第二百十三話
夜明け前。
九州の山中に設営された、星監の救護拠点。
巨大なテントの中には、簡易ベッドがずらりと並べられていた。
その一つひとつに、虚ろな表情の少女たちが横たえられている。
施設から救出された、四十七名の隠密たち。
一人の欠けもなく、全員が生きたまま、この場所に運び込まれていた。
「……三十二番の呪符、凍結処置完了」
フードを目深に被った緋雪が、額の汗を拭いながら次のベッドへと移動する。
彼女の魔力は、すでに限界に近かった。四十七人分の呪符を、一つひとつ緻密に制御しながら凍結させていく作業は、氷のトップエースをもってしても凄まじい消耗を強いるものだった。
「無理をなさらないでください」
レイラ・メリクスが、水の癒しの光を緋雪の背に流し込む。
「魔力の回復を補助します。……あなたが倒れたら、この子たちを止められる人がいなくなってしまいますから」
「……ありがとう。助かるわ」
テントの中では、福音の鐘の術者たちが円陣を組み、浄化の祈りを捧げていた。
温かな光が、少女たちの首元に巣食う赤黒い魔力を、少しずつ中和していく。
「……信じられない光景ですわね」
真里が、包帯の巻かれた腕を押さえながら呟いた。
「かつての我々なら、この状況で真っ先にやっていたのは、こいつらの口を封じることでしたのに」
「今は違うでしょ、マリお姉ちゃん」
ルカが、疲れた顔で笑った。
「あたしたちは、救済の使徒なんだから」
夜が完全に明ける頃。
最初に意識を取り戻した少女が、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは」
彼女は、天井のテント布をぼんやりと見つめた後、傍らに立つレイラに気づいた。
「おはようございます」
レイラが、柔らかく微笑む。
「もう、大丈夫ですよ。あなたはもう、あの施設には戻りません」
「……施設」
少女の瞳が、僅かに揺れた。
「……わたし、は」
彼女は、震える手で自分の首元に触れた。そこには、凍結された呪符の冷たい感触がある。
「わたし……何番だっけ」
その一言に、レイラの表情が、痛みに歪んだ。
「番号じゃありません」
彼女は、少女の手をそっと握った。
「あなたには、名前があります。……思い出せなくても大丈夫。時間はいくらでもありますから」
少女は、しばらく無言でレイラの顔を見つめていた。
そして、ぽろりと、一粒の涙を零した。
「……なまえ」
「はい」
「わたし、名前で呼ばれるの……久しぶり、かも」
それを皮切りに、テントのあちこちで少女たちが目を覚まし始めた。
自分の名前を思い出せる者。番号でしか自分を認識できない者。母親の顔を思い出して泣き崩れる者。
混乱と涙に満ちた朝の光景を、ゴーストはテントの入り口で静かに見つめていた。
(……全員、生きている)
零の胸に、深い安堵と、それを上回る重い決意が広がっていく。
(でも、これで終わりじゃない。この子たちが人間として生き直すためには、まだ足りないものがある)
その頃。
東京、白百合の盾・作戦指令室。
「——由鶴さん! これを見てください!」
オペレーターの一人が、緊迫した声で叫んだ。
由鶴が駆け寄ると、モニターには複数のニュース速報が並んでいた。
『九州の防災訓練施設で大規模な爆発事故』
『施設周辺の住民数十名が一時行方不明に、その後全員無事保護』
「……住民が、行方不明? そして全員保護?」
由鶴の目が、鋭く細められた。
「保護された住民の方々への取材映像が、SNSに上がっています。……これが、その内容です」
由鶴は、モニターに表示された動画を再生した。
毛布を肩にかけた初老の男性が、震える声でカメラに語りかけている。
『——事故じゃないんです。私たちは、政府の人間に連れて行かれたんです』
『家に押しかけてきて、有無を言わさず車に乗せられて。あの建物のホールで、椅子に縛り付けられて……』
『何が起きてるのか、さっぱり分からなかった。ただ、殺されるんだと思いました』
カメラが、隣に立つ若い女性へと移る。
『助けてくれたのは、黒いドレスの女の子でした』
『その子が来て、あっという間に私たちの手錠が外れて。水色の髪の女の子が、私たちを何かの膜で包んでくれて。……それで、風に乗せられて外に運び出されたんです』
女性は、泣きながら続けた。
『誰も、怪我しませんでした。子供も、お年寄りも、全員無事でした』
『テレビでテロリストだって言われてる人たちが、私たちを助けてくれたんです。……政府の人が、私たちを縛り付けたのに』
由鶴は、動画が終わった後も、しばらくモニターを見つめたまま動けなかった。
「……由鶴さん?」
「……繋がりました」
由鶴の声は、震えていた。
「すべて、繋がりました」
白百合の盾・会長室。
姫嶋会長と湯野副会長の前に、由鶴は分厚い資料の束を置いた。
「——第二次調査報告です。ご覧ください」
姫嶋が資料を手に取り、湯野が横から覗き込む。
「先日ご報告した第一次報告書……『ダインスレイブ運用計画』における生体ユニットの件です。政府は、適性検査で弾かれた者や負傷した元魔法少女を回収し、洗脳して兵器として使い潰していました。そして、自我が崩壊した個体は『完全消去』として脳を焼き切る」
「……何度見ても、反吐が出る内容ですわね」
湯野が、忌々しげに顔をしかめる。
「ええ。政府が『テロリストに連れ去られた保護対象』と主張する女性は、まさにその完全消去の対象だった『白鳥』です。……そして、こちらが本日未明、九州で保護された住民の方々の証言です」
由鶴は、次の資料を差し出した。
「複数の独立した証言が、一致して同じことを述べています。——彼らは政府の人間によって施設に連行され、拘束されていた、と」
姫嶋の指が、資料の上で止まった。
「政府が『人質』を取っていた、ということですか」
「はい。目的はおそらく、施設を襲撃する勢力の動きを封じるためです」
会長室に、重い沈黙が落ちた。
「……最悪ですわね」
湯野が、深いため息をついた。
「自国民を、盾として使ったということですか。それも、非道な研究施設を隠蔽するためだけに」
姫嶋は、静かに資料を閉じた。
そして、長い、長い沈黙の後に、こう呟いた。
「……新実さん。これは、国家の犯罪です」
「はい」
「政府は、市民を守るという建前の裏で、少女たちの心を奪い、道具として使い潰し、それを隠すために自国民を人質に取り、さらに『テロリスト』という物語を作り上げた」
姫嶋の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「私は……この二十年、魔法少女という制度の中で生きてきました。組織の腐敗も、政治の汚さも、嫌というほど見てきたつもりでした」
彼女は、拳を握りしめた。
「ですが、これは。……これだけは、許してはならない」
「姫嶋さん。ですが、公表には慎重にならざるを得ませんわ」
湯野が、冷静に指摘した。
「これを公表すれば、政府は間違いなく『白百合の盾はテロリストの協力者だ』という反撃に出ます。世論はすでに向こうに傾いている。証拠の信憑性そのものを疑われる可能性が高い」
「……ええ。私も、同じことを考えていました」
由鶴が頷いた。
「政府サーバーから取得した記録は、不正アクセスによるものです。証拠能力を問われれば、確実に突かれます。九州の住民証言も、『テロリストに口裏を合わせさせられた』と言われれば水掛け論になる」
「では、決定打は何ですか」
姫嶋が問う。
由鶴は、静かに顔を上げた。
「……被害者本人たちの、証言です」
彼女の目に、確信の光が宿った。
「一人や二人ではありません。数十人、あるいはそれ以上。同じ手口で心を奪われた少女たちが、それぞれの言葉で、それぞれの人生を語る。……そうなれば、もはや誰にも『洗脳された作り話』とは言えなくなります」
「ですが、その被害者たちはどこに」
「……分かりません」
由鶴は、正直に答えた。
「ですが、確信していることが一つあります。九州の施設を襲撃した勢力の目的は、破壊ではありません。……あの子たちを、助け出すことだったはずです」
由鶴は、モニターに映る崩れた施設の航空写真を見つめた。
「爆発があったのは、外郭と設備区画のみ。収容区画には一切の被害がありません。……救出が目的でなければ、こんな戦い方はしません」
姫嶋は、しばらく由鶴の顔を見つめた後、静かに微笑んだ。
「新実さん。あなたは、いつからそんなに『テロリスト』を信用するようになったのですか」
「……分析の結果です」
由鶴は、僅かに視線を逸らした。
「データが、そう示しているだけです」
同じ頃。
新生・魔法少女協会、周防凛花の私室。
凛花もまた、九州のニュースと、SNSに上がった住民の証言動画を見つめていた。
「……黒いドレスの女の子」
彼女は、画面を停止させ、そこに映る証言者の顔を見つめた。
(政府がテロリストと呼ぶ存在が、政府に人質にされていた市民を助け出した。……もう、疑いようがない)
凛花は、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
そこには、彼女がこの数週間、独自に集めてきた情報が書き連ねられている。
福音の鐘の幹部たちが見せた、不自然な手心。
政府の隠密部隊という、協会に一切知らされていなかった直轄部隊の存在。
そしてその部隊が、誰一人殺されることなく「生け捕り」にされていたという事実。
ノートの最後のページに、凛花はペンを走らせた。
『政府は、何かを隠している。そしてゴーストは、それを暴こうとしている』
彼女は、ペンを置き、深く息を吐いた。
(お姉ちゃん。私、多分もう、後戻りできないところまで来ちゃった)
窓の外では、朝日が街を照らし始めていた。
「……でも、それでいいよね」
凛花は、亡き姉の写真に向かって微笑んだ。
「間違ってるものを、間違ってるって言えなくなったら。……それはもう、魔法少女じゃないもんね」
そして、九州の救護テント。
目を覚ました少女たちが、それぞれの言葉で、途切れ途切れに自らの過去を語り始めていた。
「……お母さんの、顔が思い出せないんです」
「わたし、まだ十七歳だったのに。もう三年も、あそこにいたって」
「痛かった。処置のたびに、頭が焼けるみたいに痛かった」
福音の術者たちが、星監の技術者たちが、そしてレイラが。
その一つひとつの言葉を、静かに、丁寧に記録していく。
やがて、それは四十七の声となった。
国家が消し去ろうとした、四十七人分の人生。
その声は今、確かにこの世界に刻まれ始めていた。
テントの外で、ゴーストは静かに東の空を見上げていた。
(……もうすぐだ)
零の胸に、静かな確信が広がっていく。
(この子たちの声が揃った時。あの男が作り上げた嘘の物語は、跡形もなく崩れ落ちる。……そうすれば、また平和にスーパーの特売に行ける日々が、俺の家族にも戻ってくるはずだ)
夜明けの光が、最強の死神の漆黒のドレスを、金色に染め上げていた。




