第二百十二話
決行の夜。
九州の山間部、深い森に囲まれた広大な敷地。
表向きは自治体の防災訓練施設として登録されているその建物は、月のない闇の中で、まるで巨大な墓標のように静かに佇んでいた。
『——全部隊、配置完了』
通信機から、シルヴィア・バークスの気だるげな声が流れる。
『施設を囲む四方の道路、すべて風の壁で封鎖したわ。外部からの増援も、内部からの脱出も、蟻一匹通さない』
『こちら救護班、準備完了です』
続いて、レイラ・メリクスの落ち着いた声。
『施設東側の森に救護拠点を設営しました。救出された方は、順次こちらへお願いします』
「よろしい」
施設を見下ろす崖の上で、漆黒のドレスを纏ったゴーストが静かに頷いた。
その傍らには、深くフードを被った小柄な人影——緋雪が控えている。
崖下の茂みには、福音の鐘の精鋭部隊が息を潜め、少し離れた位置では星監のエージェントたちが装備の最終確認を行っていた。
「作戦目標を、もう一度確認するわ」
ゴーストは、通信機越しに全部隊へ告げた。
「収容されている少女、四十七名。全員を無傷で救出する。政府の兵士も、洗脳されたままの隠密も、一人も殺さない。……以上」
『御意』
『了解』
「——行くわよ」
外郭の突破は、驚くほど順調だった。
ルディアの聖光の刃が正門を吹き飛ばし、ルカの巨大な鎌とリリアの双剣が防衛部隊を次々と無力化していく。
シルヴィアの風が施設の周囲を完全に隔離し、退路を断たれた特務執行官たちは、なす術もなく制圧されていった。
「……あまりに順調ですわね」
真里が、出刃包丁を握りしめたまま眉をひそめた。
「この規模の中枢施設にしては、防衛が薄すぎます」
「……ええ」
ゴーストもまた、同じ違和感を覚えていた。
施設の内部へと踏み込む。
長い通路を抜け、中央の巨大なホールへと続く扉を、ルカが勢いよく蹴り開けた。
そして——部隊全員の足が、そこで完全に止まった。
「……なに、これ」
ルカの声が、掠れた。
吹き抜けの巨大なホール。
その中央に、数十人の人間が、椅子に縛り付けられた状態で並べられていた。
初老の男性。若い女性。制服姿の学生。そして、小さな子供。
全員が猿轡を噛まされ、恐怖に見開かれた目でこちらを見つめている。
「民間人……!?」
緋雪が、フードの下で息を呑んだ。
だが、本当に悪辣なのは、その配置だった。
拘束された民間人たちの真正面。彼らを守るように——いや、彼らを背にするようにして、虚ろな目をした少女たちが立ち並んでいたのだ。
首元に禍々しい呪符を明滅させ、両手に魔力無効化兵器『ダインスレイブ』を構えた、洗脳されたままの隠密たち。
その数、およそ二十。
『——ようこそ、諸君』
ホールのスピーカーから、聞き覚えのある声が響き渡った。
御子柴の声だった。
『歓迎するぞ、ゴースト。そして、貴様に付き従う裏社会の狂犬どもよ』
ゴーストの紫水晶の瞳が、鋭く細められる。
『さて、状況を説明してやろう。目の前にいるのは、この地域の住民、そして施設職員の家族たちだ。彼らには何の罪もない。ただ、運悪くこの近くに住んでいただけの、善良な一般市民だよ』
御子柴の声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
『そして、その前に立っているのが我が国の生体ユニットたちだ。彼女たちは今、明確な命令を受けている。——侵入者を排除せよ、とな』
「……貴様ァッ!」
真里が、憤怒の形相でスピーカーを睨みつけた。
『さあ、どうする? 貴様らは誰も殺せんのだろう? これまでの戦闘記録から、それは完全に把握している』
御子柴は、嘲るように笑った。
『生体ユニットを本気で攻撃すれば、その余波で背後の民間人が死ぬ。かといって手加減すれば、貴様らが削られていく。……貴様らの掲げる「不殺」とやらは、この状況で何の役に立つのかね?』
ホールに、絶望的な沈黙が落ちた。
「……最低ですわね」
ルディアが、殺意を滾らせた声で呟く。
「神の慈悲を、弱点として利用するとは」
「ルディア様、どういたしますか」
宮子が、無機質な声で問う。
『——ゴースト』
通信機から、シルヴィアの声が割り込んだ。
『外から施設内部の熱源反応を見てるけど、状況は把握したわ。……悪いこと言わないから、一旦引きなさい。これは無理よ』
『そうです、一度撤退して作戦を練り直しましょう』
レイラの声も続く。
その時。
「——いいえ」
ゴーストが、静かに一歩前へと踏み出した。
「引かないわ」
『ちょっと、正気?』
『ゴーストさん!』
「聞きなさい」
ゴーストは、通信機越しに、そして目の前の仲間たちに向けて告げた。
「あの男は、大きな勘違いをしているの」
彼女は、拘束された民間人たちと、その前に立つ隠密たちを、ゆっくりと見渡した。
「殺さないというのは、手加減じゃない。……全員を生かすために、殺す時よりも遥かに難しいことをやり抜くということよ」
ゴーストの足元から、闇色の魔力が静かに立ち昇り始める。
「見せてあげるわ。私たちの『縛り』が、どういうものなのかを」
『——排除プロセスへ移行する』
隠密たちが、一斉に動いた。
ダインスレイブを構え、地を這うような低い姿勢で殺到してくる。
その瞬間、ゴーストは三つの魔法を同時に展開した。
「——闇よ」
まず、ホールの床という床から、黒い影が壁のように立ち上がった。
それは、拘束された民間人たちと、突進してくる隠密たちの間に、正確に割り込むように形成される。
高密度の闇による、不可視の隔壁。
攻撃の余波が、決して民間人側へ届かないようにするための、絶対の遮断線。
「——氷よ」
次の瞬間、民間人たちを縛っていた拘束具だけが、パキンと音を立てて凍りつき、そのまま砕け散った。
人体には一切の冷気を及ぼさず、金属の拘束具のみを凍結・破砕する。緋雪の呪符凍結処置と同じ原理の、極限まで緻密に制御された氷結魔法。
「な……っ!」
拘束を解かれた民間人たちが、呆然と自分の手首を見つめる。
「——そして、炎」
最後に、ホールの天井の照明が、一斉に爆ぜた。
零が放った炎が、照明の回路のみを正確に焼き切ったのだ。ホールが完全な暗闇に包まれ、隠密たちの視界と索敵が同時に封じられる。
だが、その炎の熱は、民間人のいる区画には一切届いていなかった。
燃焼の範囲、熱の伝導、爆散する破片の軌道——そのすべてが、事前に計算し尽くされていた。
「……嘘、でしょう」
シルヴィアが、外部から熱源反応を見つめながら絶句した。
『三属性同時展開。しかも全部、人を傷つけない範囲に完璧に制御されてる。……こんな芸当、聞いたことないわよ』
『——レイラ!』
ゴーストが叫ぶ。
『はい!』
ホールの東側の壁が、内側から水流によって崩された。
救護拠点から駆けつけたレイラ・メリクスが、両手を広げて水の魔力を解き放つ。
「皆さん、動かないでください! 今、お守りします!」
澄んだ水の膜が、解放された民間人たち一人ひとりを包み込んでいく。
流れ弾も、崩落する瓦礫も、爆発の衝撃も——すべてを吸収し、無力化する、絶対防御の水膜。
『続いてシルヴィア! 通路を!』
『……了解。まったく、無茶苦茶な指揮官ね』
シルヴィアが、ホールの天窓を風の刃で切り裂き、そこから一気に気流を流し込んだ。
渦を巻いた風が、ホールの東側から外へと続く、一本の道を形成する。
「そこの人たち! 風に乗って! 立ってるだけでいいわ!」
シルヴィアの風は、レイラの水膜に包まれた民間人たちを、まるで川の流れのように優しく押し流し、安全な屋外へと運び出していった。
「わ、わ、わっ!?」
「動いてる、勝手に体が……!」
混乱しながらも、傷一つ負うことなく、次々と施設から脱出していく市民たち。
『……なんだと?』
スピーカーの向こうで、御子柴の声が明らかに動揺していた。
『馬鹿な……人質を、一人残らず……?』
「言ったでしょう」
闇に包まれたホールの中央で、ゴーストが静かに告げた。
「殺さないというのは、弱点じゃないわ。……あらゆる状況で、全員を助けるための技術よ」
彼女は、暗闇の中で戸惑う隠密たちへと向き直った。
「守るものがなくなった以上、遠慮はいらないわね。——ルディア、真里、リリア、ルカ!」
「「「御意!」」」
福音の鐘の精鋭が、闇の中へと躍り出た。
「あーもう、待ちくたびれた!」
ルカが巨大な鎌の峰を返し、隠密の腕を打ち据えてダインスレイブを叩き落とす。
「急所は外して、ちゃんと生け捕りだからね!」
リリアの双剣が閃き、隠密たちの関節を的確に外していく。
「聖光よ、我らが道を照らせ——!」
ルディアが放った眩い光が、闇の中で隠密たちの動きだけを縛り上げた。
そして。
「……こっちよ」
フードを被った小柄な人影が、無力化された隠密のもとへと駆け寄る。
緋雪は、暴走を始めた少女の首元の呪符に、そっと手を当てた。
極低温の魔力を、極限まで緻密に流し込む。
ピタリ、と呪符の明滅が止まり、少女の身体から力が抜けた。
「……一人目、処置完了」
緋雪は、静かに次の少女へと向かった。
闇のホールに、次々と少女たちが横たえられていく。
誰一人として、命を落としてはいなかった。
そして、その光景を——
帝都の地下司令室で、遠隔モニター越しに見ていた御子柴は蒼白な顔をしていた。
「馬鹿な……ありえん」
彼は、震える手でモニターに触れた。
「不殺という縛りが、あれほどの精密制御を可能にしているというのか。……弱点であるはずのものが、なぜ」
御子柴が「甘さ」と断じたもの。
「戦場において致命的な弱点」と嘲ったもの。
それは実のところ、あらゆる状況下で誰一人取りこぼさないために、極限まで研ぎ澄まされた技術の結晶だった。
「……ゴースト。貴様は、一体」
国家の暗部が用意した最も卑劣な罠は、最強の死神と、その仲間たちの手によって、一滴の血も流さぬまま完膚なきまでに打ち砕かれたのである。




