第二百三十三話
三神家の玄関先。
「……妹の、ことですか」
零は、落とした菜箸を拾うのも忘れて、その場に立ち尽くしていた。
(新実さん。……なんで今さら、うちに)
彼の心臓が、警鐘のように激しく鳴り始める。
(まさか、また俺を『ジャマーキラー』だと疑ってるのか。……いや、それなら「妹さんのことで」なんて言い方はしないはずだ)
「……あの、玲奈が何か」
「いえ。妹さんが何かをなさったという話ではありません」
由鶴は、静かに首を振った。
「むしろ、逆です。……妹さんが、ある事件の被害に遭われている可能性があります」
「被害……?」
「ええ」
由鶴は、深く息を吸い込んだ。
「そして、それをご本人に直接お伝えするには……あまりに重い内容です」
零は、しばらく彼女の顔を見つめていた。
水色の髪。眼鏡の奥の、鋭くも真剣な眼差し。
そして、その目の下に濃く刻まれた隈。
(……あの時と、目が違う)
彼は、静かに息を吐いた。
水族館で会った時の彼女の目には、マッドサイエンティスト特有の、ギラギラとした好奇心が宿っていた。
だが今、そこにあるのは——深い疲労と、切実な誠実さだけだった。
「……分かりました。上がってください」
「よろしいのですか?」
「はい。ただ」
零は、家の奥をちらりと振り返った。
「玲奈は今、部屋にいます。……姉もそろそろ帰ってくる頃です」
「……ええ。承知しております」
由鶴は、静かに頷いた。
「ですので、手短にお話しさせていただきます」
リビングのテーブル。
零が出した茶に、由鶴は静かに手を添えた。
「……いただきます」
一口飲んで、彼女はほっと息を吐いた。
「……美味しい」
「あ、いえ。安いお茶ですけど」
「淹れ方が丁寧なのでしょう」
由鶴は、湯呑みを置いた。
そして、深く頭を下げた。
「……その前に、一つ」
「え?」
「以前は、大変ご迷惑をおかけしました」
由鶴は、頭を下げたまま続けた。
「あなたを不当に付け纏い、プライベートに踏み込み、あまつさえお弁当を検体として要求するなど。……情報班の人間として、また一人の人間として、恥ずべき行為でした」
「……あ、いや」
零は、慌てて手を振った。
「もう昔の話ですし。……というか、頭を上げてください」
「いえ。きちんとお詫びしたいと思っておりました」
由鶴は、ようやく顔を上げた。
「あの時、あなたは私を追い返すこともできたはずです。……ですが、あなたはサンドイッチをくださいました」
「……そんなの、覚えてたんですか」
「ええ。……美味しかったです」
由鶴は、僅かに視線を逸らした。
「解析に回すつもりだったのですが、……その、空腹に負けまして」
「……はは」
零は、思わず吹き出した。
「食べてくれてよかったです。あれ、解析されても何も出ませんよ。ただのBLTと和風サンドなんで」
「……ええ。今なら、それが分かります」
しばらくの間、和やかな空気が流れた。
だが。
由鶴が鞄からタブレットを取り出した瞬間、その空気は霧散した。
「……では、本題に入らせていただきます」
「三神くん。……昨今、報道されている『黒い衣装の魔法少女』の件は、ご存知ですか」
「……はい。ニュースで見ました」
零は、慎重に答えた。
(……そこから来るのか)
「あれは、ゴーストではありません」
由鶴は、はっきりと断言した。
「魔力波形の解析から、別の存在であることが判明しています。……そして我々は、その正体をほぼ特定しました」
「……正体?」
「はい」
由鶴は、タブレットの画面を零に向けた。
そこには、複雑な波形グラフが表示されている。
「あの少女は、人為的に作られた存在です。……政府の旧組織による、遺伝子実験の産物です」
零は、無言でその画面を見つめた。
(……知ってる。全部、知ってるよ)
だが、彼はそれを口にできない。
「……そんなことが、できるんですか」
「残念ながら」
由鶴は、静かに頷いた。
「そして、そこには二人分の遺伝子が使われています」
「一人は、周防凛音さん」
その名を聞いた瞬間、零の指がぴくりと動いた。
「……周防、凛音」
「ご存知ですか?」
「……ええ。十一年前の『厄災』で亡くなった、有名な魔法少女ですよね」
零は、努めて平静を装った。
「『氷炎の剣姫』でしたっけ」
「はい。……あの少女が炎と氷の二属性を扱えるのは、そのためです」
由鶴は、画面をスクロールした。
「協会が保管していた彼女の遺伝子サンプルが、三年前に政府へ移管されていました。……当時の協会上層部の承認によって」
「……ひどい話ですね」
「ええ。……死者への冒涜です」
由鶴の声に、抑えきれない怒りが滲んだ。
「そして、もう一人」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「……ここからが、本題です」
由鶴は、まっすぐに零を見つめた。
「あの少女の外見は、ゴーストに酷似しています。これは、意図的なものです」
「意図的……?」
「はい。ゴーストの評判を貶めるため、そして——ゴーストを打倒するため」
彼女は、静かに続けた。
「政府は、ゴーストに容姿の近い魔法少女を探し、その遺伝子を素体として使用しました」
零の呼吸が、僅かに乱れた。
(……容姿の近い、魔法少女)
「……その人は、誰なんですか」
「……」
由鶴は、しばらく答えなかった。
やがて、彼女は深く頭を下げた。
「……大変申し上げにくいのですが」
「素体となったのは——三神玲奈さんです」
零の手が、湯呑みから離れた。
カタン、と音を立てて、それがテーブルの上で傾く。
「……え」
「魔力波形の照合により、確認いたしました。一致率、九十四パーセント。……間違いありません」
由鶴は、頭を下げたまま続けた。
「妹さんの遺伝子は、協会在籍時に採取された血液サンプルから流出したものと推測されます。定期健診、適性検査、負傷治療。……そのいずれかから」
零は、動けなかった。
由鶴の言葉が、遠くから響いているように聞こえる。
(……玲奈が)
(俺の、妹が)
「……三神くん?」
由鶴が、心配そうに顔を上げた。
「……あ」
零は、ようやく我に返った。
「……すみません。ちょっと、頭が」
「無理もありません」
由鶴は、静かに首を振った。
「……本来であれば、もっと段階を踏んでお伝えすべきでした。ですが、こういう話は、遠回しにすればするほど残酷になるものだと思いまして」
「……いえ」
零は、震える手で湯呑みを直した。
「はっきり言ってもらった方が、ありがたいです」
しばらくの沈黙の後。
零が、掠れた声で尋ねた。
「……玲奈は、何かされたんですか。身体に、その」
「いいえ」
由鶴は、即座に否定した。
「妹さんの身体には、何一つ問題はありません。それは、昨日の健診結果からも確認済みです」
「……そう、ですか」
「必要なのは、ほんの微量の血液だけです。……拉致も、危害も加える必要はありません」
由鶴は、拳を握りしめた。
「妹さんは、ただ協会の定期検査を受けていただけです。……それが、こんな形で使われるなど」
零は、しばらく黙っていた。
やがて、彼はぽつりと呟いた。
「……あの子は、何も知らないんですよね」
「はい」
「じゃあ、あの子には」
零は、顔を上げた。
「知る権利が、ありますよね」
その言葉に、由鶴は目を見開いた。
「……三神くん」
「俺は、あの子の兄です。守りたいと思ってます」
零の声は、静かだった。
「でも、守るために隠すのは……違うと思うんです」
彼は、まっすぐに由鶴を見つめた。
「玲奈は、もう自分で戦ってる子です。……子供扱いして、勝手に決めるべきじゃない」
由鶴は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、彼女は静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「え?」
「私も、同じことを考えていました。……ですが、決めきれずにいたのです」
由鶴は、顔を上げた。
「一人で悩んで、勝手に守った気になって。……そんな自分が、ずっと嫌でした」
彼女は、深く息を吐いた。
「あなたに、背中を押していただきました」
「……いえ。俺は、ただ」
「三神くん」
由鶴は、まっすぐに零を見つめた。
「一つ、お願いがあります」
「……なんでしょう」
「妹さんにお伝えする時、私も同席させていただけませんか」
「……それは、構いませんけど」
「ありがとうございます」
由鶴は、深く頭を下げた。
「私は、この事実を突き止めた人間です。……伝える責任もまた、私にあります」
「……」
「それに」
彼女は、静かに続けた。
「妹さんは、必ず聞かれるはずです。『じゃあ、その子は今どうしてるの』と」
零の胸が、鈍く痛んだ。
「その問いに答えられるのは、詳細を把握している私だけです」
その時。
玄関の扉が開く音がした。
「ただいまー! あ、お兄ちゃん、今日のご飯なにー?」
階段を降りてくる足音。
「あれ? お客さん?」
リビングに顔を出した玲奈が、由鶴の姿を見て目を丸くした。
「……由鶴さん!? え、なんでうちに!?」
「こんばんは、三神さん」
由鶴は、静かに立ち上がって一礼した。
「突然お邪魔して、申し訳ありません」
「い、いえ! 全然大丈夫ですけど……えっ、なんで?」
玲奈は、混乱した様子で兄と由鶴を見比べた。
「お兄ちゃん、由鶴さんと知り合いだったの!?」
「……まあ、その。色々あってな」
「色々?」
「……以前、あなたのお兄様には、大変なご迷惑をおかけしました」
由鶴が、気まずそうに視線を逸らした。
「サンドイッチも、いただいてしまいましたし」
「サンドイッチ?」
「……その話は、今はいいだろ」
零は、しばらく妹の顔を見つめていた。
無邪気で、明るくて、少しおっちょこちょいな、自分の妹。
(……ごめんな、玲奈)
彼は、静かに息を吐いた。
「……玲奈。座ってくれ」
「え?」
「大事な話がある」
零の表情に、玲奈の顔から笑みが消えた。
「……お兄ちゃん?」
「大丈夫だ。お前が何か悪いことをしたって話じゃない」
零は、努めて穏やかに続けた。
「ただ、お前が知っておくべきことがある。……由鶴さんが、それを伝えに来てくれた」
玲奈は、しばらく兄の顔を見つめていた。
そして、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……分かった。聞く」
その時、再び玄関が開いた。
「ただいまー。……あら、お客さん?」
姉の澪が、上着を脱ぎながらリビングに入ってくる。
「あ、情報班の新実さんじゃないですか。どうしたんですか、こんなところに」
「三神澪さん。……ちょうどよかったです」
由鶴は、静かに頭を下げた。
「ご家族が揃っておられるのであれば、一度にお伝えできます」
「……え?」
澪の表情が、僅かに硬くなった。
彼女は、リビングの空気を見渡した。
緊張した面持ちの弟。神妙な顔で座る妹。そして、深刻な表情の情報班のトップ。
「……なに。何かあったの」
澪は、静かに椅子を引いた。
「聞かせて。……家族のことなら、私も当事者よ」
三神家のリビング。
四人が、テーブルを囲んだ。
由鶴は、深く息を吸い込み、静かに口を開いた。
「……では、お話しいたします」
彼女は、タブレットを机の中央に置いた。
「三神玲奈さん。……あなたの遺伝子が、ある少女を作るために使われました」
その一言に。
玲奈の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
窓の外では、雪が降り続いていた。
静かな冬の夜。
ごく普通の家庭のリビングで。
一人の少女の日常が、静かに、しかし決定的に変わろうとしていた。




