、その動きは自分のものではない。
鍋を持つ手も、味を見る舌も、すべてが借り物だ。
何より——ここは自分の台所ではない。
「……ううん。座っていて」
緋雪が、振り返らずに言った。
「今日は、私が作るから」
焦げた目玉焼きと、少し塩辛い味噌汁。
それでも、零は黙って全部食べた。
食べ終えた後、緋雪が湯呑みを差し出しながら、静かに切り出した。
「……ご家族には、昨日改めて説明してきたわ」
「なんて?」
「白百合の盾の、後方支援研修だって」
緋雪は、少し疲れた顔で答えた。
「魔法少女の任務には、非戦闘員のサポートが不可欠だから。……一般の男性にも参加してもらって、装備の管理や補給、負傷者の搬送を学んでもらう、っていう名目にしたの」
「……よく思いついたね、そんなの」
「必死だったのよ」
彼女は、深いため息をついた。
「二週間、山の施設に泊まり込み。携帯の電波も入らない場所だから、連絡は取れない。……そう言ってきたわ」
その嘘は、三神家では概ね好意的に受け止められたらしい。
母の奈々美は「零もいよいよ社会に出るのねぇ」と的外れな感慨に浸り、玲奈は「二週間もお兄ちゃんのご飯が食べられないなんて死ぬ」と本気で嘆いたという。
ただ一人、澪だけが違った。
「……お姉さんは、少し怪しんでいたわ」
緋雪は、湯呑みを両手で包みながら呟いた。
「『あの子が家事を放り出すなんて、あり得ない』って」
零の胸が、鈍く痛んだ。
「……姉ちゃんらしいな」
「ええ。でも、それ以上は追及されなかった」
緋雪は、静かに続けた。
「代わりに、こう言われたの。『零のこと、よろしくお願いします』って」
その言葉を聞いた瞬間、零は俯いた。
姉は、何かがおかしいと気づいている。
それでも、追及するのではなく——弟を託すことを選んだのだ。
(……ごめん、姉さん)
零は、静かに拳を握りしめた。
(絶対に、帰るから)
同じ頃。
東京、三神家の隣。
ヴィクトリア・ローゼンベルグは、自宅のリビングの窓から、隣家の様子をぼんやりと眺めていた。
彼女がこの家を購入したのは、言うまでもなく零の動向を把握するためである。
もっとも、最近では純粋に隣人としての交流も楽しんでいたのだが。
その隣家の窓が、ここ数日ずっと暗いままだった。
正確には、家族は普通に生活している。母親も、姉妹も、いつも通りに出入りしている。
だが、あの少年の姿だけが、まったく見えない。
(……妙ね)
ヴィクトリアは、紅茶のカップを口に運びながら思考を巡らせた。
これまで、あの家の朝は決まって彼から始まっていた。
早朝に台所の明かりが灯り、換気扇が回り、しばらくすると味噌汁の匂いが漂ってくる。
それが、ここ数日は一度もない。
同じ頃、スーパー『ヤオヨシ』。
緑色のエプロンを身に纏ったルディア・ロンディニウムは、レジの前で明らかに落ち着きを失っていた。
彼女がこの店でパートを続けている理由は、ただ一つ。
週に二、三度、必ず買い物に訪れるあの少年の姿を、間近で拝むためである。
だが、ここ数日。
彼は一度も、店に姿を見せていない。
(……おかしいですわ)
ルディアは、バーコードをスキャンしながら内心で焦っていた。
(三神くんは、特売日を絶対に外さない方です。昨日は豚こま切れ肉が三割引でしたのに、いらっしゃらなかった)
彼女は、レジ袋に商品を詰めながら、必死に思考を巡らせた。
(ご病気? いえ、それならご家族の誰かが代わりに買い物にいらっしゃるはず。……ですが、妹君も来ていない)
その夜。
福音の鐘と星監の合同連絡会議が、影の結界空間で開かれていた。
議題は、術式切断装置の解析進捗と、実行犯の追跡状況。
だが、その報告が一通り終わった後。
「……ところで、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
ルディアが、そわそわとした様子で切り出した。
「一つ、お尋ねしたいことがございますの」
「なにかしら」
「その……三神くんは、最近お元気でしょうか」
その問いに、ヴィクトリアの動きが止まった。
彼女は、しばらく無言でルディアを見つめた。
「……あなた、気づいていたのね」
「え?」
「隣に住んでいるのは私よ。……あの子、もう三日も家に帰っていないわ」
ルディアの顔から、血の気が引いた。
「三日……!?」
「ええ。台所に立っていない。……あの家で、それはあり得ないことよ」
ヴィクトリアは、静かに脚を組み替えた。
「ご家族に探りを入れたところ、白百合の盾の研修に参加しているという話だったけれど」
「研修……ですか」
「ええ。二週間、山にこもるそうよ」
彼女は、僅かに目を細めた。
「……ずいぶんと、都合のいい話だと思わない?」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
やがて、ルディアが震える声で呟いた。
「……ヴィクトリア・ローゼンベルグ。あなた、まさか」
「言いたいことは分かるわ」
ヴィクトリアは、パラソル型のステッキで軽く床を叩いた。
「あの子が姿を消した時期と、ゴースト様が奈緒を保護なさった時期。……完全に、一致しているのよ」
「……っ」
「そして、この三日間。ゴースト様は一度も、あの洋館から出ていらっしゃらない」
彼女は、静かに続けた。
「そういえば、思い返してみると」
ヴィクトリアの目が、鋭く細められる。
「私たちがゴースト様と直接お会いしている時、三神くんは常にその場にいなかったわね」
ルディアは、しばらく凍りついたように動かなかった。
やがて、彼女は勢いよく首を振った。
「……いえ! いえいえ、それはあり得ませんわ!」
「あら、なぜ?」
「だって、三神くんはゴースト様の『神使』ですのよ! 神と神使が同一人物であるなど、教義上あり得ません!」
「教義」
「それに、三神くんは男性ですわ! 魔法少女に覚醒するのは女性のみ。これは世界の絶対法則です!」
ルディアは、必死にまくし立てた。
「あの方は、ただの家庭的で心優しい男子高校生ですのよ! ゴースト様のような、あんな規格外の存在であるはずが——」
だが、その勢いは、途中で急速に萎んでいった。
ヴィクトリアは、何も言わなかった。
ただ、静かに紅茶を口に運んでいる。
その沈黙が、ルディアには何よりも重かった。
「……ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
「なにかしら」
「あなたは、どう思っておられますの」
ヴィクトリアは、しばらくカップを見つめていた。
そして、静かに答えた。
「……私は、確信していないわ」
「では」
「けれど、確信していないというだけよ」
彼女は、僅かに口の端を上げた。
「否定もしていないわ」
結局、その夜の会議で、二人が結論を出すことはなかった。
だが、これまで漠然としていた違和感は、明確な形を持ち始めていた。
ゴーストが現れる時、三神零はいない。
三神零がいる時、ゴーストは現れない。
半年以上にわたる交流の記憶を辿れば、その法則に例外はなかった。
同時刻。
山中の洋館では。
零が、二階の窓辺に座って冬の星空を見上げていた。
背中まで伸びた黒髪が、窓から入り込む冷気に揺れている。
(……三日、か)
彼は、静かに息を吐いた。
学校は無断欠席が続いている。家族には嘘をつき続けている。
台所に立つこともできず、誰かに食事を作ってもらう毎日。
(早く、戻らないと)
零は、自分の手のひらを見下ろした。
白く、細い、自分のものではない指。
(……戻れるよな)
その問いに、答えてくれる者は誰もいなかった。




