第二百二十三話
十一月中旬。
御子柴事件から一ヶ月が過ぎ、日本の魔法少女を取り巻く環境は、大きく塗り替えられようとしていた。
白百合の盾・本部、会長室。
「——第二次クラウドファンディング、目標額を大幅に超えて着地いたしましたわ」
湯野が、タブレットを片手に淡々と報告した。
「目標三億に対し、最終着地は十一億二千万。支援者数は延べ四十万人を超えております」
「……十一億」
姫嶋が、驚いたように目を見開いた。
「ええ。しかもこれとは別に、賛同企業からの寄付と協賛の申し出が三十七社。中には、被保護者の就労支援を申し出てくださっている企業もありますわ」
湯野は、僅かに口の端を上げた。
「国民は、見ていたということですわね。……誰が真実を暴き、誰が被害者を受け止めたのかを」
「……ありがたいことです」
姫嶋は、深く息を吐いた。
「ですが、これは同時に、途方もない責任を負ったということでもあります」
彼女は、窓の外を見つめた。
「四十七人の少女たち。そして、これから見つかるかもしれない、まだどこかに囚われている子たち。……その全員の人生を、私たちが引き受けると宣言したのですから」
「ええ。ですから、組織そのものを作り変える必要がありますわね」
湯野は、新たな資料をデスクの上に広げた。
「これまでの白百合の盾は、あくまで魔獣から市民を守るための防衛組織でした。ですが今後は、それに加えて『魔法少女の受け皿』としての機能を持たせるべきです」
「受け皿……」
「適性検査で落選した子。負傷して現役を退いた子。そういった子たちが、社会から切り離されないための支援機構ですわ」
姫嶋は、しばらく資料を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……いいでしょう。組織改編の準備を始めてください」
「かしこまりました。……ああ、それと」
湯野は、思い出したように付け加えた。
「先日ご相談のあった、元隠密の白鳥さんの構想。あれについても、正式に支援の検討を始めますわ」
「白鳥さんの……ええ、あの子の考えは正しい」
姫嶋は、静かに微笑んだ。
「戦えなくなった魔法少女が、自分の名前で生きていける場所。……それこそが、私たちが二十年前に作るべきだったものです」
同じ頃。
新生・魔法少女協会、本部会議室。
「——では、次の議題に移ります」
議長席に座る新体制の理事が、資料をめくった。
「政府との連携協定の見直しについて。……従来の枠組みを継続すべきか、あるいは」
「見直すべきです」
凛とした声が、会議室に響いた。
声の主は、末席に座る周防凛花だった。
会議室の視線が、一斉に彼女へと集まる。
「……周防さん。あなたは現場の指揮官であって、政策決定の場で意見を述べる立場では」
「承知しています。その上で、申し上げます」
凛花は、まっすぐに議長を見据えた。
「私たちは、福音の鐘の拠点制圧作戦において、政府の暗殺部隊である『特務執行官』を投入するための囮として使われました」
会議室が、ざわめく。
「あの作戦の前も、後も、私たち現場には非公認部隊の存在すら知らされていませんでした。……つまり協会は、自分たちが何のために戦わされているのかも分からないまま、政府の駒として動いていたということです」
「周防さん、言葉が過ぎますよ」
理事の一人が、鋭く制した。
「新体制の協会は、政府の支援によって再建されたのです。その恩を忘れて——」
「恩は忘れていません」
凛花は、静かに、しかし断固として答えた。
「ですが、恩と隷属は違います」
会議室が、静まり返った。
「政府の支援があったからこそ、今の協会があるのは事実です。ですがそれは、私たちが政府の命じるままに、市民を欺く作戦に加担してよい理由にはなりません」
彼女は、深く息を吸い込んだ。
「魔法少女協会は、市民を守るための組織です。……誰かの政治的な思惑のために、少女たちを死地に送るための組織ではありません」
会議が終わった後。
廊下を歩く凛花に、一人の理事が声をかけてきた。
「……周防さん。少し、いいかね」
「はい」
その理事は、旧体制の頃から協会に在籍する古株の一人だった。
「今日の君の発言。……正直に言えば、無謀だ」
彼は、静かに告げた。
「協会の予算の六割は、政府からの補助金で成り立っている。君の主張が通れば、その多くを失うことになる」
「……承知しています」
「その上で、あの場で発言したのか」
「はい」
凛花は、迷いなく答えた。
理事は、しばらく彼女の顔を見つめた後——ふっと、笑った。
「……君の姉上も、同じことを言っていたよ」
凛花の目が、大きく見開かれた。
「え……?」
「周防凛音くん。彼女もまた、当時の腐敗した上層部に向かって、同じように噛みついていた」
理事は、遠い目をして続けた。
「『私たちは、誰かの都合で戦っているんじゃない』と。……あの頃の我々は、彼女の言葉を聞き流した。そして彼女は、現場で死んだ」
彼は、深く頭を下げた。
「今度は、聞き流さないと約束しよう。……君の意見を、正式な議題として上げさせてもらう」
一人になった廊下で。
凛花は、窓の外を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
(……お姉ちゃん)
姉が、同じ場所で、同じことを訴えていた。
そして、誰にも聞き届けられないまま死んだ。
(私、少しは近づけたかな)
彼女は、そっと胸元を押さえた。
その頃。
都内某所、福音の鐘の作戦室。
「——本日の報告を始めます」
須藤真里が、地図を広げた。
「白百合の盾を通じて依頼のあった、旧隠密施設の追跡調査。九州、中部、関西の三箇所については、すでに完全に無人化されていることを確認いたしました」
「残る五箇所は?」
ルディアが問う。
「東北の二箇所は、捜査当局が押収済み。関東の三箇所については、現在も調査を継続中ですわ」
「……よろしい。手を緩めてはなりません」
ルディアは、静かに頷いた。
「ゴースト様は、『一人残らず』と仰いました。……もし、まだどこかに囚われている子羊がいるのなら、我々が必ず見つけ出します」
「ルディア様」
堀宮子が、無機質な声で口を挟んだ。
「一つ、確認したいことがあります」
「なにかしら」
「我々は今、白百合の盾という表社会の組織に、実質的に協力しております。……これは、福音の鐘の教義に反しないのでしょうか」
その問いに、作戦室の空気が僅かに張り詰めた。
ルディアは、しばらく黙った後、静かに答えた。
「宮子。あなたは、我々の教義とは何だと思いますの」
「……ゴースト様への、絶対の帰依かと」
「その通りですわ」
ルディアは、微笑んだ。
「ならば、ゴースト様が『あの子たちを救え』と仰った以上、その手段が何であろうと構いません。表社会と手を組もうが、憎き星監と轡を並べようが」
彼女は、両手を広げた。
「すべては、神の御心のままに。……それこそが、我らの教義ですわ」
「……なるほど。承知いたしました」
宮子が、深く頭を下げた。
その様子を、ルカとリリアが少し離れた場所から眺めていた。
「……ねえリリア。あたしたち、なんか最近すごく忙しくない?」
「そうだね。前は殺しの仕事ばっかりだったのに、今は人探しばっかり」
「つまんない……とは思わないけどさ」
ルカは、ぷらぷらと足を揺らした。
「この間、施設から助けた子が『ありがとう』って言ってくれたじゃん。……あれ、なんか変な感じだったよね」
「うん」
リリアが、静かに頷く。
「リリアたち、今まで誰かにお礼を言われたことなんて、なかったもんね」
同時刻、星監の拠点。
「——旧隠密施設の残存物資について、追加の解析結果が出ました」
技術班の報告に、ヴィクトリア・ローゼンベルグは優雅に脚を組んだまま耳を傾けていた。
「呪符の術式については、九割方の解明に成功しております。完全解呪のプロトコルも、理論上は確立できる見込みです」
「……そう。それは朗報ね」
「ただし、実際の施術には極めて繊細な魔力制御が必要です。星監の技術班だけでは、まだ」
「福音の浄化魔力と、あの氷のエースの制御技術が必要、というわけね」
ヴィクトリアは、僅かに肩をすくめた。
「……厄介なことね。世界最悪の犯罪組織二つと、正義の防衛組織が、揃わなければ一人の少女も救えないなんて」
「ローゼンベルグ様。……率直にお伺いしてもよろしいでしょうか」
側近の一人が、恐る恐る口を開いた。
「星監は、これによって何を得られるのでしょうか。膨大な資金と人員を投じておりますが、見返りが」
「見返りね」
ヴィクトリアは、窓の外の夜景を見つめた。
「表社会に、太いパイプができたわ。白百合の盾という、今や国民的な支持を得た組織との非公式な繋がり。……これは、金では買えない資産よ」
「なるほど」
「それに」
彼女は、ふと目を細めた。
「……たまには、感謝される側に立つのも悪くない。前にもそう言ったでしょう」
そして、深夜。
白百合の盾・情報班専用モニタールーム。
新実由鶴は、いつものように一人、無数のモニターに囲まれていた。
画面に表示されているのは、これまで彼女が積み上げてきた膨大なデータ。
『ゴースト関連事案・統合分析』と題されたファイルである。
「……さて」
由鶴は、眼鏡の位置を直した。
御子柴事件は終息した。隠密事業は暴かれ、被害者は保護された。
組織としての緊急課題は、ひとまず片付いたと言っていい。
だからこそ、彼女には残された時間があった。
「あの死神は、何者なのか」
由鶴は、画面上に散らばるデータポイントを見つめた。
ゴーストの初確認は、およそ三年前。
以降、確認されている出現事案は二百件以上。
その全てに共通する特徴。
——圧倒的な力を持ちながら、決して人を殺さない。
「……そして」
由鶴は、地図データを呼び出した。
過去三年間のゴースト目撃地点を、色分けしてプロットしたものだ。
全国各地に点在するプロット。だが、その中に、明らかに密度の高い領域が存在していた。
「……やはり、この一帯」
由鶴の指が、地図上のある地域をなぞる。
東京都内の、ごく限られた住宅地域。
「初期の出現事案は、ほぼこのエリアに集中しています。……そして、時期が下るにつれて、活動範囲が全国へと拡大していく」
彼女は、静かに顎に手を当てた。
「これは、行動範囲が広がったのではなく……『拠点』から遠出するようになった、と解釈すべきでしょうね」
由鶴の目が、鋭く光った。
「つまり」
彼女は、地図上の密集地帯を指し示した。
「ゴーストの生活圏は、この一帯にある」
由鶴は、しばらくその地図を見つめていた。
やがて、彼女は静かに椅子の背もたれに身を預けた。
「……とはいえ、この範囲でも数万世帯です。単純な絞り込みでは、到底特定には至りません」
彼女は、天井を見上げた。
このデータを、姫嶋会長に報告するべきか。
組織として、ゴーストの正体究明にリソースを割くべきか。
(……いいえ)
由鶴は、静かに首を振った。
あの死神は、結果として国家の非道を暴き、四十七人の少女を救った。
そして緋雪は、その正体を知りながら、命がけで守り続けている。
(もし、私が組織としてこれを追えば。……緋雪は、必ず私と敵対する立場に立たされる)
それだけは、避けなければならなかった。
「……これは、私個人の探究心です」
由鶴は、ファイルを暗号化し、自分だけがアクセスできる領域へと格納した。
「組織のためでも、任務のためでもない。……ただ、知りたいだけ」
彼女は、静かに目を閉じた。
あの夜、政府の施設で四十七人を救い出した何者か。
殺せる場面で、決して殺さなかった存在。
名乗ることも、感謝されることも求めなかった者。
「……あなたは、一体、どんな人なんですか」
誰もいないモニタールームで。
情報班のトップは、静かに、しかし確かな執念を込めて呟いた。
「いつか必ず。……この目で、確かめてみせます」




