第二百二十八話
東京東部、荒川沿いの工業地帯。
深夜のその一帯は、稼働を終えた工場が立ち並ぶ、無人の廃墟のような静けさに包まれていた。
——だが、今夜は違った。
立ち並ぶ倉庫の一つが、紅蓮の炎に包まれている。
そしてその隣の建物は、まるで氷河のように、屋根から壁までが分厚い氷に覆い尽くされていた。
炎と氷。
相反する二つの力が、同じ場所で同時に暴れ狂っている。
「……なんて、めちゃくちゃな戦い方をするの」
現場の上空に到達した羽衣緋雪が、氷の太刀を構えたまま呻いた。
彼女の隣には、影から浮上したゴーストが立っている。
(……これは)
零は、眼下の光景を見つめて息を呑んだ。
破壊の痕跡が、あまりにも無秩序だった。
目的も、計画性も感じられない。ただ、手当たり次第に周囲を焼き、凍らせている。
(まるで、癇癪を起こした子供みたいだ)
そして、その中心に。
少女が、立っていた。
漆黒のゴシックドレス。
夜の闇よりも深い、長い黒髪。
白磁のように白い肌。
その姿は——
「……そんな」
緋雪が、掠れた声を漏らした。
「零くんと、そっくり」
ゴーストと寸分違わぬ、その外見。
だが、決定的に違う点が一つあった。
瞳の色。
ゴーストの瞳が澄んだ紫水晶であるのに対し、その少女の瞳は——燃えるような、深い紅色をしていた。
そして、彼女の両手には。
右手に、揺らめく炎。
左手に、冷たい氷。
「……いない」
少女が、呟いた。
その声を聞いた瞬間、零の背筋に鳥肌が立った。
(……声まで、似てる)
だが、それ以上に彼を戦慄させたのは、その声に込められた感情だった。
「ここにも、いない」
少女は、周囲を見回した。
その顔には、怒りも憎しみもなかった。
あるのはただ——途方に暮れた、深い困惑と焦燥だけだった。
「どこ。……どこにいるの」
彼女は、震える手で自分の頭を押さえた。
「頭が、痛い。……名前が、思い出せない」
「——そこまでよ」
緋雪が、上空から静かに降り立った。
少女が、ゆっくりと顔を上げる。
「白百合の盾、羽衣緋雪。……あなたに、投降を勧告するわ」
緋雪は、氷の太刀を正眼に構えた。
「静岡での破壊行為。そして今夜のこの惨状。……あなたには、答えてもらうことが山ほどある」
少女は、しばらく無言で緋雪を見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……あなたじゃ、ない」
「……なんですって?」
「あなたは、違う。……わたしが探してるのは、あなたじゃない」
少女は、興味を失ったように緋雪から視線を外し、再び周囲を見回し始めた。
「邪魔しないで」
「——待ちなさい!」
緋雪が、地を蹴った。
神速の踏み込みから放たれた氷の斬撃が、少女の首元へと迫る。
だが。
——キィィィンッ!!
少女が無造作に振るった左手から放たれた氷が、緋雪の太刀を真正面から受け止めた。
「……なっ!?」
緋雪の目が、大きく見開かれる。
(私の氷が、押し返された……!?)
彼女は、日本でも最高峰の氷属性使いである。
その絶対氷結を、真正面から相殺されたのは、これが初めてだった。
「あなたの氷、冷たい」
少女が、無感情に呟いた。
「……でも、わたしの方が、もっと冷たい」
次の瞬間。
少女の左手から放たれた冷気が、緋雪の氷の太刀を——根本から凍りつかせ、粉々に砕いた。
「くっ……!」
緋雪は、咄嗟に後方へ跳躍した。
「そして、こっちは熱い」
少女が、右手を振るう。
紅蓮の炎が、まるで生き物のように蛇行しながら緋雪へと襲いかかった。
「——っ!」
緋雪が新たな氷壁を展開するが、炎はそれを瞬時に溶かし、蒸発させていく。
(この炎、鈴乃の炎より熱い……!)
「——緋雪さん!」
ゴーストが、二人の間に割って入った。
彼女が展開した高密度の闇の壁が、迫り来る炎を完全に飲み込み、消し去る。
「……大丈夫?」
「え、ええ。……ありがとう」
緋雪は、荒い息を吐きながら立ち上がった。
(……強い。あの子、間違いなく特S級よ)
そして、ゴーストが少女へと向き直った瞬間。
少女の動きが、ピタリと止まった。
「…………」
紅色の瞳が、大きく見開かれる。
彼女は、じっとゴーストを見つめていた。
まるで、何かを確かめるように。何かを思い出そうとするように。
「……あなた」
少女の声が、震えた。
「あなたは、……わたしと、同じ」
「……同じ?」
「同じ顔。同じ髪。同じ、服」
彼女は、ふらりと一歩前に出た。
「なんで。……なんで、あなたはわたしと同じ姿をしてるの」
零は、答えられなかった。
(……こっちが聞きたい)
彼の内心は、混乱の極みにあった。
「あなたが、わたし?」
少女は、首を傾げた。
「それとも、わたしが、あなた?」
「……あなたは、誰?」
ゴーストは、静かに問いかけた。
「名前は? どこから来たの?」
「……なまえ」
少女の顔が、苦しげに歪んだ。
「……わからない」
彼女は、両手で頭を抱えた。
「わからない。思い出せない。……ずっと、ずっと考えてるのに」
その苦悶する姿を見て、零は思わず息を呑んだ。
(この反応。……まさか)
彼の脳裏に、白鳥をはじめとする隠密の少女たちの姿が蘇る。
自分の名前を思い出せず、番号でしか自分を認識できなかった、あの子たちの姿が。
「あなた、政府に何かされたの?」
ゴーストが、慎重に問いかける。
「政府……?」
少女は、虚ろな目でゴーストを見た。
「知らない。……わたしは、ずっと、あの部屋にいた」
「部屋?」
「白い部屋。ずっと、ずっと白い部屋にいて。……たくさんの人が、わたしのことを見てた」
彼女の声が、震える。
「みんな、わたしのことを『サンプル』って呼んでた」
その一言に、ゴーストの拳が強く握りしめられた。
(……やっぱりだ)
零の胸に、静かな怒りが込み上げてくる。
(この子も、また)
「じゃあ、あなたは何を探しているの」
ゴーストは、努めて優しい声で尋ねた。
「探し物があるんでしょう? ……何を探しているの」
少女は、しばらく黙っていた。
そして、消え入りそうな声で答えた。
「……男の子」
「男の子?」
「うん」
彼女は、そっと自分の胸に手を当てた。
「ここが、ずっと痛いの。……何かを、思い出さなきゃいけない気がして」
少女の紅色の瞳が、揺れる。
「小さな男の子。泣いてる。血が出てる。……わたし、その子を助けなきゃいけないの」
その瞬間。
ゴーストの——三神零の心臓が、大きく跳ねた。
「…………え?」
「その子を助けなきゃいけないの。でも、どこにいるのか分からない」
少女は、必死な顔でゴーストを見つめた。
「だから探してるの。ずっと、ずっと探してるの。……なのに、どこにもいないの」
彼女の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「わたし、あの子を助けられなかったのかな。……もう、間に合わなかったのかな」
零は、その場に立ち尽くしていた。
全身から、血の気が引いていく。
(……小さな、男の子)
(泣いてる。血が出てる)
(その子を、助けなきゃいけない)
彼の脳裏に、十一年前の光景が、鮮明に蘇った。
五歳の自分。
魔獣の爪に引き裂かれた腕。溢れる血。恐怖に泣き叫ぶ声。
そして——その前に立ちはだかった、一人の魔法少女。
『大丈夫。……お姉ちゃんが、絶対に助けてあげるから』
零の唇が、震えた。
「……凛音、さん」
その名を口にした瞬間。
少女の身体が、ビクリと大きく震えた。
「…………え」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
紅色の瞳が、大きく、大きく見開かれる。
「……いま、なんて」
「……」
「いま、なんて言ったの」
少女は、ふらふらとゴーストへと歩み寄った。
「その名前。……知ってる。わたし、その名前を知ってる」
彼女は、両手で自分の頭を抱えた。
「あ……ああ……っ!」
突洪、彼女の全身から、凄まじい魔力が噴出した。
炎と氷が、制御を失って周囲に撒き散らされる。
「危ない!」
ゴーストが、咄嗟に緋雪を庇って闇の壁を展開した。
「あああああああっ!!」
少女の絶叫が、夜の工業地帯に響き渡る。
「わたし、は。……わたしは……っ!」
彼女は、頭を抱えたまま、その場に膝をついた。
「痛い。頭が。……なにか、出てくる。……なにか、が」
その時。
少女の首元が、赤く明滅した。
「……っ!?」
緋雪の目が、大きく見開かれる。
「あれは……呪符……!?」
少女の白い首筋に、禍々しい紋様が浮かび上がっていた。
それは、隠密たちが刻まれていた洗脳の呪符と——酷似していた。
『——警告。感情反応が閾値を超過。強制帰投プロトコルを起動』
少女のものではない、無機質な音声が、どこからともなく響いた。
「……や、やだ」
少女は、震えながら首を押さえた。
「まだ。……まだ、聞きたいことがあるの」
彼女は、必死にゴーストへと手を伸ばした。
「教えて。その名前は誰。……わたしは、誰なの」
『——強制帰投、実行』
次の瞬間。
少女の足元に、青白い転移陣が展開された。
「いやっ! まだ、まだ話が……っ!」
彼女の身体が、光に包まれていく。
最後の瞬間。
少女は、必死にゴーストへと手を伸ばしながら、叫んだ。
「——お願い! わたしを、見つけて!」
そして。
光が消えた後には、誰もいない廃工場と、燃え尽きた瓦礫だけが残されていた。
「…………」
ゴーストは、その場に立ち尽くしていた。
「……零くん」
緋雪が、恐る恐る声をかける。
「あの子……あなたが呼んだ名前に、反応していたわ」
「……ああ」
「あの名前は、確か」
緋雪は、慎重に問うた。
「あなたの恩人の……周防凛音さんの、名前よね」
ゴーストは、しばらく答えなかった。
やがて、彼女は震える声で呟いた。
「……緋雪さん」
「なに?」
「あの子」
零の紫水晶の瞳が、深い動揺に揺れていた。
「あの子が探してるの、私ね」
「……え?」
「十一年前。魔獣に襲われて、凛音さんに助けられた男の子。……それは、私ね」
緋雪が、息を呑んだ。
「じゃあ、あの子は……」
「分からない」
零は、拳を強く握りしめた。
「分からない。でも……あの子の中には、確かに凛音さんの何かが残ってる」
彼は、少女が消えた場所を見つめた。
冬の夜風が、焼け焦げた瓦礫の匂いを運んでくる。
「……絶対に、見つけ出す」
零は、静かに、しかし確かな決意を込めて呟いた。
「あの子が、誰なのかを」




