第二百二十四話
十一月下旬の、よく晴れた土曜日。
朝七時。
三神家の玄関先で、零は最終確認を行っていた。
「財布、携帯、ハンカチ……よし」
肩に掛けた小さなボストンバッグ。
中には一泊分の着替えと、昨夜遅くまでかけて仕込んだ弁当が入っている。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
パジャマ姿で目をこすりながら、玲奈がリビングから顔を出した。
「ああ、ちょっと。……日帰りで、遠出してくる」
「ふーん。……あ、もしかして緋雪さんと?」
零の肩が、びくりと跳ねた。
「なっ、なんで」
「だって、お兄ちゃん昨日の夜、めちゃくちゃ気合い入れてお弁当作ってたじゃん。あれ、絶対自分用じゃないでしょ」
「……」
「あははっ、図星だ」
「行ってきます!」
零は、赤くなった顔を隠すように玄関を飛び出した。
その背中を見送りながら、玲奈がにやにやと笑う。
「……お姉ちゃーん。お兄ちゃん、緋雪さんとデートだって」
「へえ?」
リビングの奥から、寝ぼけ眼の澪が顔を出した。
「ふーん。……まあ、たまにはいいんじゃない」
彼女は、あくびをしながら呟いた。
「あいつ、ここ最近ずっと変な顔してたしね」
午前八時。
都心のターミナル駅、時計台の下。
「——おはよう、零くん」
声をかけられて振り返った零は、そのまま数秒間、固まった。
そこに立っていたのは、いつもの白百合の制服姿でも、任務用の戦闘服姿でもなかった。
柔らかなベージュのコートに、白いニット。
銀髪をハーフアップにまとめ、小さなショルダーバッグを提げた、どこにでもいる年頃の少女。
「……えっと。何か、変かしら」
緋雪が、恥ずかしそうに髪を撫でつけた。
「い、いや! 変じゃない、全然変じゃない!」
零は、慌てて首を振った。
「その、すごく……似合ってる」
「……ありがとう」
緋雪の頬が、ほんのりと赤くなった。
行き先は、電車で二時間ほどの海沿いの町だった。
特別な観光地でもない、小さな漁港のある静かな町。
零がインターネットで探して、「人が少なくて、のんびりできそうだから」という理由だけで選んだ場所である。
「……本当に、誰もいないわね」
海沿いの遊歩道を歩きながら、緋雪が感嘆したように呟いた。
平日の朝ということもあり、遊歩道には二人以外に人影がない。
冬の入り口の澄んだ空気の中、静かな波の音だけが響いている。
「うん。……前に一度、下見に来たんだ」
「下見?」
「ほら、この前約束したから。二人だけで行くって」
零は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「だから、絶対に誰にも邪魔されない場所を探してて。……観光地だと、誰かに見つかるかもしれないし」
緋雪は、しばらく零の横顔を見つめていた。
「……ふふっ」
そして、堪えきれないように笑い出した。
「な、なんで笑うの」
「ううん、ごめんなさい。……ただ、嬉しくて」
彼女は、零の腕にそっと自分の腕を絡めた。
「あなたが、私のためにそこまで考えてくれたのが」
昼前。
二人は、海の見える小高い丘の上のベンチに腰を下ろした。
「はい、これ」
零が、保温バッグから弁当箱を取り出す。
「わあ……!」
蓋を開けた緋雪が、目を輝かせた。
二段重ねの弁当箱には、色とりどりのおかずが隙間なく詰められていた。
だし巻き卵、鶏の唐揚げ、彩り野菜のマリネ、そして小さく握られたおにぎりが並んでいる。
「すごい……これ、全部作ったの?」
「うん。昨日の夜と、今朝早くに」
「……ずるいわ」
緋雪は、目を伏せた。
「ずるい?」
「こんなことされたら、もっと好きになっちゃうじゃない」
零の顔が、一気に赤くなった。
「……いただきます」
緋雪が、だし巻き卵を口に運ぶ。
そして。
「……美味しい」
彼女は、しばらく味わうように目を閉じた。
「本当に、美味しい。……零くんの料理を食べていると、なんだかすごく安心するの」
「……そう?」
「ええ。あなたの作るものって、いつも優しい味がするから」
弁当を食べ終えた後。
二人は、しばらく無言で海を眺めていた。
冬の海は、驚くほど静かだった。
「……ねえ、零くん」
「なに?」
「私ね、最近よく考えるの」
緋雪は、膝の上で手を組んだまま、水平線を見つめていた。
「あなたがゴーストだって知って、共犯者になって。それから、本当にいろんなことがあった」
「……うん」
「政府に人質を取られて。四十七人を助け出して。御子柴も捕まって。……全部、終わったのよね」
「うん」
「でも」
緋雪は、そこで言葉を切った。
「終わってないでしょう? あなたの中では」
零の呼吸が、一瞬止まった。
「……どうして、そう思うの」
「分かるわよ」
緋雪は、静かに微笑んだ。
「あなた、この一ヶ月で三回も夜中に出かけているでしょう。魔獣の反応がある場所へ」
「……気づいてたんだ」
「当然でしょう。私、あなたの魔力の癖なら分かるもの」
彼女は、少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「教えてくれてもいいのに」
「……ごめん」
零は、深く息を吐いた。
「心配、かけたくなかったんだ」
「それは、心配するわよ」
緋雪は、まっすぐに零を見た。
「あなたが一人で戦っていることは、ずっと知っていたわ。でも、あなたが一人で背負い込むことは、私が知る前と何も変わっていないじゃない」
「……」
「私は、あなたの共犯者になったの。……守られるだけの相手じゃなくて」
零は、しばらく答えられなかった。
やがて、彼はぽつりと呟いた。
「……怖いんだ」
「怖い?」
「うん」
零は、膝の上で拳を握りしめた。
「俺、ずっと一人で戦ってきた。誰にも言えなくて、家族にも隠して。……それが当たり前だった」
彼は、静かに続けた。
「でも、緋雪さんに知ってもらって。ルディアさんやヴィクトリアさんの力も借りて。……初めて、一人じゃないって思えた」
「ええ」
「そうしたら、余計に怖くなったんだ」
零は、顔を上げた。
「失うのが。……緋雪さんも、みんなも」
冷たい潮風が、二人の間を吹き抜けていった。
「あの九州の作戦で、もし誰かが死んでたら。……俺は、多分立ち直れなかった」
零の声が、僅かに震える。
「だから、俺が一人でやれることは、一人でやりたくなる。……誰も巻き込まないで済むように」
緋雪は、しばらく無言だった。
そして、静かに零の手を取った。
「……零くん」
「うん」
「私はね、あなたを失うのが怖いわ」
その言葉に、零が息を呑む。
「あなたが一人で戦って、一人で傷ついて、そしていつか一人で倒れてしまうかもしれない。……それが、私にとっての一番の恐怖よ」
緋雪の手が、零の手を強く握りしめた。
「だから、お願い。……私を、置いていかないで」
「……緋雪さん」
「あなたが誰かを失うのが怖いというなら、私だって同じ。私も、あなたを失いたくない」
彼女の目に、涙が滲んでいた。
「一人で背負い込むということは、あなたが一人で危険に飛び込むということでしょう。……それは、私にとって、この世で一番怖いことなの」
零は、言葉を失っていた。
自分は、誰かを守るために一人で戦ってきた。
だが、その「一人で戦う」という選択そのものが、彼女を最も苦しめていた。
「……ごめん」
零は、震える声で謝った。
「本当に、ごめん。……気づいてなかった」
「いいのよ」
緋雪は、涙を拭って微笑んだ。
「気づいてくれたなら、それでいいの」
二人は、しばらく手を繋いだまま海を眺めていた。
やがて、緋雪が静かに口を開いた。
「……ねえ、零くん。約束して」
「なに?」
「これから先、何があっても。……絶対に、一人で決めないで」
彼女は、真剣な眼差しで零を見つめた。
「相談してとまでは言わないわ。あなたには、あなたにしか背負えないものがあるのも分かってる」
「……うん」
「でも、行くなら一緒に行く。危ないなら一緒に危ない目に遭う。……それが、共犯者ってものでしょう?」
零は、しばらく彼女の顔を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……分かった。約束する」
「本当に?」
「うん。……もう、一人で全部背負おうとしない」
緋雪は、嬉しそうに微笑んだ。
「よろしい。……じゃあ、指切り」
「え?」
「指切りよ。子供っぽいと思うかもしれないけど、こういうのは形が大事なの」
彼女は、小指を差し出した。
零は、少し笑いながら自分の小指を絡めた。
「ゆびきりげんまん」
二人の声が、冬の海に静かに響いた。
夕暮れ。
帰りの電車の中で、緋雪は零の肩にもたれかかって眠っていた。
窓の外では、夕陽が海を金色に染めている。
(……今日は、本当に穏やかな一日だったな)
零は、そっと彼女の寝顔を見つめた。
国家の陰謀も、裏社会の抗争も、魔獣の脅威もない。
ただの高校生と、ただの少女として過ごした、たった一日。
(……こういう日を、守りたいんだ)
彼は、静かに心の中で誓った。
(俺が戦ってきたのは、こういう時間を、みんなが当たり前に過ごせるようにするためだ)
その時。
「……ん」
緋雪が、小さく身じろぎした。
「……零くん」
「起きた?」
「ううん、まだ眠い」
彼女は、目を閉じたまま零の腕にしがみついた。
「……ねえ」
「なに?」
「今日、すごく楽しかった」
「……うん。俺も」
「また、来ようね」
「うん。……何度でも」
緋雪は、満足そうに微笑んで、また静かな寝息を立て始めた。
その夜。
緋雪を家まで送り届けた零が、一人で夜道を歩いていると。
ふと、上着のポケットの中でスマートフォンが震えた。
『——今日はありがとう。本当に、幸せな一日だったわ。
それと、一つだけ言い忘れていたことがあるの』
零は、足を止めてメッセージを読んだ。
『あなたがどれだけ強くても、どれだけ多くの人を救っても。
私にとってのあなたは、美味しいご飯を作ってくれる、優しい男の子のままよ。
だから、疲れた時は、ちゃんと休んでね』
零は、しばらくその文面を見つめていた。
やがて、彼は静かに空を見上げた。
冬の澄んだ夜空に、無数の星が瞬いている。
「……ありがとう、緋雪さん」
彼は、誰にも聞こえない声で呟いた。
その夜、三神零は、これまでで一番穏やかな眠りについた。




