第二十二話
休日の駅前にあるファミリーレストランは、家族連れや学生たちの賑やかな喧騒で満ちていた。
ドリンクバーの機械が稼働する音や、食器が触れ合う音が絶え間なく響く中、三神零は四人掛けのボックス席の隅で、頭を抱えて呻き声を上げていた。
「……だから、ここでサインコサインが出てくる理由が分からないんだよ。なんだよこの公式、呪文か何かなのか……?」
「おいおい三神、数学の再テスト明日だろ? そんな調子で大丈夫かよ」
向かいの席で、山盛りのフライドポテトをつまみながら呆れたように言うのは、零のクラスメイトであり悪友の狭間稔だった。
先日の『魔法少女・公式実戦演習&ファン感謝祭』にて、只野真奈大尉の握手会へと零を強引に引きずり込んだ、筋金入りの魔法少女オタクである。
今日は「勉強を教えてやる」という名目で彼をファミレスに呼び出したはずだったのだが、肝心の稔はさっきからスマホの画面に釘付けになっており、一向に数学を教える気配がない。
「大丈夫なわけないだろ。お前が教えてくれるって言うから昼飯奢ったのに、さっきから何見てんだよ」
「まぁまぁ、焦るなよ。それより見ろよこれ! ついに『魔法少女クロニクル』公式から、ゴーストのURカードの描き下ろしイラストが公開されたんだぜ!」
稔は興奮気味に身を乗り出し、スマホの画面を零の顔の前に突きつけてきた。
「……ッ!」
画面に大写しになっていたのは、紫がかった漆黒のロングヘアを風に翻し、冷ややかな紫の瞳でこちらを見下ろすように漆黒の大剣を構える、美しき魔法少女——つまり、女性化した『自分自身』の姿だった。
ご丁寧に、背景には禍々しい黒炎と氷の結晶が舞い散り、フレーバーテキストには『私の心は、誰にも覗かせない』などという、思春期の黒歴史ノートのような痛々しいセリフが刻まれている。
「どうよこの圧倒的な美しさ! この見下すような冷たい目! ネットの掲示板じゃすでに『踏まれたい』『いやむしろ黒炎で焼かれたい』って有志たちの熱狂的な書き込みで溢れ返ってるぜ。俺も発売日に3BOXは剥く覚悟を決めたね!」
「…………そうかよ。頑張れよ」
零は、死んだ魚のような目をしながらスマホを押し返した。
自分が特S級の危険人物として世間を騒がせている裏で、こうして全国のオタクたちから萌えと欲望の対象として消費されているという現実は、彼の精神をガリガリと削り取っていく。身内が魔法少女になったという絶望的なフラグに続き、公式からの公開処刑。彼の胃壁はすでに限界を迎えていた。
「なんだよ、お前もゴーストのファンだろ? もっと喜べって」
「俺はいいんだよ。今はゴーストより二次関数の方が強敵なんだ……。ちょっとドリンクバーでメロンソーダお代わりしてくる。糖分入れないと脳が死ぬ」
零はため息をつきながら席を立ち、ドリンクバーのコーナーへと向かった。
氷をグラスに入れ、メロンソーダのボタンを押す。シュワシュワと泡立つ緑色の液体を見つめながら、零はふと、先日の野外研修での出来事や、姉と妹の適性試験合格について思考を巡らせていた。
そんな無防備な状態の彼の背中に、ふと、鈴を転がすような透き通った声が掛けられた。
「——あら。あの時の、優しい学生さんではありませんか?」
「えっ?」
不意に掛けられた声に、零は振り返った。
そこに立っていたのは、つばの広い麦わら帽子を目深に被り、大きめの伊達メガネをかけた、薄水色のワンピース姿の少女だった。
変装のつもりなのだろうが、隠しきれない清楚なオーラと、帽子の隙間から零れ落ちる美しい銀髪。そして、メガネの奥で静かに瞬く蒼い瞳。
(は、羽衣緋雪……!?)
日本支部現トップエース、『氷の女王』羽衣緋雪大佐。
つい先日、駅前のコンビニで鉢合わせし、クレープ屋まで道案内をした相手だった。
「やっぱり。奇遇ですね、こんなところでお会いできるなんて」
緋雪は、零の顔を見るとパァッと花が咲いたように微笑んだ。
テレビの向こう側で見せる冷徹な戦士の顔ではない。ごく普通の、年相応の女の子としての温かく無防備な笑顔に、零は一瞬ドギマギしてしまった。
「あ、えっと……羽衣、さん。こんにちは」
正体が『ゴースト』であるとバレてはいけない。しかし、不自然に避けるのも怪しまれる。零はあくまで「偶然クレープ屋を案内しただけの男子高校生」として、努めて平静を装った。
「その節は、本当にありがとうございました。教えていただいたクレープ、友人も飛び上がって喜んでくれましたよ」
「それは良かったです。あいつも……いや、そのご友人も、元気にやってるんですね」
あいつ(只野真奈)は先日のイベントで元気にハンマーを振り回していたからな、という言葉は当然飲み込む。
「ふふっ、ええ。とても元気すぎて、少し困るくらいですけど」
緋雪はクスリと笑い、ドリンクバーの紅茶のティーバッグをカップに入れながら、零の顔を見上げた。
「学生さんは、こちらによく来られるのですか?」
「あ、はい。家がこの近くなので、友達とテスト勉強をしてまして。羽衣さんは?」
「私もです。実は先日、病院を退院しまして……防衛任務の都合で、この近くのマンションに引っ越してきたんです。今日は少し息抜きに、甘いものが食べたくなって」
(……は?)
零の頭の中で、警報が鳴り響いた。
近所のマンションに、引っ越してきた。
それはつまり、この日本支部のトップエースであり、ゴーストを(好意的な意味で)執拗に探している少女が、完全なる『ご近所さん』になったということを意味していた。
(嘘だろ……。姉ちゃんと妹が魔法少女になるだけでも地獄の正体バレフラグなのに、エース本人まで近所に住み着いたのか!? 神様はどんだけ俺の日常をスリリングにしたいんだよ!)
内心で頭を抱えて絶叫する零だったが、表面上はなんとか笑顔を取り繕った。
「そ、そうなんですね。この辺はスーパーも近いし、住みやすいですよ」
「ええ。あなたのように親切な方もいらっしゃいますし、とても気に入っています」
緋雪の屈託のない言葉に、零は良心の呵責で胸が痛んだ。
自分は彼女の刀をへし折り、大怪我を負わせた張本人なのだ。「親切な方」などと言われる資格はない。
「あ……ごめんなさい、お勉強の邪魔をしてしまって。頑張ってくださいね」
「いえ、こちらこそ……。お大事にしてください」
緋雪はぺこりと頭を下げると、紅茶の入ったカップを持って、窓際の席へと歩いていった。
その後ろ姿を呆然と見送りながら、零はメロンソーダのグラスを持って、自分の席へと戻った。
しかし。
席に戻った零を待ち受けていたのは、この世の終わりでも見たかのような顔で、ワナワナと全身を震わせている悪友の姿だった。
「……おい、三神」
稔の声は、地を這うように低かった。
「なんだよ。早く二次関数の解き方教えて——」
「教えるかァァァァッ!!!」
ドンッ! と、稔がテーブルを両手で叩きつけた。
周囲の客が何事かと振り向くが、稔はそんなことお構いなしに、血走った目で零を睨みつけた。その目からは、誇張抜きで血の涙が流れ出しそうなほどの嫉妬の炎が燃え盛っている。
「お前っ……! お前お前お前ッ! 今の、羽衣緋雪大佐だろ!! なんで大佐がお前に向かって、あんな女神みたいな微笑みを向けてんだよ!!」
「しっ! 声がでかいって!」
零は慌てて稔の口を塞ごうとしたが、稔はそれを振り払って零の胸ぐらを掴んだ。
「隠蔽しようったって無駄だぞ! 俺のオタク・アイを甘く見るな! いくら変装してようが、あの銀髪と歩く姿の美しさ、間違いなく大佐だ! しかも『あの時の優しい学生さん』だとォ!? なんだその、深夜アニメの第一話みたいなラブコメ展開は!!」
「ち、違う! 誤解だ! ちょっと前に駅前で道を聞かれて、クレープ屋を案内しただけだよ!」
「それだよ! それがラブコメの始まりなんだよ! この前は真奈ちゃんとお手手ニギニギして長話するし、今度は大佐とファミレスでイチャイチャしやがって……! 俺というものがありながら……許さん、絶対に許さんぞ三神ィィッ!!」
稔はハンカチを噛み締めながら、本気で悔し泣きを始めた。
推しのアイドルが自分の親友と親しげに話しているのを目撃したオタクの悲哀。それはもう、同情を禁じ得ないほどの絶望ぶりだった。
「だからイチャイチャなんてしてねえよ! ただの世間話だ! それに羽衣さんは最近この近所に引っ越してきたらしいから、偶然会っただけで——」
「はあ!? ご近所さん!? フラグが強化されてんじゃねえか!! 次はなんだ、朝起きたらベランダ越しにおはようの挨拶でもする気か!? それとも幼馴染のポジションまで奪う気か!!」
「落ち着け! お前の妄想力が特S級になってるぞ!」
必死になだめる零だったが、稔の怒りと嫉妬は収まる気配がない。
結局、その日の勉強会は完全に崩壊し、零は稔の「お前がいかに恵まれた環境にいるか」というオタク特有の早口な説教を延々と聞かされる羽目になった。
(……俺の平和な日常は、どこへ行ったんだ)
窓際の席で、優雅に紅茶を飲みながら読書をしている緋雪の美しい横顔をチラリと盗み見ながら、零は深く、深くため息をついた。
姉と妹の適性試験合格。
日本支部トップエースのご近所への引っ越し。
そして、明日確実に待ち受けているであろう数学の再テスト。
未登録魔法少女ゴースト——三神零を取り巻く環境は、魔獣との戦いとは全く別のベクトルで、かつてないほどの『絶望的な包囲網』を形成しつつあった。
胃薬を手放せない日々は、まだまだ終わりそうになかった。




