第二百二十話
朝晩の空気に、はっきりとした冷たさが混じり始める季節。
三神零の通う高校では、一年で最も盛大な行事——文化祭『秋桜祭』の準備が、いよいよ本格的に始まろうとしていた。
「——というわけで、今年のうちのクラスの出し物を決める! 案のある奴、どんどん出せ!」
放課後の教室。
黒板の前に立った学級委員が、声を張り上げた。
零は、教室の隅の自席で、これ以上ないほど身を縮こまらせていた。
(頼む。頼むから、誰も余計なことを言い出さないでくれ……!)
彼の脳裏には、去年の秋桜祭の記憶が、悪夢のようにこびりついている。
クラスの出し物として企画された「魔法少女コスプレ喫茶」。
そこで零は、なぜか『ゴースト』のコスプレをする客引き役に抜擢された。しかも、あろうことか本物のゴーストとして六時間連続で変身し、魔力を隠蔽し続けるという地獄の労働を強いられたのだ。
その結果、彼のクラスは文化祭で伝説的な売り上げを記録し、零は校内で『あのレイヤー』として不動の地位を確立してしまった。
(今年こそは、平穏に。ただの裏方の調理担当として、静かに文化祭を終えるんだ……!)
「はいはーい! 俺、案があります!」
勢いよく手を挙げたのは、零の友人であり、魔法少女オタクの稔だった。
(——おい待て稔ゥ!!)
零の顔が、瞬時に青ざめる。
「去年の『魔法少女コスプレ喫茶』、大成功だったじゃないですか! なんと売上校内一位! あの伝説を、今年も再現すべきだと思います!」
「おおーっ!」
「それだ! やっぱりそれしかないだろ!」
教室が、一斉に沸き立った。
「待て、待ってくれ!」
零は、慌てて立ち上がった。
「去年と同じことをやっても、新鮮味がないだろ!? 二番煎じだって言われるだけだって!」
「何言ってんだよ零」
稔が、キラキラした目で振り返った。
「去年の成功は、お前という『本物すぎるレイヤー』がいたからだ。今年もお前がいる限り、うちのクラスは無敵なんだよ!」
「無敵じゃない! 俺の胃と精神が死ぬ!」
しかし、零の必死の抵抗も虚しく。
「じゃあ、多数決な。魔法少女コスプレ喫茶に賛成の人ー」
教室中の手が、一斉に挙がった。
「……三十五対一で、可決」
学級委員が、淡々と宣言する。
「ちょっと待って!? 俺の一票、軽すぎない!?」
「安心しろ三神」
クラスメイトの一人が、零の肩をポンと叩いた。
「今年は俺たちも協力する。去年はお前一人に負担がかかりすぎたからな」
「……本当か?」
「ああ。今年は、女子も含めて全員でコスプレする。だからお前は、あくまで『看板』としてだな」
「結局、俺が一番目立つ看板なのか!」
その日の帰り道。
零は、絶望的な顔でスマートフォンを操作していた。
『——今年もコスプレ喫茶に決まりました。俺の意思は完全に無視されました』
メッセージを送った十秒後、返信が来た。
『あら。それは、去年と同じ衣装かしら?』
羽衣緋雪からの返信である。
その文面から、明らかに楽しんでいる気配が漂っていた。
『他人事だと思って……』
『そんなことないわよ。ただ』
少しの間があって、次のメッセージが届いた。
『今年もゴースト姿でエスコートしてもらえるのかしら?』
零は、思わず足を止めた。
(……そういえば、去年の文化祭の時は)
まだ、緋雪とは今のような関係ではなかった。
彼女は協会のトップエースで、自分はただの一般人の同級生。それ以上でも以下でもなかった。
あれから、一年も経っていない。
だが、あまりにも多くのことが変わった。
『……分かった。じゃあ、今年も来てくれる?』
『ええ。喜んで』
数日後。
白百合の盾・本部の休憩室。
「——え!? 三神くんの学校の文化祭!?」
真奈が、目をキラキラさせて身を乗り出した。
「ええ。去年も、私と真奈でゲストとして呼んでいただいたでしょう」
緋雪が、コーヒーカップを手にしたまま答える。
「行く行く! 真奈、絶対行く! 去年の三神くんのコスプレ、すっごく可愛かったもんね!」
「……あの、真奈。あまり大きな声では」
零の尊厳を守るため、緋雪が人差し指を口元に当てるが、時すでに遅し。
「あー、あれね」
通りかかった鈴乃が、興味深そうに足を止めた。
「私、去年は任務で行けなかったのよね。写真だけは見せてもらったけど。……あれ、本当に男の子だったの?」
「ええ。本人が『二度とやりたくない』と嘆いていたのだけれど」
彼がどれほど魔力隠蔽に苦労したかを知っている緋雪は、少し困ったように微笑んだ。
「今年もやることになったそうよ」
「ふーん」
鈴乃の目が、す、と細くなった。
(……これは、行かなければならないわね)
同人作家としての本能が、静かに、しかし猛烈に燃え上がっていた。
「私も行くわ。……取材として」
「取材って何よ」
呆れたように口を挟んだのは、弓飛鳥だった。
「あんた、また変なもの描こうとしてない?」
飛鳥には同人誌を描いている際に、原稿を見られ、バレてしまっている。
「失礼ね。芸術活動よ」
「言い方を変えても中身は同じでしょうが」
しかし、緋雪の表情には、僅かな懸念が浮かんでいた。
「……ただ、今年は少し問題があるのよね」
「問題?」
真奈が首を傾げる。
「私たち、去年とは違って知名度が違うでしょう」
その一言に、休憩室の空気が変わった。
白百合の盾は、御子柴事件の一連の報道を通じて、国民的な支持を得ていた。
政府の隠蔽を暴き、被害者の保護を引き受けた組織として、その名前は今や全国区である。
中でも、記者会見に立った姫嶋会長と新実由鶴、そして各地の魔獣掃討で最前線に立ったエース陣は、連日メディアに取り上げられていた。
「……去年みたいに、ふらっと遊びに行くのは難しいかもしれないわね」
飛鳥が、腕を組んで唸る。
「私たちが行ったら、確実に人が集まる。学校側にも、生徒たちにも迷惑がかかるかもしれない」
「そ、そっか……」
真奈が、しゅんと肩を落とした。
その時。
「——なるほど。それでしたら、私に考えがあります」
休憩室の入り口から、涼やかな声が響いた。
新実由鶴が、タブレットを片手に立っていた。
「由鶴!?」
「話は聞かせていただきました」
由鶴は、眼鏡の位置を直しながら室内に入ってきた。
「白百合の盾の広報として、正式に『文化祭訪問』を申請すればよいのです」
「正式に……?」
「はい。事前に学校側と調整し、警備計画と動線を組んだ上で訪問する。地域交流活動の一環として、広報部の公式スケジュールに組み込みます」
由鶴は、淡々と続けた。
「そうすれば、突発的な混乱は避けられます。学校側も事前に準備ができますし、生徒の皆さんにとっても良い思い出になるでしょう」
「……由鶴、あなた」
緋雪が、目を丸くした。
「なぜ、そこまで」
「……別に。組織の広報活動として、合理的な判断をしているだけです」
由鶴は、僅かに視線を逸らした。
「それに、あなたたちがこの一ヶ月、まともに休んでいないことは把握しています。……たまには、そういう時間も必要でしょう」
由鶴が去った後。
「……あの子、変わったよね」
鈴乃が、しみじみと呟いた。
「前はもっと、こう……なんていうか、殺伐としてたっていうか」
「そうかしら」
緋雪は、静かに微笑んだ。
「昔から、ああいう人だったのかもしれないわ。……ただ、私たちが気づいていなかっただけで」
彼女は、由鶴が去っていった扉を見つめた。
(……ありがとう、由鶴)
そして、その頃。
都内某所、福音の鐘の作戦室。
「——ルディア様! 重大な情報が入りました!」
須藤真里が、血相を変えて駆け込んできた。
「なんですの、騒々しい」
「零様の学校で、来週『秋桜祭』なる祭事が開催されるとのことです! しかも、一般客の入場が可能とのこと!」
その報告を聞いた瞬間。
ルディア・ロンディニウムの黄金の瞳が、爛々と輝いた。
「……なんですって?」
彼女は、優雅にティーカップを置き、恍惚とした笑みを浮かべた。
「零様が、学び舎で青春を謳歌なさるお姿を……この目で拝見できる機会だと?」
「はい! しかも、去年は『ゴースト様のコスプレ』なるものをなさっていたという情報も——」
カシャァァンッ!!
ルディアの手から滑り落ちたティーカップが、床で粉々に砕け散った。
「……ゴースト様の、コスプレ」
(神使様が、我が身をもって我らが神のお姿を体現なされるというのですか……!)
「ル、ルディア様?」
「行きますわ」
ルディアは、震える声で立ち上がった。
「福音の鐘の総力を挙げて、その祭事に参列いたします。……何人たりとも、わたくしを止めることは許しませんわ」
同時刻、星監の拠点。
「……ふうん」
ヴィクトリア・ローゼンベルグは、部下から上がってきた報告書を眺めながら、艶やかに微笑んでいた。
「零くんの学校で、文化祭。……しかも去年は、魔法少女のコスプレをして客引きをしていたと」
「はい。当時の写真も、一部が校内SNSに残っておりました」
「見せなさい」
部下がタブレットを差し出す。
そこに映る画像を見た瞬間、ヴィクトリアの目が僅かに見開かれた。
「……あら」
彼女は、しばらく無言で画面を見つめた後、静かに端末を閉じた。
「……この写真、全部確保しておきなさい。永久保存よ」
「は、はい」
「それと、来週のスケジュールを空けなさい。……私も、視察に行くわ」
そして、三神家。
「ねえお兄ちゃん、今年も文化祭あるんでしょ?」
夕食の席で、玲奈が箸を止めて尋ねた。
「あー……うん、まあ」
零は、味噌汁を啜りながら曖昧に答えた。
「今年も、あれやるの? 去年の、コスプレ」
「……やる……ことになってしまった」
「やった! 絶対見に行く!」
玲奈が、はしゃいで手を叩いた。
「私も行くわよ」
姉の澪が、ニヤニヤしながら茶碗を置いた。
「去年は行けなかったからね。今年こそ、あんたの恥ずかしい姿を高画質で記録してあげる」
「やめてくれ姉さん……」
零は、深いため息をついた。
(……なんか、去年よりひどいことになりそうな予感がする)
その予感は、残念ながら、完全に的中することになる。
国家の陰謀も、裏社会の抗争も乗り越えた最強の死神が。
人生で最も過酷な二日間を迎えるまで、あと一週間。




