第二百三十一話
翌朝、午前八時三十分。
白百合の盾・情報班専用解析室。
新実由鶴は、いつもより三十分早く席に着いていた。
(……昨夜、反映予定だったデータが上がっているはずです)
彼女は、端末を起動した。
画面に表示されたのは、昨日の健診で新たに登録された魔力波形データの一覧。
合計、十四名分。
「……では、始めましょうか」
由鶴は、コーヒーカップを傍らに置き、指をキーボードに乗せた。
一件目。
『——一致率:一一パーセント』
「不一致」
二件目。
『——一致率:七パーセント』
「不一致」
三件目、四件目、五件目。
いずれも、二桁に届くかどうかという低い数値だった。
(……当然ですね)
由鶴は、淡々と作業を続けた。
(母数が違いすぎます。全国の元協会員は、数万人規模。その中から、白百合に流れてきた百四十二名の中に当たりがある確率など)
彼女は、六件目のデータを開いた。
(……宝くじのようなものです)
七件目。
『三神玲奈 属性:風 測定日:昨日』
由鶴は、そのデータを何気なく開いた。
昨日、食堂で会った少女の顔が、ふと脳裏をよぎる。
(三十分の測定を『暇だ』と言っていましたね)
彼女は、僅かに口元を緩めた。
(そういえば、この方の名字は……)
由鶴の脳裏に、ある光景が蘇った。
秋の水族館、芝生の広場。
全身包帯にコルセット、杖をつきながら、彼女は執念に燃えて手作り弁当に手を伸ばした。
『はい、タコさんウインナーは羽衣さんの分なんでダメですけど、サンドイッチならどうぞ』
呆れた顔で、それでも笑いながらサンドイッチを差し出した少年。
(……三神零くん)
由鶴は、僅かに苦い顔をした。
(あの節は、本当にご迷惑をおかけしました)
あの頃の自分は、彼を『ジャマーキラー』の秘密を握る細胞を持つ者だと信じ込み、執拗に付け纏っていた。
結果的にその線は誤りだったと結論づけ、調査を打ち切ったのだが。
(あの方の妹君でしたか。……道理で、名字に見覚えがあるわけです)
彼女は、小さく息を吐いた。
(それにしても、あのサンドイッチは美味しかったですね)
解析に回すつもりだったが、結局は空腹に負けて食べてしまったことを、由鶴は誰にも言っていない。
由鶴は、雑念を振り払い、波形を素体データと重ね合わせた。
照合ボタンを、押す。
——処理中。
いつもなら、二、三秒で結果が出る。
だが、今回は。
——処理中。
「……?」
由鶴の眉が、僅かに動いた。
——処理中。
バーが、ゆっくりと伸びていく。
(……重い。なぜ)
彼女は、画面を凝視した。
(照合処理が重くなるのは、一致点が多い場合です。相違点が多ければ、早期に打ち切られる仕様のはず)
由鶴の背筋に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
——処理完了。
画面に、結果が表示された。
『——一致率:九十四パーセント』
「…………」
由鶴は、動けなかった。
カップを持ち上げようとした手が、そのまま空中で止まっている。
「……え?」
彼女は、瞬きをした。
もう一度、画面を見る。
『——一致率:九十四パーセント』
「……いや。……いえ、待ってください」
由鶴の指が、震え始めた。
「そんな、はずが」
彼女は、猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。
「照合条件の再確認。ノイズ補正の設定値、基準波形の選択、比較アルゴリズムのバージョン——」
すべて、正常。
「サンプル004の元データを、再度読み込み。凛音さんの波形を、位相反転して差し引き——」
同じ素体波形が、再び生成される。
「三神玲奈さんのデータを、生データから再取得。装置固有の補正値を除去——」
結果は、変わらなかった。
『——一致率:九十四パーセント』
「……九十四」
由鶴は、掠れた声で呟いた。
この数値の意味を、彼女は誰よりも正確に理解していた。
魔力波形の一致率が九十パーセントを超えるということ。
それは、指紋の一致とほぼ同義である。
他人であれば、絶対に到達しない領域。
(……三神、玲奈さん)
由鶴の脳裏に、昨日の食堂の光景が蘇る。
『わー、なんか照れますね!』
無邪気に笑っていた、あの少女。
『じゃあ、私の指紋も由鶴さんのところに届くんですか?』
由鶴は、両手で顔を覆った。
「……なんてこと、ですか」
彼女は、しばらくその姿勢のまま動けなかった。
やがて、震える手で顔を上げ、もう一度画面を見つめた。
(あの子が、サンプル004の素体……)
由鶴の思考が、猛烈な速度で回転を始める。
(三神玲奈さん。年齢は十五歳。属性は風。……協会には、十三歳で入会)
彼女は、玲奈の個人記録を呼び出した。
(入会時の適性検査。年次健診。任務後の負傷記録。……いずれのタイミングでも、血液サンプルは採取されています)
由鶴は、記録をスクロールした。
(そして、旧協会の検査データは、当時の上層部を通じて政府へ流出し得た。……条件は、すべて揃っています)
彼女は、玲奈の顔写真を見つめた。
黒髪。色白。整った顔立ち。
(……そして、容姿)
由鶴は、その隣にゴーストの写真を並べた。
(……ええ。確かに、似ています)
髪の色。輪郭。全体的な印象。
(政府は、ゴーストに容姿の近い魔法少女を素体として選んだ。……その条件に、彼女は完璧に合致します)
由鶴は、椅子の背もたれに深く身を預けた。
「……確定、ですね」
彼女は、天井を見上げた。
サンプル004——あの、名前を持たない少女。
彼女を構成しているのは、周防凛音の遺伝子と、三神玲奈の遺伝子。
(つまり、あの子は……玲奈さんの、妹のような存在です)
由鶴の胸が、鈍く痛んだ。
(そして玲奈さんは、そのことを何一つ知らない)
彼女は、しばらく無言でモニターを見つめていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……どうすべきなのでしょうか」
この事実を、どう扱うべきか。
選択肢は、いくつかある。
(一つ。姫嶋会長に報告し、組織として対応する)
由鶴は、指を折った。
(ですが、そうすれば玲奈さんは組織全体から『被検体の素体』として扱われることになります。彼女の日常は、間違いなく壊れる)
彼女は、二本目の指を折った。
(二つ。誰にも言わず、私一人で抱える)
だが、その考えはすぐに否定された。
(……いえ。それは、彼女から知る権利を奪うことです)
由鶴は、三本目の指を折った。
(三つ。……ご本人と、ご家族に、直接お伝えする)
その時。
彼女の脳裏に、ふと一つの記憶が蘇った。
白鳥という少女が、自分の名前を思い出した時のこと。
あの時、彼女は泣きながらこう言った。
『私、あの人たちに「誰も自分を必要としていない」って言われて、それを信じちゃってた。……ずっと、待っててくれた人がいたのに』
(……そうです)
由鶴は、静かに息を吐いた。
(知らないままでいることが、その人を守ることにはならない)
彼女は、モニターに表示された数値を見つめた。
(それに——あの少女、サンプル004には、家族がいるということです)
由鶴の目に、静かな光が宿った。
(血の繋がった姉が。……そして、その家族が)
午後。
由鶴は、三神玲奈の家族構成を呼び出していた。
『——三神家
母:三神奈々美(一般人)
長女:三神澪(十九歳/白百合の盾所属/属性:炎)
長男:三神零(十六歳/高校生/一般人)
次女:三神玲奈(十五歳/白百合の盾所属/属性:風)』
「……四人家族。うち、二人が魔法少女」
由鶴は、その一覧を眺めた。
そして、真ん中の名前で、視線が止まった。
『長男:三神零(十六歳/高校生/一般人)』
「……三神くん」
彼女は、しばらくその名前を見つめていた。
(……あの方に、お伝えするべきでしょうか)
由鶴は、静かに考え込んだ。
(玲奈さんは十五歳。まだ未成年です。この種の話を本人に直接伝えるのは、あまりに酷でしょう)
彼女は、家族構成を見つめた。
(お母様は一般人。この世界の事情に、どこまで通じておられるか分かりません)
そして。
(お姉様は白百合の隊員ですが……妹君のことで冷静さを保てるかどうか)
由鶴の視線が、再び真ん中の名前へと戻った。
(……三神くんは、少なくとも私を知っています)
彼女は、僅かに顔をしかめた。
(もっとも、あまり良い記憶ではないでしょうが)
だが、由鶴の脳裏には、あの日の光景が鮮明に残っていた。
自分に付き纏われ、弁当を検体として狙われ、それでも。
『まあ、羽衣さん。食事くらい減るもんじゃないですし、いいじゃないですか』
あの少年は、そう言って笑ったのだ。
全身包帯の不審者に、丁寧にラップで包んだサンドイッチを差し出しながら。
(……あの方は、他人に対して、驚くほど寛容な方でした)
由鶴は、静かに息を吐いた。
(そして、ご家族の食事をすべて担っておられる方でもあります)
彼女は、静かに頷いた。
(家族思いで、冷静で、そして……面倒見が良い)
夕方。
由鶴は、解析室で最後の確認を終えていた。
データを暗号化し、彼女個人しかアクセスできない領域へと格納する。
「……姫嶋会長には、まだ報告しません」
彼女は、静かに呟いた。
「これは、まず三神家に伝えるべきことです。……組織の判断は、その後で構いません」
由鶴は、コートを羽織った。
(規則違反であることは、承知しています)
彼女は、解析室の明かりを落とした。
(ですが、これは……人の家族の話です)
同じ頃。
三神家の台所では、三神零が夕食の下ごしらえをしていた。
「今日は玲奈が唐揚げ食べたいって言ってたな。……あと、姉さんの分の副菜も作っておくか」
彼は、鼻歌交じりに鶏肉を切っていく。
窓の外では、静かな雪が降り続けていた。
(……そういえば、玲奈の健診の結果、いつ出るんだろう)
零は、ふとそんなことを考えた。
(何も異常がなければいいけどな)
彼は、まだ何も知らない。
自分の妹が、あの少女の「素体」であることも。
そして——かつて自分に執拗に付き纏った女性が、再びこの家へ向かって歩き出していることも。




