第二百十八話
白百合の盾・本部、情報班専用の会議室。
御子柴逮捕と政府の隠密事業の暴露から数週間が過ぎ、世間の喧騒がようやく次のフェーズへと移行し始めた頃。
窓のない小さなその部屋に呼び出された羽衣緋雪は、扉を閉めながら、微かな緊張を覚えていた。
「……由鶴。話って、何かしら」
部屋の中央のテーブルには、新実由鶴が一人で座っていた。
彼女の前には、分厚いファイルが一つ、置かれている。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
由鶴は、静かに向かいの椅子を示した。
「どうぞ、お掛けください」
緋雪が腰を下ろすと、由鶴はしばらく無言でファイルの表紙を見つめていた。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「緋雪。……もう、嘘をつかなくて結構ですよ」
緋雪の呼吸が、一瞬止まった。
「……どういう意味かしら」
「そのままの意味です」
由鶴は、まっすぐに緋雪を見つめた。
「白鳥さんの『完全消去』処置の情報を、あなたが閲覧できる場所に置いたのは、私です」
緋雪の目が、大きく見開かれた。
「……え」
「政府の国防委員会サーバーから、私が独自に取得した情報でした。本来であれば、上層部に報告すべきものです。ですが私は、それをあえて要注意情報共有フォルダに紛れ込ませ、あなたの目に留まるよう仕向けました」
由鶴の声は、淡々としていた。
「あの時の私は、あなたを試そうとしていたのです。もしあなたがゴーストの精神支配下にある冷酷な手先になり下がっているのなら、たった一人の元同期を救うためになど、動くはずがないと」
「……由鶴」
「そして、あなたは動いた」
由鶴は、静かに続けた。
「翌朝、政府の第7メンテナンス施設が襲撃を受けました。地下のメンテナンスルームは、内側から凍りつき、粉々に砕かれていた。……氷属性の、極めて緻密な魔力によって」
緋雪は、何も答えられなかった。
「あの夜、私は廊下であなたに尋ねましたね。『昨晩、本当に自室にいましたか』と」
「……ええ」
「あなたは、はっきりと嘘をつきました」
由鶴は、僅かに目を伏せた。
「あの時の私は、正直に言えば……少し、傷つきました」
緋雪は、膝の上で拳を握りしめていた。
「……ごめんなさい」
絞り出すような声だった。
「あなたを騙すつもりなんて、なかった。でも、あの時の私には」
「分かっています」
由鶴が、静かに遮った。
「あなたは、白百合の盾を守るために嘘をついた。……そうでしょう?」
緋雪が、顔を上げる。
「あの時、もしあなたが正直に『政府の施設に潜入した』と認めていれば、白百合の盾は組織ごと責任を問われていました。政府との協定違反、テロ支援、あらゆる罪状を並べ立てられて、解体されていたでしょう」
由鶴は、ファイルに手を置いた。
「だからあなたは、すべてを一人で背負って、嘘をつくことを選んだ。……姫嶋さんも、湯野さんも、真奈さんたちも、そして私も。誰一人巻き込まないために」
緋雪の目に、じわりと涙が滲んだ。
「……なんで、そこまで」
「情報班ですから」
由鶴は、僅かに口の端を上げた。
「人の嘘を見抜くのが仕事です。……その嘘が、何を守るためについたものなのかを含めて」
由鶴は、テーブルの上のファイルを、緋雪の方へと押しやった。
「これは……?」
「私が先日の記者会見の前に、姫嶋さんに提出した調査報告書の原本です」
緋雪は、恐る恐るファイルを開いた。
そこには、隠密事業の全容が克明に記されていた。
政府の内部記録、施設の運用実態、生体ユニットの管理番号、そして完全消去処置の記録。
だが。
「……私の名前が、どこにもない」
緋雪は、震える手でページをめくった。
白鳥を救出した人物は、一貫して「所属不明の第三者」と記載されている。
由鶴自身が情報をリークしたという事実についても、一切触れられていない。
「そうです」
由鶴は、静かに頷いた。
「私は、情報班のトップとして意図的に不完全な報告書を作りました」
「由鶴、それって……」
「組織への背信行為ですね。分析官として、あってはならないことです」
由鶴は、あっさりと認めた。
「ですが、私は選びました」
彼女は、まっすぐに緋雪を見つめた。
「あなたを告発する情報班ではなく——あなたを守る盾になることを」
緋雪の目から、こらえきれずに涙が零れ落ちた。
「……ばか」
「はい?」
「ばかよ、由鶴。……そんなことをしたら、あなたが」
「私は、大丈夫です」
由鶴は、微笑んだ。
「それに、姫嶋会長は気づいておられると思います。……あの方は、私が思っている以上に鋭い方ですから」
彼女は、少しだけ肩をすくめた。
「先日、こう言われました。『新実さん。あなたは、いつからそんなに"テロリスト"を信用するようになったのですか』と」
「……なんて答えたの」
「『分析の結果です。データがそう示しているだけです』と」
由鶴は、視線を逸らしながら答えた。
「……我ながら、下手な言い訳でした」
緋雪が、涙を拭いながら小さく笑った。
しばらくの沈黙の後。
由鶴が、真剣な表情で口を開いた。
「緋雪。一つだけ、聞かせてください」
「……ええ」
「あなたは、ゴーストという存在について——どこまで知っていて、どうやってあの底知れぬ存在と信頼関係を築いたのですか」
緋雪の呼吸が、また止まった。
部屋の空気が、張り詰める。
彼女は、しばらく答えられなかった。
由鶴は、ここまで自分のすべてを差し出してくれた。組織への背信を犯してまで、自分を守ってくれた。
その相手に対して、自分はまだ嘘をつき続けなければならない。
彼が背負う重い十字架を、これ以上広げないために。
「……由鶴」
緋雪は、震える声で答えた。
「ごめんなさい。」
由鶴は、静かにその答えを受け止めた。
「……そうですか」
「本当に、ごめんなさい」
緋雪は、深く頭を下げた。
「あなたには、こんなに助けてもらって。……なのに私は、まだ嘘をつき続けなきゃいけない」
「構いません」
由鶴の返答は、驚くほどあっさりとしていた。
「……え?」
「構いません、と申し上げました」
由鶴は、静かに繰り返した。
「あなたが話せないということは、それだけの理由があるということです。私はあなたを信じています。……あなたが誰かを守るために嘘をついているのなら、その嘘は正しい嘘です」
「由鶴……」
「私は、あなたが話せる日が来るまで待ちます」
彼女は、真剣な目で緋雪を見つめた。
「ただ、一つだけ約束してください」
「……なにかしら」
「一人で抱え込むのだけは、やめてください」
由鶴の声が、僅かに震えた。
「あなたが背負っているものが、あなた一人の手に負えなくなった時。その時は、必ず私に言ってください。……何も聞かずに、隣に立ちますから」
緋雪は、両手で顔を覆った。
「……ありがとう」
彼女の声は、涙で掠れていた。
「本当に、ありがとう、由鶴」
会議室を出た後。
緋雪は、廊下の窓に額を押し付けたまま、しばらく動けずにいた。
(……由鶴。あなたは、私が思っていたよりずっと)
監視され、疑われ、追及される相手だと思っていた。
だが実際には、彼女はずっと、自分を守るために動いてくれていた。
(零くん。……私、あなたに一つだけ、お願いしていいかしら)
緋雪は、窓の外の空を見上げた。
(いつか。全部が終わって、誰も傷つかなくてよくなった日が来たら。……由鶴にだけは、本当のことを話させて)
一方、会議室に一人残された由鶴は。
誰もいなくなった部屋で、椅子の背もたれに深く身を沈め、天井を見上げていた。
「……やれやれ、です」
彼女は、疲れきったように息を吐いた。
情報班のトップとして、彼女は真実を追い求めることを己の存在意義としてきた。
だが今日、彼女は自ら「聞かない」ことを選んだ。
(……いえ、諦めたわけではありませんよ)
由鶴の目に、静かな光が戻る。
(緋雪が話せないというのなら、私は自分の力で辿り着くまでです)
彼女は、端末を起動し、いつものように分析画面を開いた。
画面に表示されるのは、これまで積み上げてきた膨大な「ゴースト関連事案」のデータ。
(あの死神は、何者なのか。なぜ、あれほどの力を持ちながら、誰も殺さないのか。……なぜ、緋雪はあの絶対的な存在と、対等の関係を築けているのか)
由鶴は、キーボードの上に指を置いた。
「……いつか、必ず突き止めてみせます」
誰にともなく呟いたその言葉には、しかし、かつてのような疑心も敵意も含まれてはいなかった。
あるのはただ——仲間への深い信頼と、抑えきれないほどの純粋な興味だけだった。




