第二百二十二話
十一月の初め。
秋桜祭の喧騒も過ぎ去り、街路樹が色づき始めた穏やかな日。
東京郊外の保護施設の玄関前に、一台のワゴン車が停まっていた。
「……本当に、お世話になりました」
小さなボストンバッグを提げた白鳥が、施設のスタッフたちに深々と頭を下げた。
あの夜、九州の施設で完全消去処置を受ける寸前だった彼女は、今、自分の足でここに立っている。
顔色はまだ良いとは言えず、首元には呪符の封印を隠すための包帯が巻かれたままだ。それでも、その瞳には確かな光が宿っていた。
「白鳥さん、退院おめでとうございます!」
「実家に戻られても、週に一度は通院してくださいね」
「何かあったら、すぐに連絡してください。夜中でも構いませんから」
スタッフたちが、口々に声をかける。
その背後には、まだ施設に残る四十六人の少女たちが、玄関ホールに集まって彼女を見送っていた。
「白鳥さん」
一人の少女が、おずおずと前に出た。
まだ自分の名前を思い出せていない、二十九番と呼ばれていた少女である。
「……あの、私」
彼女は、言葉に詰まりながら白鳥を見上げた。
「私、まだ何も思い出せなくて。名前も、家も、家族の顔も」
「うん」
「でも、白鳥さんが先に外に出るのを見て。……いつか、私もそうなれるのかなって、思えるようになりました」
少女の目に、涙が滲む。
「だから、その。……ありがとうございます」
白鳥は、静かにその少女の手を取った。
「……あのね」
彼女は、優しく微笑んだ。
「私も、三日前まで自分の名前を思い出せなかったの」
「え……?」
「本当よ。緋雪が毎日来てくれて、何度も何度も名前を呼んでくれた。それでも、しばらくは自分のことだって実感が湧かなかった」
白鳥は、少女の手を両手で包み込んだ。
「でも、ある日ふっと思い出したの。夢の中で、母さんが冷蔵庫に貼ってたメモの電話番号を」
「……」
「だから、焦らなくていい。あなたの中には、ちゃんと全部残ってるから」
白鳥は、まっすぐに少女の目を見つめた。
「絶対に、私が迎えに来る。……あなたが名前を思い出した時、一番に聞かせてもらうから」
「……っ、はい……!」
少女は、顔をくしゃくしゃにして頷いた。
ワゴン車の助手席には、羽衣緋雪が座っていた。
「……緋雪、本当にいいの? 送ってもらっちゃって」
後部座席に乗り込んだ白鳥が、申し訳なさそうに尋ねる。
「当然でしょう」
緋雪は、平然と答えた。
「白百合の盾の広報車よ。地域交流活動の一環として、被保護者の帰宅支援を行っているの。……由鶴が、そういう名目で手配してくれたわ」
「ふふ。相変わらず、面倒見がいいのね」
「あの子は、そういう人よ」
車が、ゆっくりと発進する。
窓の外を、見慣れない街並みが流れていく。
「……ねえ、緋雪」
白鳥が、窓の外を見つめたまま呟いた。
「三年ぶりなの。外の景色を、こんなにゆっくり見るのは」
「……そう」
「あの施設にいた頃は、移送の時だけ外に出られたけど。車の窓は真っ黒に塗られてて、何も見えなかった」
彼女は、そっと窓ガラスに手を触れた。
「空って、こんなに広かったんだね」
緋雪は、答えなかった。
ただ、静かにハンドルを握る手に力を込めた。
二時間後。
埼玉県の郊外にある、小さな住宅街。
その一角に建つ、少し古びた二階建ての家の前で、車は停まった。
「……ここ」
白鳥の声が、震えた。
「私の、家」
門柱には、色褪せた表札が掛かっている。
そして、その玄関先には——
一人の中年女性が、寒空の下で立ち尽くしていた。
「……母さん」
白鳥が、震える手でドアを開ける。
女性は、車から降りてきた娘の姿を見た瞬間、口元を押さえた。
「……っ」
声にならない声。
彼女は、よろめくように数歩前に出て——そして、崩れるように娘を抱きしめた。
「おかえり」
その一言だけを、何度も、何度も繰り返した。
「おかえり。おかえりなさい。……おかえり」
「……ただいま」
白鳥は、母の胸の中で泣き崩れた。
三年間。
誰にも必要とされていないと信じ込まされ、名前を奪われ、番号で呼ばれ続けた三年間。
その間、この家では、ずっと娘の帰りを待つ人がいた。
しばらくして。
落ち着きを取り戻した白鳥の母が、緋雪に深く頭を下げた。
「あの、あなたが……娘を助けてくださった方ですね」
「いえ、私は」
緋雪は、慌てて首を振った。
「私は、ただ迎えに行っただけです。……本当に助けたのは、別の方たちですから」
「それでも」
母親は、目を真っ赤にしながら緋雪の手を握りしめた。
「三年間、警察にも協会にも、何度も頭を下げました。でも、誰も真剣に取り合ってくれなくて。『成人した女性の自発的な失踪だ』と、それだけで」
彼女の声が、震える。
「私は、この子を諦めなかった。でも、それだけでした。……何もできなかった」
「お母さん」
「あなたたちが、あの子を見つけてくれた。……本当に、本当にありがとうございます」
緋雪は、しばらく何も言えなかった。
やがて、彼女は静かに頭を下げた。
「……こちらこそ、申し訳ありませんでした」
「え?」
「私たち魔法少女の組織が、白鳥さんを切り捨てたんです。適性を失った子を、それきり気にかけなかった」
緋雪の声は、深い悔恨に満ちていた。
「あの子がああなったのは、私たちが最初に見捨てたからです。……本当に、申し訳ありませんでした」
その夜。
白鳥の家の居間で、三人はささやかな夕食を囲んでいた。
「食べて食べて。あなたも、たくさん」
母親が、緋雪の皿にどんどん料理を盛っていく。
「あ、あの、こんなにいただけません」
「いいのよ。三年ぶりに、こんなに賑やかな食卓なんだから」
母親は、目を細めて娘の顔を見つめた。
「……この子、昔からよく食べる子でね。訓練で疲れて帰ってくると、ご飯を三杯もおかわりして」
「母さん、その話はいいから」
白鳥が、恥ずかしそうに顔を赤くする。
「あら、いいじゃない。私、この話をする相手がいなかったのよ、三年間」
その一言に、白鳥は言葉を失った。
食後。
白鳥と緋雪は、家の外の小さな庭に出ていた。
冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
「……ねえ、緋雪」
「なにかしら」
「私、決めたことがあるって、前に言ったよね」
「ええ。もう一度、魔法少女をやりたいと」
「うん」
白鳥は、夜空を見上げた。
「あの施設に残ってる子たちも、いつか外に出る。でも、それで終わりじゃないでしょう」
「……ええ」
「全国に、他にも施設があった。今回助けられなかった子だって、絶対にいる。……それに、これから先も、適性検査で落ちる子や、怪我で辞める子は出てくる」
彼女は、緋雪へと向き直った。
「そういう子たちが、二度と誰かに拾われて、道具にされないように。……私、そういう場所を作りたいの」
「場所……?」
「うん。戦えなくなった魔法少女が、それでも自分の名前で生きていける場所」
白鳥は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「まだ何のあてもないし、私自身がまだ通院しなきゃいけない身だけど。……でも、これは私にしかできないことだと思うから」
緋雪は、しばらく無言で友の顔を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ええ。きっと、あなたにしかできない仕事だわ」
「協力、してくれる?」
「当然でしょう」
緋雪は、迷いなく頷いた。
「白百合の盾も、姫嶋会長も、きっと力になってくれる。……私からも、話を通しておくわ」
「……ありがとう」
しばらく、二人は静かに夜空を見上げていた。
そして。
「……ねえ、緋雪」
「なにかしら」
「一つだけ、聞いてもいい?」
白鳥の声が、いつになく軽い調子を帯びた。
「……ええ、どうぞ」
「あの、黒いドレスの人って」
白鳥は、悪戯っぽく緋雪の顔を覗き込んだ。
「緋雪の、恋人だったりする?」
——ピシリ。
緋雪の背後の庭木に、うっすらと霜が降りた。
「……はい?」
「え、だって」
白鳥は、けろりとした顔で続けた。
「あんな綺麗な女の子だけどさ。あの人が施設に来た時、緋雪、めちゃくちゃ自然に話してたじゃない。裏社会のトップ相手に、あんなにリラックスして喋る人いる?」
「……気のせいよ」
「それに、あの人が来る時だけ、緋雪の表情が全然違うの。すごく安心してるっていうか、普通の女の子の顔になってるっていうか」
「……気のせいだと言っているでしょう」
「あとね」
白鳥は、指を一本立てた。
「屋上で二人で話してた時。……私、部屋の窓から見えてたんだけど」
緋雪の顔が、一気に赤く染まった。
「み、見てたの!?」
「あ、やっぱり何かあったんだ」
「か、鎌をかけたわね……!」
「あははっ!」
白鳥が、心底楽しそうに笑った。
それは、彼女が施設を出てから初めて見せた、屈託のない笑顔だった。
「……もう。あなた、昔から妙に勘が良かったわね」
緋雪が、頬を膨らませながらぼやく。
「そう? でも、緋雪が分かりやすいだけだと思うけど」
「分かりやすくないわ」
「分かりやすいよ」
白鳥は、笑いながらも、ふと真剣な表情になった。
「……ねえ、緋雪」
「なによ」
「あの人がどこの誰なのかは、聞かないでおくね」
緋雪の動きが、止まった。
「……白鳥さん」
「聞いちゃいけないことだって、なんとなく分かるから」
白鳥は、静かに微笑んだ。
「でもね。一つだけ、伝えておいて」
「……なにを?」
「『あなたのおかげで、家に帰れました』って」
彼女は、夜空を見上げた。
「あの人、私たちに『必ず連れ帰る』って約束してくれた。……その約束、ちゃんと守ってくれたって。だから、ありがとうって」
緋雪の目に、涙が滲んだ。
「……ええ。必ず、伝えるわ」
その夜。
白鳥の家を辞し、東京へと戻る道すがら。
緋雪は、車を路肩に停めて、スマートフォンを取り出した。
『——今、白鳥さんを実家に送り届けたわ。お母様と、無事に再会できた』
数分後、返信が来た。
『そっか。……よかった』
たった一言。
だが、緋雪にはその短い文字列の裏側にある、深い安堵が手に取るように分かった。
『それから、白鳥さんから伝言があるの』
『伝言?』
緋雪は、文字を打ち込んだ。
『「あなたのおかげで、家に帰れました。約束を守ってくれて、ありがとう」ですって』
既読がついてから、返信が来るまで。
いつもより、ずいぶんと長い時間がかかった。
『……そっか』
やがて届いたのは、また同じ二文字だった。
緋雪は、その画面を見つめながら、静かに微笑んだ。
(……零くん。泣いてるでしょう)
彼女は、返信を打ち込んだ。
『ええ。だから、少しだけ自分を褒めてあげてね』
窓の外では、冬の始まりを告げる冷たい風が、静かに街を吹き抜けていた。




