第二百十七話
御子柴逮捕から、一週間。
国内は、連日この事件の報道で埋め尽くされていた。
国防委員会の重鎮による国家的な人体実験と、その隠蔽。そして証拠隠滅のための魔獣大量解放。あまりにも巨大な不祥事に、内閣は総辞職に追い込まれ、関係省庁には次々と強制捜査が入っていた。
郷田理事をはじめとする実務責任者たちも、次々と身柄を拘束されている。
『——本日、警察庁は新たに三名の官僚を、特別公務員職権濫用および傷害の疑いで逮捕したと発表しました』
『いわゆる「隠密事業」に関わったとされる関係者は、現時点で四十名を超えており——』
白百合の盾・作戦指令室。
流れ続けるニュースをモニター越しに眺めながら、新実由鶴は深いため息をついた。
「……法の網が、ようやく回り始めましたね」
「ええ。ですが」
背後に立つ姫嶋会長が、静かに言った。
「加害者が裁かれることと、被害者が救われることは、別の話です」
東京郊外に確保された、白百合の盾の臨時保護施設。
かつては企業の研修センターだった広い建物の中に、四十七人の少女たちが保護されていた。
だが、そこには「救出」という言葉から連想されるような、明るい空気は流れていなかった。
「……佐々木さん。今日の体調はいかがですか」
白衣を着たスタッフが、ベッドに座る少女に声をかける。
「…………」
少女は、答えなかった。虚ろな目で、壁の一点をただ見つめている。
別の部屋では。
「いやっ! やめて、処置はやめてください!」
少女の一人が、看護スタッフの手を振り払って絶叫していた。
「もう、忘れたくない! これ以上、何も消さないで……!」
「大丈夫です、大丈夫ですから! 誰もあなたに何もしません!」
スタッフが必死になだめる。だが、少女の恐怖は簡単には収まらなかった。
施設の一室で、緊急の会議が開かれていた。
「……現状を報告いたします」
由鶴が、資料を手に淡々と告げた。
「保護している四十七名のうち、自分の氏名を思い出せた者は十九名。実家や親族と連絡が取れたのは、そのうち十一名です」
「……半数以下、ですか」
姫嶋が、静かに目を伏せる。
「はい。呪符による記憶封印は、単に記憶を隠すのではなく、脳の記憶野そのものに干渉しています。福音の鐘の浄化魔力と星監の解析技術で封印の進行は止まっていますが、失われた記憶がどこまで戻るかは……正直、未知数です」
「連絡が取れなかった者はどうなりますか?」
湯野が問う。
「……三年以上、行方不明のまま放置されていたケースがほとんどです。中には、すでに失踪宣告が出され、戸籍上『死亡扱い』になっている者もいます」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「死亡扱い……」
「はい。法的には、彼女たちは『存在しない人間』です。住民票も、保険証も、銀行口座も、すべて抹消されています」
由鶴は、資料を握りしめた。
「政府は、彼女たちから心を奪っただけではありません。……社会的な存在そのものを、消していたのです」
「……姫嶋さん」
由鶴が、顔を上げた。
「率直に申し上げます。白百合の盾がこの子たちを保護し続けることは、組織にとって極めて重い負担になります」
彼女は、冷徹な情報分析官として、避けられない現実を並べた。
「四十七名分の生活費、医療費、リハビリ費用。専門スタッフの確保。そして何より、この子たちの多くは治療に数年単位の時間を要します。……我々は、市民を魔獣から守るための防衛組織です。これは、本来の業務範囲を大きく逸脱しています」
「そうですね」
湯野が、眉間に皺を寄せた。
「クラウドファンディングで集めた資金は、装備と人員の維持で手一杯。これ以上の支出は、組織の存続そのものを危うくします」
二人の視線が、姫嶋へと集まった。
姫嶋は、しばらく無言で窓の外を見つめていた。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「……新実さん。湯野さん。一つ、聞かせてください」
「はい」
「この子たちは、なぜ政府に連れて行かれたのですか」
由鶴が、僅かに息を呑む。
「……適性検査で落選した者。任務で負傷し、組織から離脱した者。つまり」
「ええ」
姫嶋は、ゆっくりと振り返った。
「魔法少女という制度が、切り捨てた子たちです」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
「協会も、そして白百合の盾も。私たちは『戦える魔法少女』だけを見てきました。適性がなかった子、戦えなくなった子が、その後どうなったのか。……誰一人、気にかけてこなかった」
姫嶋の声には、深い悔恨が滲んでいた。
「御子柴という男は、確かに悪辣でした。ですが、彼が拾い上げた少女たちは、そもそも私たちが落とした子たちです」
「……姫嶋さん」
「白百合の盾は、この子たちを最後まで見届けます」
姫嶋は、断固として言い切った。
「資金がないなら集めます。人手が足りないなら募ります。……これは、業務範囲の逸脱ではありません。私たち大人が、二十年前に果たすべきだった責任です」
湯野が、深いため息をついた後、苦笑した。
「……あなたがそう言い出すことは、分かっていたわ」
彼女は、手元の端末を叩き始めた。
「では、私は資金繰りに走りましょうか。クラウドファンディングの第二弾と、賛同企業への打診を。……ええ、この件なら世論は完全に味方ですもの。金は集まるわ」
会議が終わり、由鶴は自席に戻って端末を開いた。
そこに、匿名の暗号化メッセージが一通、届いていた。
『——白百合の盾、情報班へ。
保護中の少女たちの呪符解析について、技術資料を提供する用意がある。
また、当面の医療費および施設運営費についても、匿名で拠出する準備がある。
条件は一つ。出資元を詮索しないこと』
由鶴は、しばらくその文面を見つめた。
発信元を追跡しようとしたが、経路は幾重にも偽装され、痕跡は完全に消されている。
だが、由鶴には見当がついていた。
(……星監と、福音の鐘)
国家の敵と呼ばれ、犯罪組織として指定されている二つの巨大勢力。
その両者が、匿名で、見返りも求めず、少女たちの治療費を出そうとしている。
(そして、その背後にいるのは……)
由鶴は、静かに椅子に深く沈み込んだ。
「……本当に、分からない人ですね。あなたは」
彼女は、返信を打ち込んだ。
『——提案を受諾します。
出資元は詮索しません。ただし、一つだけ伝えてください。ありがとう、と』
同じ頃、保護施設の一室。
「……白鳥さん」
羽衣緋雪が、静かに病室の扉を開けた。
ベッドに腰掛けていた白鳥は、緋雪の姿を見ると、柔らかく微笑んだ。
「緋雪。今日も来てくれたんだね」
「当然でしょう」
緋雪が椅子に腰を下ろすと、白鳥は少しだけ照れくさそうに口を開いた。
「あのね。……昨日、思い出したの」
「何を?」
「実家の、電話番号」
緋雪の目が、大きく見開かれた。
「……本当に?」
「うん。夢の中で、母さんが冷蔵庫に貼ってたメモを見てて。目が覚めたら、番号が頭の中にあったの」
白鳥は、震える手で自分の膝を握りしめた。
「昨日の夜、スタッフさんに頼んで、かけてもらったんだ」
「……それで」
「……母さん、私の声を聞いた瞬間、何も言えなくなっちゃって」
白鳥の目から、涙が零れ落ちた。
「三年間、ずっと探してくれてたんだって。警察にも、協会にも、何度も足を運んで。でも誰も取り合ってくれなくて。……それでも、諦めてなかったんだって」
彼女は、両手で顔を覆った。
「私、あの人たちに『誰も自分を必要としていない』って言われて、それを信じちゃってた。……ずっと、待っててくれた人がいたのに」
緋雪は、静かに白鳥の背中を撫でた。
ひとしきり泣いた後。
白鳥は、涙を拭って顔を上げた。
「……ねえ、緋雪。私、決めたことがあるの」
「なにかしら」
「私、もう一度……魔法少女をやりたい」
緋雪が、驚いたように白鳥を見つめた。
「魔力回路はボロボロだし、昔みたいに戦えないのは分かってる。呪符だってまだ完全には取れてない。……でもね」
白鳥は、窓の外を見つめた。
「あの施設には、私と同じ子が、まだたくさんいた。全国に、いくつも施設があるって話も聞いた」
「ええ」
「今回助けられなかった子も、きっといるはずでしょう。……そういう子を、今度は私が探しに行きたいの」
彼女は、まっすぐに緋雪を見返した。
「戦えなくてもいい。誰かを見つけて、名前を呼んであげることくらいなら、私にもできるから」
緋雪は、しばらく言葉を失っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ええ。きっと、あなたにしかできない仕事だと思うわ」
その日の夕方。
施設のホールに、保護されている少女たちが集められていた。
まだ表情の硬い者。俯いたままの者。それでも、少しずつ人間としての表情を取り戻し始めた者。
その前に立った白鳥が、緊張した面持ちで口を開いた。
「……あの、みんな。一つ、お願いがあるんだけど」
彼女は、周囲を見渡した。
「私たちを助けてくれた人に、お礼が言いたくて。……黒いドレスの、あの人に」
少女たちが、静かに顔を上げる。
「私、あの人に約束してもらったの。『あの子たちは、必ず私が連れ帰る。一人残らず』って」
白鳥の声が、震える。
「本当に、その通りにしてくれた。誰一人、欠けることなく」
ホールに、小さなざわめきが広がった。
「……会えるの?」
誰かが、小さく問う。
「それが……」
白鳥は、困ったように緋雪へと視線を送った。
緋雪は、静かに前へと進み出た。
「……ごめんなさい。あの人は、来られないわ」
「どうして?」
「私たち、まだお礼も言えてないのに」
少女たちの落胆した声に、緋雪は静かに首を振った。
「あの人は……名乗らないことを、選んだ人だから」
彼女は、ホールに集まった少女たち一人ひとりの顔を見つめた。
「感謝されるために助けたわけじゃない。誰かに認められたくてやったことでもない。……ただ、目の前に助けを求めている人がいたから、手を伸ばした。それだけの人なの」
緋雪の声には、深い誇りが滲んでいた。
「だから、あなたたちがお礼を言えなくても、あの人は何も気にしないわ。……むしろ」
彼女は、微笑んだ。
「あなたたちが幸せに生きてくれることが、あの人にとっての何よりのお礼になると思う」
その夜。
保護施設の屋上に、緋雪が一人で立っていた。
夜風が、彼女の銀髪を静かに揺らす。
「……聞いてたんでしょう」
緋雪が呟くと、足元の影がゆらりと揺らいだ。
闇の中から、漆黒のドレスを纏った少女がせり上がってくる。
「……盗み聞きするつもりはなかったのだけれど」
ゴーストは、少しばつが悪そうに答えた。
「ふふ。分かってるわ」
二人は、並んで夜の街を見下ろした。
「……白鳥さん、また魔法少女になるんですって」
「聞いていたわ」
「今度は、戦うためじゃなくて。……誰かの名前を、呼びに行くために」
ゴーストは、静かに目を細めた。
「……いい仕事ね」
「ええ。とても」
しばらくの沈黙の後、緋雪がぽつりと呟いた。
「ねえ、零くん」
「なにかしら」
「あの子たちが、いつか本当に幸せになれたら。……その時は、少しだけ、自分を褒めてあげてね」
ゴーストは、答えなかった。
ただ、静かに夜空を見上げていた。
その横顔は、いつもの冷徹な死神のものではなく——どこにでもいる、少しだけ疲れた高校生のもののように、緋雪には見えた。




