第二百三十話
白百合の盾・本部、情報班専用の解析室。
深夜二時を回っても、新実由鶴はモニターの前から一歩も動いていなかった。
画面に表示されているのは、二本の波形グラフ。一本は、荒川沿いの工業地帯で観測された「サンプル004」のもの。もう一本は、協会の公開資料に残されていた、特S級魔法少女・周防凛音の記録波形だ。
(……理論は単純です。掛け合わせであるならば、片方の成分は必ず差し引ける)
由鶴は、キーボードの上で指を滑らせた。
凛音の波形を位相ごとに反転させ、重ねていく。炎の帯域が相殺され、氷の帯域が沈み、荒れ狂っていたうねりの大半が、静かに凪いでいく。
そして——最後に、消えずに残ったものがあった。
細く、頼りない、しかし確かにそこにある一本の線。
(……出ました)
息を呑む。
これが、もう一人の親だ。サンプル004を構成する、凛音ではないほうの遺伝子の持ち主。「素体」の魔力波形。
由鶴は震える手でそれを保存し、そして——動きを止めた。
(……照合先が、ありません)
波形が手に入っても、それが誰のものかを言い当てるには、比較対象となるデータベースが要る。
魔法少女の魔力波形を網羅的に保管しているのは、この国にただ一つ。魔法少女協会の中央データベースだけだ。
そして今、協会は政府の完全な管理下にある。
白百合の盾は、そこから切り離された組織だ。かつて自分の権限で自由に泳ぎ回れた海は、今や分厚い壁の向こうにある。
(国防委員会のサーバーには、まだ私の穴が残っていますが……あれは作戦系統の回線です。魔法少女個人の健診記録までは、繋がっていない)
由鶴は、椅子の背もたれに深く体を預けた。
天井の照明が、やけに白々しく目に刺さる。
——ここまで来て、名前だけが分からない。
「まだ起きてたの?」
解析室の扉が開いて、羽衣緋雪が顔を出した。夜間警邏から戻ったばかりなのだろう、コートの肩がまだ夜気を纏っている。
「……緋雪こそ」
「差し入れよ。……その、もらい物だけど」
緋雪が机の端に置いた紙袋の中には、丁寧にラップをかけたおにぎりが二つ入っていた。
由鶴は、それをじっと見つめてから、静かに受け取った。
「ありがとうございます」
深く追及はしなかった。
白百合のトップエースが、誰の手作りかを言い淀む。それがどういう意味を持つのか、由鶴はもうとっくに理解している。理解した上で、報告書には書かなかった。
「進んでいるの? その……あの子の解析」
「ええ。波形の分離までは終わりました」
由鶴はモニターを指し示した。
「この線が、サンプル004を作るのに使われた、もう一人の魔法少女のものです。……周防凛音さんではないほうの」
緋雪の表情が、わずかに硬くなる。
「その人は、まだ生きているの?」
「おそらくは」
由鶴は頷いた。
「遺伝子を採るだけなら、血液一滴、毛髪一本で足ります。拉致も、殺害も必要ない。……つまりその人は、自分が何に使われたのかを知らないまま、今も普通に暮らしている可能性が高い」
緋雪が息を呑む音がした。
「……知らないまま?」
「ええ。協会に入会した時の適性検査。毎月の定期健診。任務で負傷した時の治療記録。魔力測定。……そのどれか一つで、採られている」
言いながら、由鶴は自分の口にした言葉の意味に、改めて背筋を冷やした。
それは、かつて協会に籍を置いた全ての魔法少女が、等しく同じ場所に立たされていたということだ。
(そして私も、その一人です)
緋雪は、しばらく黙っていた。
やがて、絞り出すように呟く。
「……その人が、自分の名前を知らされる日は来るの」
「私が特定できれば」
由鶴は、正直に答えた。
「ですが、照合先のデータベースは協会の中にあります。今の私たちには、手が届きません」
緋雪は何か言いかけて、結局、何も言わずに扉を閉めた。
その背中が、いつもより少しだけ小さく見えたことを、由鶴は黙って見送った。
同じ頃、三神家。
零は、翌朝の弁当の仕込みを終えて、キッチンの明かりを落とそうとしていた。
冷蔵庫には作り置きのきんぴらと、明日の朝に焼く鮭。特売で買った卵は、まだ十個以上残っている。
「お兄ちゃん、まだ起きてる?」
パジャマ姿の玲奈が、水を飲みに降りてきた。
「もう寝るところ。……玲奈こそ、明日パトロールだろ」
「うん。でもね、その前に病院寄らなきゃいけないんだ」
零の手が、蛇口の栓を締める途中で止まった。
「病院? どこか具合悪いのか」
「違う違う。健康診断」
玲奈はコップに水を注ぎながら、なんてことのない口調で続けた。
「白百合になってから、初めての健診なんだよね。……協会の頃のデータ、向こうが一切渡してくれないんだって。だから一からやり直し。ぜんぶ」
「……ふうん」
零は、ようやく栓を締めた。
「まあ、身体が資本だからな。ちゃんと診てもらえよ」
「はーい。あ、朝ごはんは卵焼き多めでお願いします」
玲奈は空になったコップを流しに置くと、ぱたぱたと階段を上っていった。
零は、暗くなったキッチンにひとり残って、小さく息をついた。
妹たちが二人とも前線に立つようになってから、この家の夜は少しだけ静かになった。それでも朝になれば、二人分の弁当を作る。それが自分にできる、たった一つの守り方だと思っている。
(……卵焼き、出汁を多めにするか)
その時の彼は、まだ何も知らない。
協会が決して渡さない妹の記録が、今この瞬間、たった一人の女性の指先が届かない場所で眠っていることも。
そしてその記録の中に——探し求められている「名前」が、静かに横たわっていることも。
長野県北部、山間部。
白い部屋の中で、サンプル004は膝を抱えていた。
(……男の子)
思い出そうとするたびに、頭の奥が軋む。
雨の匂い。焦げた匂い。誰かの、温かい手のひら。
(わたし、あの子を助けなきゃいけないの)
なぜ助けなければいけないのかは、分からない。
ただ、そうしなければならないと、身体の芯だけが知っている。
昨夜、黒い服の少女が口にした、あの響き。
(りんね)
意味も、綴りも分からない。
それでも、その音だけが、胸の奥で小さな灯りのように揺れ続けていた。
解析室。
緋雪が帰ったあとも、由鶴はモニターの前に座り続けていた。
冷めたおにぎりを一つ、ようやく口に運ぶ。米の甘さが、空っぽの胃にゆっくりと沁みた。
(……協会のデータベースが使えないなら)
由鶴は、ふと顔を上げた。
(——比較対象を、こちらで作ればいいのでは?)
指がキーボードを叩く。呼び出したのは、白百合の盾の職員名簿だった。
協会が瓦解したあの騒動のあと、この組織には大量の元協会員が流れ込んできた。エース級から事務方まで、その数は数百人にのぼる。
彼女たちは、かつて協会に籍を置いていた。
つまり——協会で、魔力波形を測られている。
そして白百合の盾は、所属隊員の健康管理のために、独自の測定を始めたばかりだ。
(母数は足りません。全国の元協会員から見れば、ほんの一握りです。……ですが、ゼロよりは遥かにましです)
由鶴は、名簿にフィルタをかけた。
条件は二つ。「協会在籍歴あり」、そして「黒髪」。
該当者の一覧が、画面に静かに並んでいく。
その、中ほどに。
三神澪。
三神玲奈。
二つの名前が、他の何十という名前に紛れて、当たり前のような顔をして表示されていた。
由鶴は、まだそれを見ていない。
彼女の視線は、リストの一番上から順に、一つずつ、丁寧に降りてきているところだった。




