第二百三十八話
廃工場からの撤収は、驚くほど静かに進んだ。
三つの陣営は、結局一度も剣を交えることなく、それぞれの方向へと散っていった。
協会は負傷した三名のエースを担架で搬送し、白百合は現場の封鎖と市民への被害確認に回り、裏社会は闇の中へと溶けるように消えた。
誰も、ゴーストを止めようとはしなかった。
街を破壊した少女を抱きかかえたまま去っていく死神を、全員がただ見送ることしかできなかったのだ。
その夜、奈緒の身柄は、星監が用意した都内の極秘ラボへと運び込まれた。
深夜二時過ぎ。
医療設備の整った処置室で、レイラ・メリクスが奈緒の全身を丹念に診察していた。
水の癒しの光が、少女の身体をゆっくりと撫でていく。
「……外傷は、ほとんどありません」
しばらくして、レイラは静かに顔を上げた。
「魔力の枯渇による消耗が激しいだけです。二、三日眠り続けるかもしれませんが、命に別状はありません」
その報告に、部屋の隅で壁に寄りかかっていたゴーストが、ようやく肩の力を抜いた。
処置台の上で眠る奈緒の首元では、破壊された呪符の残骸が、力を失った紋様となって皮膚に残っている。もはや明滅することも、彼女の感情を監視することもない。
ただの、消えかけた傷跡だった。
星監の技術班が、すぐさま解析に取りかかった。
破壊された呪符の術式構造、そして廃工場に残されていた術式切断装置の残骸。その両方が、慌ただしく分析機器へと運び込まれていく。
ヴィクトリアは、部下たちの報告を受けながら険しい表情を崩さなかった。
装置は使い捨てだった。起動から数秒で自壊するよう設計されており、内部の演算装置は完全に焼き切れている。復元できたのは、外装の材質と、僅かに残った術式の断片だけ。
それでも、一つだけ判明したことがあった。
あの装置は、ダインスレイブの技術を応用したものだった。
魔力の術式を切断するという、あの魔力無効化兵器と同じ原理。ただし、対象は敵の攻撃魔法ではない。
より繊細で、より根源的な——魔法少女そのものを構成する術式。
その解析結果が上がってきたのは、明け方近くのことだった。
ヴィクトリアは、報告書を一読すると、静かにそれを閉じた。
「……ゴースト様。よろしいかしら」
処置室の外の廊下で、彼女は静かに切り出した。
「あの装置についてですが、一つ、確認したいことがありますの」
ゴーストは、壁に寄りかかったまま顔を上げた。
「装置が起動した時、何か違和感はありませんでしたか」
その問いに、零はしばらく黙り込んだ。
確かに、あった。
全身を何かが走り抜けるような、奇妙な感覚。魔力が切断されるような、断ち切られるような。
だが、それは数秒で終わり、その後は特に異常も感じなかった。
「……少し、妙な感覚はあったわ。でも、今は何ともないわね」
「そうですか」
ヴィクトリアは、静かに頷いた。
「解析班の見立てでは、あの装置は『変身系統の魔法少女』を無力化するために開発されたものだそうです。……戦闘中の魔装や身体強化を、内側から縛り上げる類の兵器かと。ゴースト様ほどのお力があれば、恐らく大事には至らないでしょうが……念のため、体調に変化があればすぐにお申し付けください」
「……ええ、分かったわ」
ヴィクトリアは、深く一礼すると、技術班への指示のために足早に去っていった。
その背中が廊下の角に消えたのを見届けてから、緋雪が静かに歩み寄ってきた。
「……零くん」
彼女は、声を潜めて囁いた。
「あの装置、本当にただの魔装への干渉だと思う? ……念のため、変身を解いてみて」
その一言に、ゴーストの動きが止まった。
零の背筋を、じわりと冷たいものが這い上がっていく。
言われてみれば、まだ試していなかった。
奈緒の搬送、治療の立ち会い、解析の待機。ずっとゴーストの姿のまま動き続けていたのだ。
彼は、周囲を見回した。
廊下には、もう緋雪しかいない。
「……分かった」
ゴーストは、静かに目を閉じた。
変身の解除は、いつも簡単だった。
深く息を吸い、身体の中を巡る魔力の流れを緩める。それだけで、漆黒のドレスは霧散し、元の少年の姿へと戻る。
十一年間、数えきれないほど繰り返してきた動作だ。
意識する必要すらない、呼吸のような行為。
零は、いつも通りに魔力を緩めた。
だが。
何も、起きなかった。
(……え?)
彼は、もう一度試みた。
魔力の流れを緩め、変身の術式を解こうとする。
その手応えが——ない。
解除の術式そのものが、どこにも存在しないかのように。触れようとした指先が、空を掴むように滑っていく。
零の呼吸が、乱れ始めた。
(なんだ、これ。……なんで)
彼は、必死に自分の内側を探った。
変身の術式そのものは、確かにそこにある。
だが、それを解くための経路だけが、綺麗に切り取られていた。
まるで、鍵穴だけを丁寧に埋められた扉のように。
「……零くん?」
緋雪の声に、零は我に返った。
彼女の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……解けないわ」
零は、掠れた声で答えた。
「解除の術式が、見つからない。……何度やっても、届かない」
廊下に、重い沈黙が落ちた。
「……っ、少し待ってて」
緋雪は、青ざめた顔のまま踵を返し、廊下の先へと駆けていった。
ほどなくして、彼女はヴィクトリアを連れて戻ってきた。
「ゴースト様の魔装に、装置の影響が残っているようなのです。……何か分かりますか」
緋雪が、努めて平静を装いながら切り出す。
ヴィクトリアは、報告書に目を落としたまま、静かに頷いた。
「……やはり、そうでしたか」
彼女の説明は、簡潔だった。
あの装置は、ダインスレイブの技術を用いて、魔法少女の変身術式そのものを狙い撃つために作られたもの。
だが、対象を人間に戻して無力化するような、単純な兵器ではない。
「狙われたのは、恐らく『元の状態へ戻る経路』だけです」
ヴィクトリアは、静かに続けた。
「変身状態を強制的に固定し、魔力を垂れ流し続けさせる。……やがて魔力が尽きれば、勝手に無力化される仕組みかと」
彼女は、僅かに眉をひそめた。
「変身系統の魔法少女にとって、これ以上ないほど的確な一手ですわね。……ご不便をおかけして、申し訳ございません」
「……解除の方法は」
緋雪が、震える声で問うた。
「不明ですわ」
ヴィクトリアは、正直に答えた。
「あの装置は自壊しております。術式の全容が分からない以上、逆算のしようがありません」
彼女は、僅かに視線を落とした。
「星監の技術班が総力を挙げますが……正直に申し上げて、数日で解決できるとは思えません」
零は、その場に立ち尽くしていた。
自分の両手を見下ろす。
白磁のように白い、細い指。
自分のものではない身体。
これまで、変身している時間は長くても数時間だった。任務が終われば元に戻り、家に帰って夕飯を作り、家族と食卓を囲む。それが当たり前だった。
だが今、その「戻る」という選択肢が、丸ごと消えている。
(……学校)
零の頭の中で、現実的な問題が次々と積み上がっていく。
(明日は月曜だ。授業がある。……行けない)
(家にも帰れない。この姿を、母さんや姉さんや玲奈に見せるわけにはいかない)
(弁当も作れない。玲奈は明日から、コンビニで済ませることになる)
自分でも不思議なほど、頭に浮かんだのは日常の些細なことばかりだった。
「……零くん」
緋雪が、そっと歩み寄ってきた。
彼女は、何か言おうとして——言葉が見つからず、ただ静かにゴーストの手を握った。
その手が、微かに震えていた。
零は、彼女の顔を見ることができなかった。
(……情けないな)
彼は、静かに息を吐いた。
(政府の陰謀も、四十七人の救出も、あんな大きなことを乗り越えてきたのに)
その手のひらに、じわりと汗が滲む。
(家に帰れないってだけで、こんなに怖い)
夜が明ける頃。
緊急の対応方針が、静かに固まった。
零の身柄は、緋雪が管理する山中のセーフハウス——羽衣家がかつて所有していた、あの古い洋館に匿われることになった。
魔力迷彩の結界が幾重にも張り巡らされたあの場所なら、由鶴のドローンでも、政府の監視網でも捕捉できない。
星監と福音の鐘は、装置の解析と、あの夜逃げ去った実行犯の追跡に全力を注ぐ。
技術班は交代制で二十四時間体制に入り、ルディアは全国の信徒網を動員して残存する政府関係者の洗い出しを始めた。
そして、最大の問題が残っていた。
「……ご家族への説明は、どうなさいますの」
ヴィクトリアの問いに、零はしばらく答えられなかった。
母は心配するだろう。姉は問い詰めてくるだろう。妹は寂しがるだろう。
だが、真実を告げるわけにはいかない。
しばらくの沈黙の後、緋雪が静かに口を開いた。
「……私が、話すわ」
「緋雪さん?」
「白百合の盾から、零くんに合宿型の研修の招待があったことにする」
彼女は、必死に頭を回転させながら続けた。
「一般人向けの、防災訓練プログラム。……都心から離れた施設で、二週間ほど泊まり込みで参加する。そういう名目なら、不自然じゃないはずよ」
苦しい嘘だった。
だが、今はそれしか思いつかなかった。
その日の午前中。
三神家を訪れた緋雪は、驚くほど自然にその嘘をついてみせた。
母の奈々美は「あらまあ、零くんも大変ねぇ」と呑気に笑い、玲奈は「え、二週間もお兄ちゃんいないの!?」と本気で嘆いた。
澪だけが、僅かに眉をひそめた。
弟が家事を放り出して二週間も家を空ける。そんなことは、彼女の記憶にある限り一度もなかったからだ。
だが、緋雪の必死な表情の前で、彼女はそれ以上追及しなかった。
昼過ぎ。
山中の洋館に、零は移送された。
埃を被ったアンティークの家具。使われなくなって久しい暖炉。窓から差し込む冬の弱い光。
零は、二階の一室に通された。
鏡台の前に立ち、そこに映る自分の姿を見つめる。
夜より深い黒髪。白磁の肌。冷たく輝く紫水晶の瞳。
豪奢なフリルとリボンをあしらった、漆黒のゴシックドレス。
最強の死神、ゴースト。
これまで何百回と見てきた姿だ。
だが、これが「戻れない」ものになった瞬間、鏡の中の少女は、まったく知らない誰かのように見えた。
(……俺は、誰なんだろう)
その問いが、不意に頭をよぎった。
そして零は、すぐに自嘲した。
それは、つい昨夜、奈緒が壁に書き残していた問いと、まったく同じものだったからだ。
名前を持たず、自分が誰かも分からず、たった一つの記憶だけを頼りに彷徨っていた少女。
自分は、彼女に名前をあげた。
だが今、自分自身が——鏡の中の見知らぬ少女を見つめて、同じことを考えている。
(……皮肉だな)
零は、静かに鏡から目を逸らした。
夕方。
洋館の階下から、控えめなノックの音が響いた。
扉を開けると、コートを着たままの緋雪が立っていた。手には、大きな紙袋を提げている。
「……ご家族には、話してきたわ」
彼女は、少しだけ疲れた顔で微笑んだ。
「玲奈さんが、すごく寂しがってた。『お兄ちゃんのご飯が二週間食べられないなんて死ぬ』って」
その言葉に、零の胸が締め付けられた。
緋雪は、紙袋をテーブルに置いた。
中には、着替えと、洗面用具と、そして——
「……お弁当?」
「ええ。私が作ったの」
彼女は、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「あなた、朝から何も食べてないでしょう。……お口に合うかは、分からないけれど」
弁当箱の中身は、決して上手とは言えなかった。
卵焼きは端が焦げ、ハンバーグの形はいびつで、野菜の切り方も不揃いだった。
それでも零は、しばらくその弁当を見つめたまま動けなかった。
(……ああ)
彼の目の奥が、じわりと熱くなる。
(そうか。俺は今、作る側じゃなくて)
これまで、家族のために作り続けてきた。緋雪のためにも、白百合の皆のためにも。
それが自分にできる唯一の守り方だと信じていた。
だが今、その手はドレスの袖に包まれ、台所にも立てない。
代わりに、目の前には誰かが自分のために作ってくれた食事がある。
「……いただきます」
零は、静かに箸を取った。
窓の外では、冬の日が急速に傾いていた。
山の稜線が茜色に染まり、やがて藍色の夜に沈んでいく。
緋雪は、何も言わずに隣に座っていた。
急かすでもなく、慰めるでもなく、ただ静かにそこにいた。
その気配だけが、今の零にとっては何よりも救いだった。
その夜。
都内の極秘ラボでは、星監の技術班が徹夜の解析を続けていた。
同じ頃、白百合の盾の解析室では、新実由鶴が別の作業に没頭していた。
彼女の手元には、廃工場に残されていた微細な破片。現場検証の際に、白百合の回収班が持ち帰ってきたものだ。
装置の外装の一部。焼け焦げ、原型を留めていない金属片。
だが、その表面には——ごく僅かに、刻印の痕跡が残されていた。
由鶴は、それを電子顕微鏡で拡大した。
浮かび上がったのは、七桁の管理番号。
そして、その下に刻まれた、小さな組織章。
彼女の指が、静かに止まった。
「……これは」
それは、旧国防委員会のものではなかった。




