第二百十六話
闇に沈む地方空港。
滑走路の端に待機したプライベートジェットのタラップの前で、御子柴は硬直したまま動けずにいた。
彼の目の前。
夜風にドレスの裾を揺らし、漆黒の少女が静かに佇んでいる。
「……こんばんは、御子柴さん」
ゴーストの声は、驚くほど落ち着いていた。
「随分と、急いでいらっしゃるようね」
御子柴の額から、汗が一筋流れ落ちた。
この男は、これまで数え切れないほどの人間の運命を、机の上で決めてきた。
書類にサインをするだけで、少女たちの心を消し、兵器に変えてきた。
その全ての行為において、彼は一度も、自分が裁かれる側に回ることを想像したことがなかった。
「……ふん」
しかし、御子柴は虚勢を張るように鼻を鳴らした。
「私を殺しに来たのか」
彼は、震える手でコートの襟を正した。
「好きにするがいい。もはや、この国に私の居場所はない。……貴様に殺されるのも、あの無能な検察に晒し者にされるのも、大差はないだろうよ」
ゴーストは、静かに首を横に振った。
「……勘違いしているわ」
紫水晶の瞳が、冷たく光る。
「私は、あなたを殺しに来たんじゃない。連れ戻しに来たの」
「……なんだと?」
御子柴の顔が、怪訝に歪んだ。
「連れ戻す、だと? この私を、警察に突き出すというのか」
「ええ」
「馬鹿な。貴様は裏社会の頂点に立つ死神だろう。国家の敵として指定された存在だ。そんな貴様が、私を法の裁きにかけるだと?」
「そうよ」
御子柴は、堪えきれずに笑い出した。
「……ははっ。はははは! 滑稽だな、実に滑稽だ!」
彼は、狂ったように笑いながらゴーストを指差した。
「貴様は何も分かっていない! この国の司法など、政治の力でどうにでもなる! 私を法廷に引きずり出したところで、証拠不十分で不起訴だ! あるいは、部下に全ての罪を押し付けて、私は数年の執行猶予で娑婆に戻ってくる!」
「……そうかもしれないわね」
ゴーストは、平然と答えた。
「だったら、なぜ!」
御子柴の笑いが、憤怒へと変わる。
「なぜ、私をここで殺さない! 貴様が守ろうとしたあの娘たちの人生を奪ったのは、この私だぞ! 四十七人だ! いや、これまでの累計で言えば、その三倍はいる!」
彼は、両手を広げて叫んだ。
「貴様は私を憎んでいるはずだ! この場で首をへし折れば、全てが終わる! なぜそうしない!」
ゴーストは、しばらく無言だった。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「……一つ、聞かせて」
「なんだ」
「あなたは、なぜあんなことをしたの」
御子柴の眉が、僅かに動いた。
「なぜ? 決まっているだろう。国家を守るためだ」
彼は、当然のように答えた。
「魔獣の脅威は年々増している。だが、この国の魔法少女は数が足りん。協会は腐敗し、白百合などという民間組織は理想論ばかりを口にする。……誰かが、汚れ役を引き受けねばならんかったのだ」
「だから、少女たちの心を奪ったの」
「あれは、社会から見捨てられた余り物だ!」
御子柴は、吐き捨てるように言った。
「適性検査で落ちた者。負傷して使い物にならなくなった者。誰にも必要とされず、そのまま朽ちるだけだった連中だ。それを国防のために再利用して、何が悪い!」
彼の目は、本気だった。
この男は、自らの行為を悪だと認識してすらいなかったのだ。
「貴様が守ろうとしているのは、感傷だ」
御子柴は、憐れむようにゴーストを見た。
「一人ひとりの命だの、心だの。そんなものを大事にしていては、国は守れん。……いずれ貴様も分かる。守るためには、誰かを切り捨てねばならんのだと」
ゴーストは、その言葉を最後まで黙って聞いていた。
そして、静かに答えた。
「……いいえ。あなたは、間違っているわ」
「なに?」
「あなたは、守るために誰かを切り捨てた」
ゴーストの声が、夜風の中に響く。
「私は——切り捨てないために、強くなった」
御子柴が、息を呑んだ。
「それだけの違いよ。……あなたは、切り捨てることが必要だと信じ込んだ。だから、そのために必要な力を求めるのをやめた」
ゴーストは、一歩前へと踏み出した。
「四十七人。あなたが道具にした子たちを、私たちは誰一人殺さずに助け出した。人質にされた市民も、全員救い出した。……あなたが『不可能だ』と決めつけたことを、私たちはやってのけたのよ」
「……くっ」
「切り捨てなければ守れないというのは、あなたが弱かっただけ」
「——黙れェッ!!」
御子柴が、絶叫した。
彼の背後、ジェット機のタラップの陰から、三つの人影が音もなく飛び出してくる。
虚ろな瞳。首元に明滅する呪符。両手に構えられた、ダインスレイブ。
最後まで彼の護衛として残されていた、洗脳の解けていない隠密たち。
「殺せ! その女を、殺せぇッ!」
『——排除プロセスへ移行する』
三人の少女が、地を這うように殺到する。
だが。
「——眠りなさい」
ゴーストが、静かに指先を振った。
三方向から迫っていた隠密たちの足元に、影が沼のように広がる。
次の瞬間、彼女たちの身体は、まるで泥に沈み込むように影の中へと膝まで飲み込まれ、その動きを完全に封じられた。
『……ッ』
さらにゴーストは、彼女たちの首元へと手をかざした。
緋雪の技術を見様見真似で再現した、極低温の『氷』の魔力が呪符の術式へとピンポイントで干渉し、その稼働を強制的に凍結させる。
三人の少女は、糸の切れた人形のように、静かにその場に崩れ落ちた。
傷は、一つもない。
「……この子たちも、連れて帰るわ」
ゴーストは、静かに告げた。
「あなたが奪ったものを、全部返してもらう」
御子柴は、後ずさった。
彼の切り札は、たった数秒で無力化された。
しかも、一滴の血も流さずに。
「……なぜだ」
男の声が、掠れる。
「なぜ、殺さない。……その気になれば、私など一瞬で潰せるだろう。誰も見ていない。証拠も残らん。貴様がここで私を消しても、誰も貴様を責めはしない」
御子柴は、恐怖に顔を歪めながら叫んだ。
「むしろ、国民は喝采するだろう! あれだけの悪事を働いた男が死んだのだからな! ……なぜだ! なぜ、私を殺さない!」
ゴーストは、静かに彼を見つめた。
(誰にだって帰る場所があって、待っている家族や、当たり前の日常がある。俺の姉ちゃんや玲奈だって、昨夜はこいつのせいで徹夜で戦わされたんだ。それを『国のため』なんて都合のいい言葉で奪って、兵器として使い潰す権利なんて、誰にもない!)
胸の奥で煮えたぎる主夫としての、そして一人の人間としての怒りを冷徹な声に押し隠し、ゴーストは答えた。
「……あなたを殺したら、私はあなたと同じになるからよ」
「……なに?」
「あなたは、『国のため』という理由で、四十七人の少女から人生を奪った」
ゴーストの声は、静かで、しかし揺るぎなかった。
「もし私が、『正義のため』という理由であなたの命を奪えば。……それは、まったく同じことよ」
御子柴の目が、大きく見開かれた。
「都合のいい理由をつけて、誰かの命を道具にする。誰かの命を、目的のための手段として扱う。……私は、それだけは絶対にしない」
ゴーストは、御子柴の目を真っ直ぐに見据えた。
「たとえ、あなたが相手でも」
御子柴は、言葉を失っていた。
彼は、これまでの人生で、あらゆる人間の思惑を読み、利用し、操ってきた。
欲望も、恐怖も、正義感すらも、彼にとっては操作可能な変数に過ぎなかった。
だが、目の前の存在だけは。
この、圧倒的な力を持ちながら、その力を最も単純な用途に使わない少女だけは。
彼の理解の外側にいた。
「……貴様は」
御子柴は、力なく呟いた。
「貴様は、一体……」
ゴーストは、答えなかった。
代わりに、静かに片手を上げる。
次の瞬間、御子柴の身体が、目に見えない力によって地面へと引き寄せられた。
膝が折れ、両手が地面に押し付けられる。抵抗しようにも、指一本動かせない。
「ぐっ……!」
「——深淵の重圧」
精密に調整された重力が、御子柴の身体を滑走路の上に縫い付けた。
骨は折れていない。内臓も傷ついていない。ただ、絶対に動けないだけ。
「あと十五分ほどで、この重圧は解ける」
ゴーストは、静かに告げた。
「その頃には、あなたを追ってきた人たちが到着するはずよ。……国外逃亡を図った国防委員会の重鎮が、なぜか滑走路の真ん中で動けなくなっている。さぞ、話題になるでしょうね」
「ま、待て……!」
ゴーストは、無力化した三人の隠密を影の中へと引き入れながら、静かに背を向けた。
「待てと言っている!」
御子柴が、地面に押し付けられたまま叫んだ。
「貴様は……一体、何者なんだ! なぜ、そこまでする! 貴様に、何の得があるというのだ!」
ゴーストの足が、止まった。
夜風が、漆黒のドレスの裾を揺らす。
彼女は、肩越しに振り返ることもなく、静かに答えた。
「……ただの、通りすがりの魔法少女よ」
そして、その姿は、闇の中へと音もなく沈み込んでいった。
滑走路には、地面に這いつくばった一人の男と、遠くから近づいてくるサイレンの音だけが残された。
翌朝。
全国のテレビは、一斉に同じニュースを流していた。
『——国防委員会の重鎮、御子柴議員が、国外逃亡を図った容疑で逮捕されました』
『御子柴容疑者は昨夜、地方空港の滑走路で身動きが取れない状態で発見され、駆けつけた捜査員によって拘束されたとのことです』
『また、政府の魔獣保管施設からの大量解放についても、御子柴容疑者の指示によるものであった疑いが強まっており——』
三神家のリビング。
昨夜、都内の防衛線で徹夜の死闘を繰り広げ、ボロボロになって帰還した澪と玲奈は、湿布の匂いを漂わせながらテレビ画面を睨みつけていた。
「うわあ、この人、こんな顔してこんなことしてたんだ」
玲奈が、お茶をすすりながら御子柴の顔をまじまじと見つめた。
「最低よね。自分だけ逃げようとして、そのために魔獣まで解き放って。おかげでこっちは朝まで残業(戦闘)させられたっていうのに」
澪が、全身の筋肉痛に顔をしかめながらトーストをかじる。
「でもさ、結局この人捕まえたの、誰だったんだろ」
「さあ? ニュースだと『何者かによって拘束された状態で発見』としか言ってないわね」
澪は、ふとテレビ画面を見つめたまま呟いた。
「……あのストーカー女、かな」
「ゴーストちゃん?」
「ええ。あいつなら、やりそうじゃない? なんだかんだ言って、私たちのピンチにはいつも首突っ込んでくるし」
姉の言葉に、玲奈も納得したように頷く。
「そっか。……じゃあ、今度うちにお兄ちゃんのストーカーに来たら、少しだけ優しくしてあげよっか」
「まあ、お茶くらいは出してあげてもいいわね」
二人の背後、キッチンで。
三神零は、味噌汁の鍋をかき混ぜながら、密かに安堵の息を吐き、そして静かに微笑んでいた。
(……ストーカー女の誤解は解けてないけど、少しだけ評価が上がってるな。よかった、これで姉ちゃんたちの徹夜の苦労も少しは報われただろう)
「……朝ごはん、できたよ」
彼は、いつもと変わらない声で、家族を呼んだ。
「二人とも、冷めないうちに食べて」
窓の外では、昨夜までの惨状が嘘のように、穏やかな朝日が街を照らしていた。




