第二百三十六話
関東近郊、無人の廃工場地帯。
夜の闇を、紅蓮の炎と絶対零度の冷気が交互に染め上げていた。
「——真紀奈! 右から炎が来る!」
水属性の湊春華が、鋭く叫んだ。
「分かってる!」
氷属性の船戸真紀奈が、両手を天へと突き上げる。
「凍てつけ——!」
彼女の頭上に、巨大な氷の刃が数十本、一斉に具現化した。
特級魔獣ですら一撃で貫く、協会屈指の必殺技である。
それが、迫り来る炎の槍へと降り注いだ。
だが。
「……え?」
真紀奈の目が、大きく見開かれた。
彼女の生み出した氷の刃が——炎に触れる前に、砕けたのだ。
いや。
砕けたのではない。
偽ゴーストが左手を軽く振るった瞬間、その氷刃たちは、より強大な冷気に呑み込まれ、別の氷へと作り変えられていた。
「私の、氷が」
真紀奈は、掠れた声で呟いた。
「……食べられた?」
次の瞬間。
作り変えられた氷の刃が、逆に真紀奈へと降り注いだ。
「きゃあああっ!」
「真紀奈!」
春華が咄嗟に水の壁を展開し、辛うじて仲間を庇う。
だが、その代償に彼女自身の防御が薄くなった。
「——春華、後ろ!」
偽ゴーストの右手から放たれた炎の槍が、春華の背後を捉える。
「——ッ!」
春華は、咄嗟に大量の水を生成して防壁を作った。
(水は炎の天敵。……この規模なら、相殺できるはず!)
水と炎が、正面から激突する。
だが。
ジュウウウウッ——
一瞬にして、彼女の水がすべて蒸発した。
「な……っ!?」
白い蒸気が、視界を完全に覆い尽くす。
(そんな。この水量を、一瞬で……!?)
「春華さん! 視界が!」
「動かないで! 蒸気の中は——」
その蒸気の中を、一筋の紫電が駆け抜けた。
「——私が行く!」
雷属性の佐伯美羽。
協会最速の機動力を誇る彼女は、音速で蒸気を突き抜け、偽ゴーストの背後へと回り込んだ。
「もらった——!」
紫電の刃が、少女の背中へと迫る。
だが。
——ガキィィィンッ!
美羽の刃は、突如として出現した分厚い氷の壁に阻まれた。
「なっ!?」
(読まれてた……!? いや、違う)
美羽の背筋に、氷のような悪寒が走った。
(この壁、私が回り込む前からそこにあった)
偽ゴーストは、蒸気を生み出した時点で、すでに退路と死角を計算していたのだ。
そして。
「——え」
美羽が振り返った時には、もう遅かった。
氷の壁に囲まれた狭い空間。その唯一の隙間から、炎の槍が音もなく差し込まれていた。
「——ぐっ、あああっ!」
美羽の身体が、爆炎に吹き飛ばされた。
「美羽ぅっ!」
春華が絶叫する。
協会が誇る新体制のエース四名のうち、三名が——たった数分で戦闘不能に追い込まれていた。
「……嘘、でしょ」
春華は、膝をつきながら呻いた。
(連携も、戦術も、何一つ通用しない。……この子、戦い方が)
彼女の脳裏に、ある言葉がよぎる。
(……あまりにも、洗練されすぎている)
そして。
瓦礫の山の上で、ただ一人。
周防凛花だけが、光の剣を握りしめて立ち尽くしていた。
「……あなた」
彼女の声は、震えていた。
だがそれは、恐怖によるものではない。
氷で相手の退路と視界を塞ぎ、その死角から炎の槍を撃ち込む。
魔力の無駄を一切省いた、洗練された二重属性のコンビネーション。
(間違いない)
凛花の目に、涙が滲んだ。
(この戦い方は。……お姉ちゃんの、戦い方だ)
幼い頃から、何度も何度も、食い入るように見つめ続けてきた背中。
憧れて、追いかけて、決して届かなかった、最強の魔法少女の軌跡。
それが今、目の前で——街を壊すために振るわれている。
「よくも……」
凛花は、光の剣を強く握りしめた。
「よくも、お姉ちゃんの力を!」
彼女は、地を蹴った。
「その力で、街を壊して! お姉ちゃんを、汚したわね——!!」
光の剣が、閃く。
偽ゴーストは、向かってくる凛花を一瞥し、僅かに首を傾げた。
「……おねえちゃん?」
その一言に、凛花の動きが一瞬鈍った。
「——っ!」
だが、彼女は構わず剣を突き出した。
——ガキィィンッ!
光の剣と、氷の刃が激突する。
初めて、凛花の一撃が偽ゴーストに届いた。
少女が、僅かに後退する。
「……っ」
だが、致命傷には程遠い。
「わたしは、討伐部隊のエースなんかじゃない!」
凛花は、涙を流しながら叫んだ。
「周防凛音の、妹だ——!!」
その瞬間。
偽ゴーストの動きが、完全に止まった。
「…………え」
彼女の紅色の瞳が、大きく見開かれる。
「いま、なんて」
少女は、ふらりと一歩後ずさった。
「すおう、りんね……?」
凛花の呼吸が、止まった。
「あなた、なんで」
「その名前」
少女は、両手で自分の頭を抱えた。
「その名前、知ってる。……わたし、知ってる」
「……っ!?」
その時、凛花は初めて——至近距離で、少女の顔を正面から見た。
夜より深い黒髪。白磁の肌。整った顔立ち。
「……あなた」
凛花の背筋に、奇妙な違和感が走った。
(この子の顔。……どこかで)
だが、その考えがまとまる前に。
——ドォンッ!!
廃工場の一角が、爆発音とともに崩れ落ちた。
「——協会は下がりなさい!」
夜空から降り立ったのは、白百合の盾のエース陣だった。
羽衣緋雪、弓飛鳥、只野真奈、新堂鈴乃。
「白百合の盾!? なぜここに!」
膝をついたままの春華が叫ぶ。
「この案件は、我々が引き継ぎます」
緋雪が、氷の太刀を構えながら告げた。
「対象は保護対象です。……殺すことは、認めません」
「保護ですって!?」
春華が、悲鳴のような声を上げた。
「見なさい、この惨状を! 美羽も真紀奈も、重傷よ! これのどこが保護対象だっていうの!」
「……それでも」
緋雪は、静かに、しかし断固として答えた。
「あの子は、被害者です」
その時。
「——あら。ずいぶんと賑やかね」
廃工場の反対側から、優雅な声が響いた。
紫電を纏った女性——ヴィクトリア・ローゼンベルグが、パラソル型のステッキを肩に担いで歩み出てくる。
その隣には、聖光を纏ったルディア・ロンディニウム。
背後には、ルカとリリア、そして福音の精鋭たちが控えていた。
「……星監と、福音の鐘!?」
凛花が、愕然と目を見開いた。
「なぜ、裏社会の連中まで——!」
「決まっているでしょう」
ヴィクトリアは、艶やかに微笑んだ。
「あの子を、いただきに来たのよ」
廃工場に、異様な緊張が走った。
協会は——討伐。
白百合は——保護、しかし最悪の場合は討伐。
裏社会は——生け捕り。
三つの陣営が、それぞれ武器を構えたまま睨み合う。
「……冗談じゃないわ」
春華が、震える声で呟いた。
「白百合まで敵に回した上に、裏社会まで。……こんな状況で、どうやって」
「落ち着きなさい、協会の方」
ルディアが、黄金の蛇剣の柄を撫でながら微笑んだ。
「我々は、あなた方と争うつもりはございませんわ。……あの子さえ渡していただければ」
「渡せるわけないでしょう! あれは討伐対象よ!」
「なるほど。……では、力ずくということになりますわね」
ルディアの周囲に、聖光が渦を巻き始める。
「やめなさい!」
緋雪が叫んだ。
「ここで争えば、あの子はどうなると思っているの!」
その、瞬間。
——ズゥゥゥゥンッ。
廃工場全体に、目に見えない重圧がのしかかった。
「……っ!?」
「これは……」
全員の動きが、止まる。
誰もが、その圧倒的な魔力の質を知っていた。
瓦礫の頂点。
月を背にして、漆黒のゴシックドレスを纏った少女が、静かに佇んでいた。
「……ゴースト」
凛花が、掠れた声で呟いた。
「……本物、が」
春華が、絶望的な声を漏らした。
世論では、街を破壊する暴走したテロリストとされている存在。
だが、そこに立つ死神は——街を壊した少女と、正面から向き合うように立っていた。
「あなたまで、なぜ」
凛花が、光の剣を握りしめたまま叫んだ。
「なぜ、こんなところに現れるの! あなたは……あなたは、何がしたいの!」
ゴーストは、答えなかった。
彼女は、ただ静かに——瓦礫の上に立つ少女を見つめていた。
そして。
「…………あ」
偽ゴーストの動きが、完全に止まった。
紅色の瞳が、大きく見開かれる。
「……あなた」
彼女は、ふらりと一歩前に出た。
「また、会えた」
その声には、敵意の欠片もなかった。
あるのはただ——縋るような、必死な響きだけ。
「……え?」
周囲の全員が、困惑した。
「なに、あれ」
鈴乃が、呆然と呟く。
「あの子、ゴーストに敵意向けてない……?」
「むしろ」
飛鳥が、眉をひそめた。
「……喜んでる?」
ゴーストは、静かに瓦礫を降りた。
そして、少女へと向かって、ゆっくりと歩み寄っていく。
「待ちなさい!」
協会のエースが叫ぶ。
「そいつは危険だ! 近づけば——」
だが、ゴーストは足を止めなかった。
彼女は、少女の前に立ち、静かに口を開いた。
「……約束したわね」
「……やくそく?」
「ええ」
ゴーストの声は、驚くほど優しかった。
「次に会えたら、あなたに名前をあげるって」
その言葉に。
少女の紅色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……おぼえて、てくれたの」
「当然でしょう」
ゴーストは、静かに微笑んだ。
「私は、嘘が嫌いなの」
その光景を、三つの陣営が呆然と見つめていた。
街を破壊した危険な存在と、その存在に名前を与えようとしている最強の死神。
誰も、動けなかった。
そして——凛花だけが、その二人の姿を、震えながら見つめていた。
(……なに、これ)
彼女の思考が、混乱の極みに達する。
(何が起きてるの。……この二人は、一体)
冬の夜風が、廃工場の瓦礫の間を吹き抜けていった。




