第二百三十二話
翌朝。
白百合の盾・本部の廊下を、新実由鶴は普段通りの歩調で歩いていた。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
「——おはようございます、由鶴さん!」
「はいぃっ!?」
背後から声をかけられた瞬間、由鶴は文字通り飛び上がった。
手にしていたタブレットが宙を舞い、危うく床に落ちかける。
「わっ、危ない!」
声の主——只野真奈が、慌ててタブレットをキャッチした。
「はい、どうぞ。……ってか由鶴さん、どうしたんですか? めちゃくちゃビックリしてましたけど」
「い、いえ。何も。何もありません」
由鶴は、震える手でタブレットを受け取った。
「おはようございます、真奈さん。本日も良い天気ですね」
「え? 今日、朝から雪ですけど」
「……そうでしたね」
作戦指令室。
「——では、本日の警邏区分を確認します」
由鶴は、いつものようにモニターの前に立っていた。
その視線の先には、白百合の盾のエース陣が並んでいる。
羽衣緋雪、弓飛鳥、只野真奈、新堂鈴乃。
そして、後列には隊員たちの姿。その中に——
「あ、由鶴さん。おはようございます!」
三神玲奈が、元気よく手を振っていた。
「……っ」
由鶴の肩が、びくりと跳ねた。
「ど、どうも。おはようございます、三神さん」
「昨日はお昼、ごちそうさまでした!」
「い、いえ。あれは湯野副会長からのプリンでしたので、私は何も」
「でも、お話楽しかったです! また食べましょうね!」
「……ええ。ぜひ」
由鶴は、引きつった笑みを浮かべた。
(……落ち着きなさい、新実由鶴)
彼女は、必死に自分に言い聞かせた。
(あなたは、この方の人生に関わる情報を握っています。ですが、この場で動揺を見せることは、何の助けにもなりません)
「……ねえ、飛鳥」
最前列で、鈴乃が小声で囁いた。
「由鶴、今日なんか変じゃない?」
「……ええ、私も思った」
飛鳥が、腕を組んで頷く。
「声が上ずってるし、視線が泳いでる。……それに、さっきから玲奈ちゃんの方を見ては逸らしてる」
「あー、それ私も気づいた」
鈴乃は、顎に手を当てた。
「なんかあの子、玲奈ちゃんのこと避けてない?」
「……喧嘩でもしたのかしら」
「——それでは、以上です。各員、配置に着いてください」
由鶴が説明を終えると、隊員たちが解散していく。
その流れの中で。
「由鶴さん、あの」
「はいぃっ!」
再び玲奈に声をかけられ、由鶴は跳ね上がった。
「……あ、あの。なんでしょうか」
「昨日の健診の結果って、もう出てます?」
由鶴の心臓が、痛いほど跳ねた。
(——出ています。出ていますとも。むしろ、出すぎているくらいに)
「……えー、そうですね」
彼女は、視線を斜め四十五度上に固定した。
「その、まだ、精査中と申しますか。……はい」
「そうなんですね。私、どこか悪いところとかありました?」
「いいえ」
由鶴は、即座に首を振った。
これだけは、はっきりと言えることだった。
「あなたの健康状態に、何一つ問題はありません。……それは、確かです」
「よかったー!」
玲奈は、屈託なく笑った。
「じゃあ、また今度お昼ご一緒しましょうね!」
「……ええ。ぜひ」
由鶴は、笑顔のまま硬直していた。
玲奈が去った後。
「……由鶴」
背後から声をかけられ、由鶴は再び飛び上がった。
「ひぃっ!」
「そんなに驚かなくても」
羽衣緋雪が、怪訝そうに眉をひそめていた。
「……由鶴、大丈夫? さっきから、明らかに様子がおかしいわ」
「大丈夫です。私は至って通常運転です」
「通常運転の人は、自分の部下の挨拶で飛び上がらないわよ」
「……ご指摘、痛み入ります」
由鶴は、深く息を吐いた。
緋雪は、しばらく由鶴の顔を見つめていた。
「……何か、分かったのね」
その一言に、由鶴の動きが止まった。
「……」
「例の解析。進展があったんでしょう」
「……ええ」
由鶴は、静かに認めた。
「素体の特定に、成功しました」
緋雪の目が、大きく見開かれる。
「……誰なの?」
「申し訳ありません。それは、まだ申し上げられません」
由鶴は、静かに首を振った。
「ご本人と、そのご家族。……その方々に、最初にお伝えすべきことですから」
「……そう」
緋雪は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……ええ。それが、正しいわね」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
「その人は、白百合の隊員なの?」
由鶴は、答えなかった。
「……なるほど。答えられないということは、そういうことね」
緋雪の表情が、痛みに歪んだ。
「……その人の日常は、壊れてしまうのかしら」
「壊させません」
由鶴は、即座に答えた。
「そのために、私は組織への報告を保留しています。……まずは、ご本人たちが知るべきです。その上でどうするかは、その方々が決めることでしょう」
「……由鶴」
「規則違反であることは、承知しています」
彼女は、静かに続けた。
「ですが、これは人の家族の話です。……組織の都合で扱ってよいものではありません」
その日の午後。
三神家の玄関先。
「ただいまー!」
玲奈が、元気よく帰宅した。
「おかえり。今日は早かったな」
零が、台所から顔を出す。
「うん。午後の訓練が中止になっちゃって。……あ、それより聞いてよお兄ちゃん」
玲奈は、リビングのソファに飛び込んだ。
「今日ね、由鶴さんがめっちゃ変だったの」
「……由鶴さんが?」
「うん。私が挨拶するたびに、ビクーンって飛び上がるの。もう三回くらい」
玲奈は、身振り手振りで再現してみせた。
「しかも、目が全然合わないんだよ。ずーっと斜め上見てるの」
「……それは、確かに変だな」
零は、鶏肉を切りながら苦笑した。
「疲れてるんじゃないか? あの人、いつも寝てなさそうだし」
「そうかなぁ。……あ、でも」
玲奈は、ふと首を傾げた。
「もしかして、私なんか悪いことしたのかな。健診の時に暴れたとか」
「暴れたのか」
「暴れてないよ! 三十分ちゃんとじっとしてたもん!」
その夜。
白百合の盾・情報班解析室。
由鶴は、モニターの前で頭を抱えていた。
(……最悪です)
彼女は、自分の額を机に打ち付けたい衝動と戦っていた。
(完全に、挙動が不審でした。あれでは「私は何かを知っています」と大声で宣言しているようなものです)
情報班のトップとして、彼女は数々の修羅場をくぐってきた。
政府のサーバーに侵入し、上層部に嘘の報告書を提出し、緋雪の秘密を守り抜いてきた。
だが。
(……人の家族に関わる話は、勝手が違いすぎます)
由鶴は、深いため息をついた。
その時、解析室のドアがノックされた。
「……どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは、湯野副会長だった。
「あら、まだいたんですか。今日は早く帰りなさいと言ったはずですが」
「……申し訳ありません」
「まあ、いいでしょう」
湯野は、由鶴の向かいの椅子に腰を下ろした。
「それより、新実さん。少しいいですか」
「なんでしょう」
「本日、複数の隊員から報告が上がっています」
湯野は、タブレットを取り出した。
「『情報班の新実さんの様子がおかしい』と」
「……」
「具体的には、こうですね」
湯野は、画面を読み上げ始めた。
「『挨拶をすると異常な反応を示す』『視線が定まらない』『廊下で突然立ち止まって唸っていた』『自動販売機の前で五分間動かなかった』」
「……最後のは、何を買うか迷っていただけです」
「五分もですか」
「……糖分を摂るべきか、カフェインを摂るべきかで」
「両方買いなさい」
湯野は、深いため息をついた。
「新実さん。あなた、何か抱えているでしょう」
「……」
「言いたくないなら、無理には聞きません。ですが」
彼女は、真剣な表情で由鶴を見据えた。
「一人で抱えて潰れるのだけは、やめなさい」
由鶴は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……湯野副会長。一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんですか」
「もし、あなたが……ある人の人生に関わる事実を知ってしまったとして」
由鶴は、慎重に言葉を選んだ。
「それを伝えれば、その人は間違いなく傷つきます。ですが、伝えなければ、その人は真実を知らないまま生きていくことになる」
彼女は、顔を上げた。
「そういう時、あなたなら……どうなさいますか」
湯野は、しばらく無言だった。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「……その事実は、その人が知るべきものですか」
「はい」
由鶴は、即座に頷いた。
「その人の、身体に関わることです。……本来であれば、誰よりも先に知らされるべき事柄でした」
「では、答えは決まっているでしょう」
湯野は、あっさりと言い放った。
「伝えなさい。……それは、あなたが判断していいことではありません」
「……ですが、それでは」
「怖いんですね」
湯野は、静かに微笑んだ。
「伝えてしまえば、後戻りできない。その人の日常が壊れるかもしれない。だから、あなたは一人で悩んでいる」
「……」
「ですが、新実さん」
彼女は、静かに続けた。
「知らないままでいることが、その人を守ることになるとは限りません」
由鶴の目が、大きく見開かれた。
「……白鳥さんのことを、覚えていますか」
湯野は、窓の外を見つめた。
「三年間、自分が誰かも分からないまま、道具として扱われていた子です」
「……はい」
「あの子は、実家に帰った後、こう言ったそうです」
湯野は、静かに続けた。
「『あの人たちに、誰も自分を必要としていないと言われて、それを信じてしまっていたんです。……ずっと、待っていてくれた人がいたのに』と」
由鶴は、しばらく言葉を失っていた。
「……ええ。おっしゃる通りです」
彼女は、静かに頷いた。
「知る権利を奪うことは、守ることではありませんね」
湯野が去った後。
由鶴は、しばらく天井を見上げていた。
やがて、彼女は静かに端末を閉じた。
「……伝えましょう」
由鶴は、立ち上がった。
「ただし、いきなりご本人にというわけにはいきません。……十五歳の女の子には、あまりに重すぎる話です」
彼女は、コートを羽織った。
(まずは、ご家族に。……そして、その中で最も落ち着いて話を聞いてくださりそうな方に)
由鶴の脳裏に、一人の少年の顔が浮かんだ。
(三神零さん。……あなたなら、きっと)
翌日の夕方。
三神家の玄関チャイムが鳴った。
「はーい」
エプロン姿の零が、玄関の扉を開ける。
そこに立っていたのは——
「こんばんは。突然の訪問、失礼いたします」
白いコートを着た、水色の髪の女性だった。
「白百合の盾、情報班の新実由鶴と申します」
彼女は、静かに頭を下げた。
「三神零さん。……妹さんのことで、少しお時間をいただけますでしょうか」
零の手から、菜箸がぽとりと落ちた。




