第二百十九話
御子柴の逮捕から、二週間。
世間はまだ隠密事業の報道で騒がしかったが、三神家の食卓には、ようやく以前と同じ穏やかな空気が戻ってきていた。
そんなある日の夕方。
零のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
『——お疲れ様、零くん。作戦は完璧に成功したわね。
というわけで、約束の履行を求めるわ。
週末、迎えを寄越すから支度しておいて。
行き先は、あなたもよく知っている場所よ。
ヴィクトリア』
「……あ」
零の手から、スマートフォンが滑り落ちそうになった。
(……忘れてた。完全に忘れてた……!)
作戦会議の場でヴィクトリアがゴーストに要求した『見返り』。
エージェント(三神零)との、丸一日の時間。しかも、泊まりがけで。温泉で。
(あの時は四十七人の命がかかってたから、頷くしかなかったけど……!)
零は、頭を抱えた。
そして、週末。
黒塗りの高級送迎車に揺られること、二時間。
山道を抜けた先に現れた純和風の荘厳な門構えを見て、零は思わず声を上げた。
「……『神休庵』」
それは、以前、家族旅行で訪れた高級温泉旅館だった。
あの時は、ルディアとヴィクトリアが結託して旅館一帯を山ごと買収し、福音と星監の精鋭が超絶結界を張り巡らせるという、とんでもない事態になっていた場所である。
「あら、覚えていてくれたのね」
隣の座席で、ヴィクトリアが優雅に微笑んだ。
今日の彼女は、いつもの豪奢なドレスではなく、涼しげな薄手のワンピース姿だった。プラチナブロンドの髪を緩く結い上げ、休暇を楽しむ大人の女性そのものの佇まいをしている。
「前回は、あなたのご家族と一緒だったでしょう? 今回は、二人きり」
ヴィクトリアは、悪戯っぽく零の顔を覗き込んだ。
「ゆっくり、たっぷり、堪能させてもらうわね」
「……お、お手柔らかにお願いします」
だが、旅館の玄関をくぐった瞬間。
「——ようこそお越しくださいましたわ、零様!」
仲居の姿をしたルディア・ロンディニウムが、満面の笑みで三つ指をついて出迎えた。
「いらっしゃいませー、お兄さん!」
「心を込めておもてなしするね、お兄さん」
その両隣には、同じく仲居姿のルカとリリアが並んでいる。
「……あ、あの」
零は、口をパクパクさせた。
「なぜ、ルディアさんたちがここに」
「あら、当然ですわ」
ルディアは、優雅に立ち上がった。
「この旅館は、以前わたくしどもが山ごと買収した福音の鐘の所有物ですのよ? 所有者が滞在して何がおかしいのですか」
「——ちょっと待ちなさい」
ヴィクトリアの目が、鋭く細められた。
「所有権は、その後の交渉で星監と福音の共同名義になったはずでしょう。それに、今日は私が予約を入れた日よ。あなたたちが来る予定はないはず」
「共同名義であるならば、わたくしどもが使用して何の問題がありまして?」
ルディアは、しれっと言い返した。
「それに、神使様が長期にわたる激務でお疲れになっているのは、福音の鐘にとっても重大な関心事ですわ。ゴースト様の御心を煩わせぬよう、万全のおもてなしをする義務がございます」
「屁理屈を……!」
「あ、そういえばー」
ルカが、無邪気に手を挙げた。
「ルディア様、昨日『あの泥棒猫に神使様を独占させてなるものですか』って叫びながら予約表を書き換えてたよね」
「ル、ルカ! 余計なことを言うのはおやめなさい!」
「……なるほど、そういうことね」
ヴィクトリアの周囲に、紫電がバチバチと迸り始めた。
「表に出なさい、ルディア・ロンディニウム。旅館ごと消し飛ばしてあげるわ」
「望むところですわ、このヴィクトリア・ローゼンベルグ!」
「二人とも落ち着いてください! 旅館が! 旅館が!」
零が必死に仲裁に入っていると、旅館の奥から気だるげな声が聞こえてきた。
「……相変わらず、うるさいわね」
浴衣姿の長身の女性が、缶ビール片手に廊下を歩いてきた。
アッシュグレーの髪を無造作に上げ、アイスブルーの瞳を半眼に細めている。完全にくつろぎモードだ。
「……あの、どちら様ですか?」
零が戸惑って尋ねると、女性は缶を傾けたまま零をじろじろと眺め回した。
「へえ。……あんたが」
彼女は、値踏みするような視線で零の頭からつま先までを一往復させた後、心底意外そうに眉を上げた。
「……これが、噂の『神使』?」
「え?」
「シルヴィア・バークス。星監欧州支部の実働部隊長よ」
彼女は、面倒くさそうに名乗った。
「あの死神が絶対の信頼を置いてる寵臣だって聞いてたから、どんな化け物かと思ってたけど。……ただの、ちょっと気の弱そうな高校生じゃないの」
「は、はあ……」
零は、曖昧に頷くしかなかった。
(バレてる……いや、バレてないんだけど、なんか複雑だな……!)
「あ、その方が三神さんですか!」
その後ろから、小柄な少女がぱたぱたと駆け寄ってきた。
水色の髪をアップにまとめた、柔らかな雰囲気の浴衣姿。
「初めまして。レイラ・メリクスと申します。同じく星監の欧州支部で、治癒を担当しております」
彼女は、丁寧に頭を下げた。
「ゴースト様から、いつもお話は伺っておりました。……あの方が、これほど誰かを気にかけているのは珍しいと、ヴィクトリア様が仰っていましたので」
「そ、そうなんですか」
(気にかけてるも何も、俺なんですけど……!)
零は、内心で頭を抱えた。
「シルヴィア! レイラ! なぜあなたたちまで!」
ヴィクトリアが、頭を抱えた。
「え? ヴィクトリア様が『慰労』って」
「私が言ったのは、九州の作戦の慰労として今度どこかへ連れて行く、という意味であって、今日ではないわ!」
「あら、そうでしたか」
シルヴィアは、悪びれもせずビールを傾けた。
「まあ、来ちゃったものは仕方ないでしょう。……それとも、私たちが邪魔になるようなご予定でも?」
「……ッ!」
シルヴィアの意味深な視線に、ヴィクトリアは言葉を詰まらせた。
そして、その夜。
豪華な会席料理が並ぶ大広間。
なぜか大所帯になってしまった一行が、賑やかに膳を囲んでいた。
「……はぁ」
零は、疲れきったため息をついた。
(結局、こうなるのか……)
前回の温泉旅行を思い出す。
あの時も、ルディアとヴィクトリアが結託した結果、旅館全体が裏社会の要塞と化していた。
(学習した。俺は学習したぞ。この人たちに囲まれてる限り、静かな休日なんて絶対に来ない)
その時。
大広間の入り口の障子が、すらりと開いた。
「あら、偶然ね」
全員の視線が、そちらへと向く。
浴衣姿の羽衣緋雪が、氷点下の微笑みを浮かべて立っていた。
「私も、たまたま友達と旅行に来ていたの。……本当に、偶然だけれど」
「「「……」」」
その背後では、同じく浴衣姿の真奈、飛鳥、鈴乃が、きょとんとした顔で立ち尽くしていた。
「ねえ緋雪ー、なんで急に旅行なんて言い出したの?」
真奈が、不思議そうに首を傾げる。
「そうよ。しかもこんな山奥の高級旅館、予約取れるわけないでしょって言ったのに、あなた『大丈夫、空いてるから』って言い張って」
飛鳥も、怪訝そうに腕を組んだ。
「……緋雪、あんた何か企んでない?」
鈴乃が、じっとりとした視線を送る。
「企んでなんかいないわ。ただ、疲れが溜まっていたから、休養が必要だと思っただけよ」
(……絶対に、ヴィクトリアさんと二人きりになんてさせないんだから)
緋雪は、完璧な作り笑いを浮かべたまま、心の中で固く決意していた。
その後の宴席は、控えめに言って地獄だった。
「零様、こちらのお造りをどうぞ。わたくしが取り分けて差し上げますわ」
「零くん、こっちの日本酒も美味しいわよ。……あら、未成年だったわね。残念」
「三神くん、お茶をどうぞ。……熱いから、気をつけてね」
右からルディア、左からヴィクトリア、正面から緋雪。
三方向から差し出される料理と飲み物に、零は完全に囲まれていた。
「……なあ、あれ大丈夫なの」
シルヴィアが、少し離れた席でビールを傾けながら呟く。
「見ていて胃が痛くなりますね……」
レイラが、心配そうに手を組んだ。
「うわ、すごい。緋雪ちゃんの周りだけ気温下がってない?」
真奈が、自分の腕をさすった。
「……ねえ鈴乃。あの二人、もしかして」
飛鳥が、小声で鈴乃に尋ねる。
「……真奈、見なかったことにしましょう。」
鈴乃は、スマホを構えかけて——ふと手を止めた。
「……いや、待って。この構図、撮りたいけど危険だわ。撮ったら私が消される」
同人作家としての本能と、生存本能が激しくせめぎ合っていた。
そして、事態はさらに悪化した。
宴もそろそろ終わりに近づいた頃。
ほろ酔いになったヴィクトリアが、するりと零の腕に自分の腕を絡めてきたのだ。
「ねえ、零くん」
「は、はいっ!?」
彼女の頬は、日本酒のせいで薄紅色に染まっていた。
いつもの妖艶な余裕はそのままに、しかし瞳の奥がいつもより湿っている。
「私ね、最初はあなたのこと、ただの『ゴースト様への交渉窓口』としか思っていなかったの」
「……はあ」
「でも、あなたって不思議な子ね。あんな化け物みたいな存在の傍にいながら、全然汚れていない。……ねえ、星監に来ない? 私、あなたみたいな子が傍にいてくれたら、退屈しなくて済みそうなんだけど」
ヴィクトリアの指先が、零の頬に触れた。
「——聞き捨てなりませんわね!!」
その瞬間、テーブルを挟んだ向かい側から、ルディアが猛然と身を乗り出した。
「零様! よく聞いてくださいまし!」
彼女は、黄金の瞳を光らせながら、零の手をぎゅっと両手で握りしめた。
「わたくしは、この泥棒猫のように神使様を組織の駒として利用しようなどとは考えておりません! あなたが我らが神の御使いだからでも、交渉の窓口だからでもなく——ただ純粋に、あなたという存在を教団にお迎えしたいと願っておりますの!」
「る、ルディアさんまで!?」
「あら、星監の方が彼に相応しい環境を用意できるわ」
「すべてにおいて福音の鐘の方が優れておりますわ!」
右腕をヴィクトリアに、左手をルディアに掴まれたまま、零は完全に硬直していた。
(な、な、なんで急にこんなことに!? どうすればいいんだこれ!? どう答えても地雷しかない!)
顔から火が出そうなほど真っ赤になり、視線を右往左往させる零。
そして——
ピキィィィンッ……!
テーブルの一角から、明確な冷気が噴き出した。
「…………へえ」
浴衣姿の羽衣緋雪が、完全な無表情のまま、湯呑みを握りしめていた。
その湯呑みの中身は、すでに完全に凍りついている。
「うわ、緋雪ちゃんの周り、氷点下になってる……!」
「ちょっと、旅館壊さないでよ!?」
真奈と飛鳥が、慌てて緋雪を押さえにかかる。
「……いや、これは撮るべきかしら。歴史的瞬間だわ」
鈴乃が、震える手でスマホを構えかけては下ろすを繰り返していた。
「……ねえ、あれ止めなくていいの」
シルヴィアが、ビール片手に呟く。
「止められる気がしません……」
レイラが、青ざめた顔で首を振った。
宴もたけなわとなった深夜。
零は、こっそりと大広間を抜け出し、露天風呂へと向かった。
「……はぁ」
誰もいない岩風呂に肩まで浸かり、零はようやく人心地ついた。
見上げれば、山の上には満天の星空が広がっている。
(……終わったんだよな、本当に)
御子柴は逮捕され、隠密事業は白日の下に晒された。
四十七人の少女たちは保護され、少しずつだが人間としての生活を取り戻し始めている。
(誰も、死ななかった)
それが、何よりも嬉しかった。
その時。
岩を隔てた向こう側——女湯の方から、静かな声が聞こえてきた。
「……ここにいたのね」
「っ! 緋雪さん!?」
「静かに。他の人に聞こえるわ」
緋雪の声は、すぐ近くの岩の向こうから響いていた。
「みんな、宴会で盛り上がってるから。……少しだけ、話せるかしら」
「……うん」
しばらく、二人は無言で夜空を見上げていた。
「……全部、終わったのよね」
緋雪が、ぽつりと呟く。
「うん。……ようやく、少しだけ休めるかな」
「そうね」
湯の流れる音だけが、静かに響く。
「白鳥さん、実家に帰る日が決まったの」
「そっか」
「まだ完全に治ったわけじゃないから、通院しながらだけど。……お母様が、毎日面会に来てくださっているのよ」
「……よかった」
零は、心からそう思った。
「他の子たちも、少しずつ。名前を思い出す子が増えてきているって、由鶴が言っていたわ」
「……そう」
零は、湯の中で静かに拳を握りしめた。
(間に合った。……全員、間に合ったんだ)
「ねえ、零くん」
「なに?」
「約束の埋め合わせ、まだしてもらってないんだけど?」
零の背筋が、ピンと伸びた。
「……あ」
「あ、じゃないわよ」
岩の向こうから、緋雪の少しむくれた声が聞こえてくる。
「あなたが今日、誰と一泊しているのか、私はしっかり把握しているの。……水族館の帰りに、次は遊園地にでもって言ってくれたの、忘れてないわよね」
「い、いや、あれは作戦を通すために仕方なく……! しかも結局、大人数で宴会になってるし……!」
「分かってるわ」
緋雪は、くすりと笑った。
「でもね」
彼女の声が、少しだけ柔らかくなる。
「私、まだあなたと二人でどこにも行ってないんだけど。……誰も知らないところで、トップエースでもなくて。ただの零くんと、ただの緋雪として」
零は、しばらく言葉を探した後、静かに答えた。
「……次は、二人だけで行こう。絶対に」
「約束よ?」
「うん。……必ず」
岩の向こうで、緋雪が満足そうに息を吐く気配がした。
その、五分後。
「——三神くーん! どこですのー!?」
「零くん、隠れても無駄よ。星監の探知網からは逃げられないわ」
「あ、露天風呂の方じゃない? 見てくるー!」
賑やかな声が、廊下の向こうから近づいてくる。
「……逃げるわよ、零くん」
「ああ!」
最強の死神と氷のトップエースは、慌てて湯から上がった。
国家の陰謀も、裏社会の抗争も乗り越えた二人が、今、最も恐れているもの。
それは、追いかけてくる年上のお姉さん二人だった。
星空の下、秘湯の宿の夜は、まだまだ長く騒がしく更けていく。




