第二百二十七話
冬の夜空の下。
彼らの物語は、まだ何も終わってはいなかった。
家のリビングに、朝のニュース番組の音声が流れていた。
『——昨夜、静岡市内の商業施設が何者かによって破壊され、二十三名が負傷しました』
零は、味噌汁の鍋をかき混ぜる手を止めた。
『現場付近の防犯カメラには、黒い衣装を着た人物の姿が捉えられており、警察はこの人物が事件に関与しているものとみて、行方を追っています』
画面に、粗い解像度の映像が映し出される。
炎に照らされた薄暗い通り。
そこに立つ、漆黒のドレスを纏った少女の姿。
零の手から、おたまが滑り落ちた。
カランッ、と音を立てて、それが床に転がる。
「お兄ちゃん?」
玲奈が、驚いたように顔を上げた。
「……あ、ああ。ごめん、手が滑った」
零は、慌てておたまを拾い上げた。
だが、その視線はテレビ画面に釘付けになったままだった。
(……なんだ、あれ)
彼の背中を、冷たいものが伝っていく。
(あの格好。あの雰囲気。……まるで)
「……ちょっと」
テレビを見つめていた澪が、眉をひそめた。
「これ、あの子じゃないの?」
「そう、だよね……」
玲奈も、不安げに呟く。
「でも、なんで? あの人、街を壊したりする人じゃないでしょ」
「……だよね」
三神家のリビングに、重い沈黙が落ちた。
学校へ向かう道すがら、零のスマートフォンが震えた。
『——零くん。今朝のニュース、見た?』
緋雪からのメッセージだった。
『見た。……あれ、俺じゃない』
『分かってるわ。あなたが昨夜どこにいたかは、私が一番よく知ってるもの』
昨夜、零は緋雪と一緒に「翼の家」の後片付けをしていた。
完璧なアリバイである。
『でも、それを証明する方法がないんだ』
零は、震える指で文字を打ち込んだ。
『俺は、これまで一度も名乗ってこなかった。誰にも正体を明かさず、記録にも残さず、ずっと隠れてきた』
彼は、足を止めた。
『だから、あれが俺じゃないって……誰にも、証明できない』
教室に着くと、稔が血相を変えて駆け寄ってきた。
「零! 見たか、あのニュース!」
「……ああ」
「絶対おかしいって、あれ!」
稔は、机を叩いた。
「ゴーストがあんなことするわけないだろ! あいつは一年前、政府に人質にされた市民を全員無傷で助け出したんだぞ!?」
「……うん」
「なのにネットじゃもう、『やっぱりゴーストは危険だった』とか『裏社会のトップが本性を現した』とか、そんな書き込みばっかりだ!」
稔は、悔しそうに唇を噛んだ。
「みんな、忘れるのが早すぎるんだよ。……あいつがどれだけの人を助けたか、たった一年前のことなのに」
零は、しばらく友人の顔を見つめていた。
(……稔)
彼の胸が、締め付けられるように痛んだ。
(お前がそう言ってくれることが、今の俺には)
「……ありがとう」
「え?」
「あ、いや」
零は、慌てて誤魔化した。
「その、そういう風に考える人がいてくれると、なんかほっとするなって」
「……お前も、そう思うだろ?」
「うん。……思うよ」
同じ頃。
白百合の盾・作戦指令室。
「——現時点で判明している情報を、報告いたします」
新実由鶴が、モニターの前でマイクを握っていた。
室内には、姫嶋会長、湯野副会長、そしてエース陣が揃っている。
「昨夜二十二時十七分、静岡市中心部の商業施設において、大規模な破壊行為が発生。負傷者二十三名、うち重傷者三名。……幸い、死者は出ておりません」
「犯人は」
姫嶋が問う。
「防犯カメラの映像から、黒い衣装を着た人物が確認されています。……外見的特徴は、ゴーストと極めて酷似しています」
室内が、ざわめいた。
「……ゴーストが、ですって?」
飛鳥が、信じられないという顔で呟いた。
「そんなはずないでしょう。あいつは……確かに危険な存在だけど、無差別に街を壊すような真似は」
「私も、そう思います」
由鶴は、あっさりと同意した。
「え?」
「情報班として、客観的なデータから申し上げます」
彼女は、画面を切り替えた。
「これが、昨夜の現場で採取された魔力波形です。そして、こちらが過去三年間で蓄積された、ゴーストの魔力波形データです」
二つのグラフが、並べて表示される。
「一致率は、七十七パーセント。……一見すると高い数値ですが、これまでゴーストの魔力波形は、常に九十九パーセント以上の一致率を示してきました」
由鶴は、グラフの一部を拡大した。
「そして、決定的な相違点がこちらです。……ゴーストの魔力の根幹をなす『闇属性』の波形が、昨夜の現場からは一切検出されていません」
「闇属性が、ない……?」
真奈が、首を傾げる。
「はい。代わりに検出されたのは、炎と氷の二属性のみです」
その瞬間。
羽衣緋雪の肩が、僅かに強張った。
「……炎と、氷」
「はい。……何か、心当たりが?」
「……いえ」
緋雪は、静かに首を振った。
(炎と氷。……零くんも扱える属性だけれど)
だが、彼女は知っている。
零の力の根幹は、あくまで闇属性だ。重力を操り、影を渡り、深淵の重圧を放つあの力こそが、ゴーストの本質である。
その闇が、まったく検出されていない。
(……別人だわ。間違いなく)
「つまり、由鶴さん」
姫嶋が、静かに問うた。
「あなたは、昨夜の犯人がゴーストとは別の存在だと考えているのですね」
「はい。データからは、そう判断せざるを得ません」
「では、なぜ同じ格好を?」
「……分かりません」
由鶴は、正直に答えた。
「意図的な模倣か、あるいは偶然の一致か。現時点では判断できません。ですが」
彼女は、眼鏡の位置を直した。
「いずれにせよ、極めて危険な状況です」
「……というと?」
「世論です」
由鶴は、別の画面を表示させた。
そこには、SNS上のトレンドワードがずらりと並んでいる。
『#ゴースト暴走』
『#やっぱり危険だった』
『#静岡テロ』
「昨夜から今朝にかけて、ゴーストに関する否定的な言及が爆発的に増加しています。……数ヶ月前、政府が世論操作を仕掛けた時と、ほぼ同じ規模の速度で」
湯野が、忌々しげに舌打ちをした。
「あの時とは違って、今回は誰も操作していないというのに」
「はい。今回は、純粋な民意です」
由鶴は、静かに続けた。
「……だからこそ、厄介です」
その日の午後。
白百合の盾に、政府から一通の文書が届いた。
『——「ゴースト」と称される人物による市民への加害行為について、
貴組織に対し、当該人物の捕捉および無力化への協力を要請する』
「……早いですわね」
湯野が、書状を手に取って眉をひそめた。
「昨夜の事件から、まだ半日ですのに」
「政府としては、先日の失点を取り返す好機と見ているのでしょう」
由鶴が、冷静に分析した。
「御子柴事件で、政府の権威は地に堕ちました。今回の件で『ゴーストは危険だった』と証明できれば、当時の自分たちの判断は正しかったのだと主張できます」
「……本当に、政治というのは薄汚いものですわね」
姫嶋は、書状を静かにデスクに置いた。
「湯野さん。この要請には、どう応えるべきだと思いますか」
「……難しいところですね」
湯野は、腕を組んだ。
「拒否すれば、また『白百合はゴーストを庇っている』と言われます。かといって、素直に受ければ、無実かもしれない相手を追い回すことになる」
「では、こう回答しましょう」
姫嶋は、静かに告げた。
「『白百合の盾は、市民に危害を加える存在に対して、断固たる対応を取る』と」
緋雪の呼吸が、僅かに乱れた。
「……ただし」
姫嶋は、続けた。
「『その上で、我々は事実の正確な把握を最優先とする。犯人の特定にあたっては、外見的特徴のみによる断定を避け、科学的な検証を行う』」
彼女は、由鶴を見た。
「新実さん。あなたの分析を、正式な組織見解として政府に提出します」
「……よろしいのですか」
「ええ。私たちは、二度と同じ過ちを繰り返しません」
姫嶋の声には、確かな決意が滲んでいた。
「あの時、私たちは政府の作った物語を信じかけました。……今度は、自分たちの目で確かめます」
その夜。
零は、緋雪と共に、人気のない河川敷に立っていた。
冬の夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
「……由鶴が、あなたを庇ってくれたわ」
緋雪が、静かに告げた。
「魔力波形の分析から、昨夜の犯人はゴーストとは別人だと結論づけたの。……それを、組織の正式見解として政府に提出することになった」
「……そっか」
零は、川面を見つめたまま呟いた。
「由鶴さんには、また助けられたな」
「ええ」
しばらくの沈黙の後。
零が、静かに口を開いた。
「……緋雪さん。俺、思ったことがあるんだ」
「なにかしら」
「もし俺が、最初から名乗っていたら」
彼は、拳を握りしめた。
「協会でも、白百合でも、どこかに登録して、記録を残していたら。……こんなことにはならなかったのかな」
「……零くん」
「俺には、何もないんだ」
零は、自嘲するように笑った。
「名前も、記録も、所属も。……だから、俺が『違う』って言っても、誰にも証明できない」
緋雪は、しばらく黙って零の横顔を見つめていた。
そして、静かに首を振った。
「……それは、違うわ」
「え?」
「あなたには、ちゃんとあるじゃない」
緋雪は、まっすぐに零を見つめた。
「ずっとこの街を守り続けたという事実が。四十七人の少女を救ったという事実が。……人質にされた市民を、誰一人傷つけずに助け出したという事実が」
彼女の声には、確かな熱がこもっていた。
「あなたは、記録を残さなかった。でも、あなたが助けた人たちは、ちゃんと覚えているわ」
「……」
「白鳥さんも。あの子たちも。あなたのお友達も。……そして、私も」
緋雪は、そっと零の手を握った。
「あなたが誰なのかを証明するのは、書類じゃない。あなたがしてきたことよ」
零は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、彼は静かに息を吐いた。
「……ありがとう」
その時。
零の全身に、鋭い悪寒が走った。
「——っ!」
「零くん?」
彼は、勢いよく振り返った。
河川敷の遥か向こう、東の空。
「……何かしら、これ」
緋雪もまた、青ざめた顔で同じ方角を見つめていた。
「凄まじい魔力。……でも、なんて言えばいいのかしら。すごく」
彼女は、言葉を探した。
「……悲しい魔力」
零は、その一言に、はっと息を呑んだ。
(……そうだ。この感じ)
それは、怒りでも、憎しみでも、殺意でもなかった。
もっと切実で、もっと必死な——
(誰かを、探してる?)
零は、拳を握りしめた。
「……行こう、緋雪さん」
「ええ」
二人は、同時に走り出した。
冬の夜空の下。
彼らの物語は、まだ何も終わってはいなかった。




