第二百二十一話
秋桜祭、当日。
校門には巨大なアーチが掲げられ、朝から大勢の一般客が詰めかけていた。
各クラスの模擬店から漂う様々な匂い、廊下に響く呼び込みの声、そして生徒たちの高揚した笑い声。
二年三組の教室は、去年に引き続き『魔法少女コスプレ喫茶』として営業していた。
「——いらっしゃいませー! 空いてるお席にどうぞ!」
色とりどりの衣装を着たクラスメイトたちが、慌ただしく客をさばいていく。
そして、教室の奥の簡易調理スペースでは。
「三神! オムライス三つ!」
「了解!」
三神零が、フライパンを片手に猛烈な速度で調理をこなしていた。
彼の格好は、去年のように本物のゴーストへ変身することだけは死守したものの、クラスメイトたちの総意によって着せられた『ゴースト風の魔法少女衣装』という、到底正視できない姿である。
(……守り抜いた。今年の俺は、表の看板役だけは断固拒否し、厨房の奥に引きこもる権利だけは勝ち取ったのだ……!)
零は、卵を巧みに返しながら、心の中で血の涙を流していた。
「三神くーん、こっちオムライス上がった?」
「はい、今出すよ!」
ふわとろの卵に包まれたチキンライスの上に、ケチャップで手早く模様を描く。
「うっわ、相変わらず綺麗……っていうか三神、その格好で鍋振ってるのシュールすぎる」
配膳係の男子が、腹を抱えて笑いながら感嘆の声を漏らした。
「でもお前のオムライス、去年よりレベル上がってない? これ、普通に店で出せるでしょ」
午前十一時。
教室の外が、突如としてざわめきに包まれた。
「うわ、来た! 白百合の盾だ!」
「本物じゃん! やば、めっちゃ綺麗……!」
廊下の人波を割って、四人の少女が姿を現した。
羽衣緋雪、弓飛鳥、只野真奈、新堂鈴乃。
白百合の盾のエース陣が、私服姿で歩いてくる。
その周囲には、白百合の広報スタッフが数名、さりげなく警備の配置についていた。事前に学校側と調整された、由鶴の計画通りの動線である。
「わあ、すごい! 去年より賑やかだね!」
真奈が、目を輝かせて周囲を見回した。
「……去年より、明らかに視線が多いわね」
飛鳥が、周囲の熱狂的な視線に困ったように苦笑する。
そして、教室の入り口に立った緋雪が、店内を見渡し——調理スペースに立つ零の姿を見つけて、ぴたりと動きを止めた。
「……あら」
彼女の視線が、フリフリのメイド服を着て必死にフライパンを振る零を捉える。
(……今年は、ゴーストの衣装じゃないのね、残念)
正体バレのリスクを回避したことに安堵しつつも、そのあまりに不憫(かつ少し似合っている)な姿に、緋雪は口元を押さえて必死に笑いを堪えた。
「あーっ! 三神くん、今年はゴーストのコスプレじゃないのね!?」
真奈が、あからさまに落胆した声を上げた。
「そ、それは申し訳ない……というか、見ないでください……」
零は、フライパンを持ったまま顔を覆った。
「……ふうん」
鈴乃が、じっと零を眺めた後、意味深に微笑みながらスマホのカメラを起動した。
「まあ、これはこれで悪くないわね。……女装して料理してる男子高生なんて、特定の層に猛烈な需要があるのよ」
「鈴乃さん、絶対に撮らないでください! 消去しますよ!?」
しばらくして。
テーブル席に案内された四人のもとに、零がオムライスを運んできた。
「お待たせしました。……あの、白百合の皆さんに食べていただくには、あまりに素人料理で恐縮なんですが」
「そんなことないわよ」
緋雪が、スプーンを手に取った。
一口食べた瞬間、彼女の目が僅かに見開かれる。
「……美味しい」
「うんまっ!? 何これ、めちゃくちゃ美味しいんだけど!」
真奈が、目を丸くして叫んだ。
「……本当ね。文化祭のクオリティじゃないわよ、これ」
飛鳥も、感心したように頷く。
「三神くん、あんた将来料理人になれば?」
鈴乃が、二口目を頬張りながら言った。
「い、いえ、そんな。ただの趣味なので」
メイド服姿のまま照れくさそうに頭を掻く零を、緋雪が優しい眼差しで見つめていた。
その頃、教室の別の一角では。
「——ああ、なんという尊さでしょう」
豪奢なワンピースに帽子とサングラスという、明らかに浮いた格好の女性が、恍惚とした表情で頬に手を当てていた。
ルディア・ロンディニウムである。
「神使様が、あのような可愛らしいお召し物で、汗を流しながら下々の者のために料理をなさっている……。ああ、これぞ究極の慈愛……!」
「……ちょっと、落ち着きなさい。目立つでしょう」
その隣の席では、同じくサングラス姿のヴィクトリア・ローゼンベルグが、優雅にコーヒーを傾けていた。
「あなたに言われたくありませんわ。その格好で、どこのハリウッド女優ですの」
「私は自然に溶け込んでいるつもりよ」
「全く溶け込めておりませんわ」
実際、二人の周囲だけ明らかに空気が違っていた。
周囲の生徒や客が、ちらちらと視線を送りながらひそひそと囁き合っている。
「なあ、あの人たち誰? モデルさんか何か?」
「分からん。」
「三神の知り合いって、なんでこう毎年やばい人ばっかりなんだ?」
午後二時。
昼のピークを乗り切り、店内が一時的に落ち着いた頃。
「三神、ちょっと休憩入っていいぞ」
「ありがとう、助かる」
零は、汗を拭いながら教室を出て、廊下の窓際で息をついた。
(……なんとか、無事にここまで来たな。メイド服姿も見慣れればどうということは……いや、あるな)
その時。
「……あら」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返った零は、そこに立つ人物を見て——完全に硬直した。
白いブラウスにネイビーのスカート。艶やかな黒髪を肩口で切り揃えた、凛とした佇まいの少女。
周防凛花である。
「……あなた、また会いましたね。というか……その格好は」
凛花もまた、零のフリフリのメイド服姿を見て、驚いたように目を丸くしていた。
「り、凛花さん……!? どうしてここに! そしてこれはクラスの罰ゲームみたいなもので深い意味はなくて!」
「白百合の盾の皆さんが、地域交流活動としてこちらの文化祭を訪問すると聞いて。……協会からも代表として、挨拶に伺ったんです」
彼女は、そこで小さく首を傾げた。
「それより、あなたこそなぜここに? ……あ、まさか」
「……はい。この学校の、生徒です」
「そうだったんですか」
凛花は、しばらく零の顔をまじまじと見つめた後、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……不思議な人ですね、本当に」
「え?」
「街のベンチで会って、カフェで会って、今度は文化祭で。……三度目ですよ、これ」
彼女は、指を三本立ててみせた。
「こんなに偶然が続く人、生まれて初めてです」
(……いや、ほんとそうですね)
零は、内心で冷や汗をかいていた。
最初の遭遇は、たまたま袋が破れたから。
二度目は、緋雪が意図的に自分を同席させたから。
そして三度目は——本当に、ただの偶然だった。
「あの、よろしければ」
零は、必死に平静を装いながら口を開いた。
「うちのクラス、喫茶店をやってるんです。もしお時間があれば、寄っていってください」
「……いいんですか?」
「はい。むしろ、ぜひ」
教室の隅の席に案内された凛花に、零はオムライスを運んだ。
「お待たせしました。……あまり期待しないでくださいね」
「いえ、そんな」
凛花は、丁寧に手を合わせてからスプーンを取った。
そして、一口。
「…………」
彼女の動きが、止まった。
「あ、あの、口に合いませんでしたか?」
零が、慌てて尋ねる。
凛花は、答えなかった。
スプーンを持ったまま、俯いて、じっと皿を見つめている。
やがて。
ぽたり、と。
彼女の頬を伝った涙が、テーブルの上に落ちた。
「……り、凛花さん!?」
「あっ……ご、ごめんなさい」
凛花は、慌てて目元を拭った。
「違うんです。美味しくなかったわけじゃなくて。……その、逆で」
彼女は、震える声で続けた。
「すごく、美味しくて。……懐かしい味がして」
「懐かしい……?」
「私の姉が、よくオムライスを作ってくれたんです」
凛花は、赤くなった目を伏せた。
「姉は、料理が得意で。私が落ち込んでいる時は、必ずオムライスを作ってくれました。『これ食べたら、大抵のことは何とかなるよ』って言って」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「結構前に、亡くなったんですけど」
零の呼吸が、止まった。
(……やっぱり。凛音さんだ)
彼の脳裏に、遠い記憶が蘇る。
まだ零がほんの子供だった頃。魔獣に襲われた彼を助け、命を落とした一人の魔法少女、周防凛音。
そして、その後の彼の人生のすべてを決定づけた、恩人。
「ごめんなさい、変な話をして」
凛花が、慌てて頭を下げた。
「あなたの料理が、あまりに姉のに似ていたから。……つい、思い出しちゃって」
「……いえ」
零は、静かに首を振った。
「……お姉さん、きっと素敵な人だったんですね」
その一言に、凛花はしばらく零の顔を見つめた後——今日一番の、柔らかい笑みを浮かべた。
「はい。世界で一番、素敵な人でした」
その一部始終を。
教室の反対側のテーブルから、羽衣緋雪はじっと見つめていた。
「……ねえ、緋雪」
隣に座る飛鳥が、恐る恐る声をかける。
「なんか、コップの水が凍ってるんだけど」
「……あら。気のせいじゃないかしら」
緋雪の声は、驚くほど平坦だった。
(……凛花さん)
彼女は、零と楽しげに言葉を交わす凛花の横顔を見つめる。
嫉妬ではなかった。いや、多少はあった。だが、それ以上に彼女の胸を騒がせているのは、もっと本能的な警戒だった。
(あの子は、零くんの中にある『ルーツ』を、無意識に嗅ぎ取っている)
緋雪は、静かに息を吐いた。
(あの子は、真実に近づける立場にいる。……そして、その動機を、これから持ってしまうかもしれない)
「……あの子、危険だわ」
「え? 何が?」
真奈が、きょとんと首を傾げた。
「……なんでもないわ」
夕暮れ。
秋桜祭の一日目が、無事に終わろうとしていた。
後片付けを終えた零が、疲れきった顔で教室を出ると、廊下の窓際に緋雪が立っていた。
「……お疲れさま、零くん」
「緋雪さん。まだ残ってたんだ」
「ええ。少しだけ、話したくて」
二人は、並んで窓の外を眺めた。
校庭では、明日の準備をする生徒たちの姿が、夕陽に照らされている。
「……今日、凛花さんと話していたわね」
「うん」
緋雪は、しばらく黙った後、静かに尋ねた。
「あの子に、お姉さんの話をされたの?」
「……うん」
零は、素直に頷いた。
「オムライスを食べて、泣いてた。……お姉さんが、よく作ってくれた味に似てたって」
「……そう」
緋雪は、目を伏せた。
「零くん。これは、お節介かもしれないけれど」
「なに?」
「……気をつけて」
彼女は、真剣な眼差しで零を見上げた。
「あの子は、鋭いわ。そして、真っ直ぐすぎる。……もし、あなたの中にお姉さんの面影を見つけてしまったら」
緋雪の声が、僅かに震えた。
「あの子は、その理由を探し始めてしまうかもしれない。……あなたが『ゴースト』であるという真実に、辿り着くために」
零は、しばらく無言だった。
やがて、彼は静かに答えた。
「……分かってる」
窓の外では、秋の夕陽が、ゆっくりと沈んでいこうとしていた。




