第二百十一話
星監の極秘ラボ、その待合スペース。
白鳥の病室を辞した零と緋雪は、人気のない廊下のベンチで向かい合っていた。
「……私も、参加させて」
緋雪が口にしたその一言に、ゴーストの姿のままだった零は、静かに首を横に振った。
「それはできないわ、緋雪さん」
「どうして」
「危険すぎるからよ。……いえ、それだけじゃない」
ゴーストは、廊下の壁に視線を落とした。
「今、政府はあなた個人への監視レベルを最大まで引き上げているはずよ。白鳥さんを救出したのが白百合のトップエースだと、向こうはすでに確信している」
「……ええ、そうでしょうね」
「その状態であなたが今回の作戦に参加して、万が一にも正体を掴まれたら。白百合の盾は『裏社会と結託した組織』として、確実に潰される。……全員よ」
零の言葉には、痛いほどの切実さがあった。
彼が何より恐れているのは、自分の戦いに愛する人と、その仲間たちを巻き込むことだった。
しかし。
「……だからこそ、顔も名前も隠して参加するの」
緋雪は、真っ直ぐにゴーストを見上げた。
「羽衣緋雪としてじゃないわ。ただの、名もない協力者として。魔力さえ完全に遮断できれば、誰にも私だとは分からない」
「緋雪さん……」
「白鳥さんの呪符を凍結させたのは、私よ」
緋雪は、静かに、しかし断固とした声で続けた。
「あの技術を実戦で使えるのは、今のところ私しかいない。救出した子たちの呪符が暴走したら、その場で処置ができる人間が必要なはずでしょう?」
ゴーストは、返す言葉を失った。
彼女の言う通りだった。何十人という規模の隠密を救出するなら、現場での応急処置能力は絶対に必要になる。レイラの治癒魔法は万能だが、あの呪符の術式に対処した経験があるのは緋雪だけなのだ。
「……ずるいわね、緋雪さん」
「あら。共犯者なんだから、これくらいは言わせて」
緋雪が、悪戯っぽく微笑む。
ゴーストは、深いため息をついた後、静かに頷いた。
「……分かったわ。ただし、正体の隠蔽は星監の技術を使う。一切の妥協はなしよ」
三日後。
影の結界空間に設えられた、巨大な円卓。
福音の鐘からルディア、真里、宮子、ルカ、リリア。
星監からヴィクトリア、そして欧州から招集されたシルヴィア・バークスとレイラ・メリクス。
円卓の主席には、漆黒のドレスを纏ったゴーストが座している。
そして、末席に一人。
深くフードを被り、顔を完全に隠した小柄な人影が、静かに佇んでいた。
星監が誇る最新の魔力遮断装備。魔力波長を完全に断ち、身体のシルエットすら曖昧にする特殊なマント。理論上、この装備を貫いて正体を看破することは不可能なはずだった。
「——さて。それでは、作戦会議を始めるわ」
ゴーストが口を開き、一同が姿勢を正す。
「今回の標的は、九州の山間部にある政府の最大規模施設。表向きは自治体の防災訓練施設だけれど、実態は隠密の製造とメンテナンスを行う中枢拠点よ。……収容されている少女の数は、判明しているだけで四十七名」
円卓に、重い空気が流れた。
「四十七人……」
レイラが、口元を押さえる。
「作戦の目的は、ただ一つ。その全員を、一人残らず助け出すこと」
ゴーストは、円卓を見渡した。
「そして、これも変わらないわ。——誰も殺さない。政府の兵士も、洗脳されたままの隠密も。全員、生きたまま無力化する」
「……ええ、承知しておりますわ」
ルディアが、恍惚とした表情で頷いた。
その時だった。
ルディアの視線が、ふと円卓の末席で止まった。
彼女は、僅かに首を傾げ——そして、黄金の瞳をスッと細めた。
「……あら」
その一声に、場の空気が固まる。
「星監の魔力遮断技術、見事なものですわ。魔力波長など微塵も感じさせません。……ですが」
ルディアは、優雅に立ち上がり、フードの人影へと歩み寄った。
「その立ち振る舞い。そして何より、仄かに漂うフローラルのシャンプーの香り……。白百合の盾の、氷のトップエース様ではありませんか。……羽衣緋雪様?」
円卓が、凍りついた。
「……っ!」
フードの下で、緋雪が息を呑む。
「な、なぜ……!?」
思わず漏れた声に、ルディアは満足げに微笑んだ。
「なぜ分かったのか、ですか?」
彼女は、頬に手を当てて小首を傾げた。
「わたくしがどれほどの時間、三神くんの周囲を見守ってきたとお思いですの? 彼の学校の行き帰り、買い物の動線、そして……彼にすり寄る女の匂いや気配の癖まで、すべて完璧に記憶しておりますわ」
(……この人、ストーカーじゃない!)
緋雪は、フードの下で顔を引きつらせた。
星監の技術班が総力を挙げて開発した最新の魔力遮断装備が、教祖の嗅覚(執念)によって完膚なきまでに突破された瞬間だった。
「……お見事ね、ルディア・ロンディニウム」
ヴィクトリアが、感心とも呆れともつかない声で呟いた。
「うちの技術班が泣くわ」
しかし、ルディアの表情は、すぐに険しいものへと変わった。
「ゴースト様」
彼女は、鋭い視線をゴーストへと向けた。
「なぜ、このような表社会の人間を、我々の聖なる作戦に加えるのですか。福音の鐘だけでも、十分すぎるほどの戦力があるはずですわ」
その声には、明確な敵意が滲んでいた。
(ゴースト様が、この女を重宝しておられる。……わたくしたちを差し置いて)
狂信者の嫉妬が、静かに、しかし危険な熱を帯び始める。
円卓の空気が、ピリピリと張り詰めた。
ゴーストは、そんなルディアを静かに見つめ返した。
「……勘違いしないで、ルディア。彼女は、白鳥を救出した際、呪符の構造を唯一その目で見て、凍結させる技術を確立した。……四十七人を無事に救い出すために、私の個人的な『手駒』として、特別に同行を許したのよ」
「手駒……ですか」
「ええ。呪符の暴走をその場で凍結して止められるのは、今のところ彼女だけ。……もちろん、あなたたちの力も頼りにしているわ、ルディア」
その一言に。
「——ぁ」
ルディアの表情が、一瞬にして崩壊した。
「あ、あああ……!」
彼女は、両手で口元を押さえ、その場に膝から崩れ落ちた。
「ゴースト様が……このわたくしを、頼りにしてくださると……!」
黄金の瞳から、大粒の涙が滝のように溢れ出す。
「ああ、なんという僥倖! なんという至上の喜び! このルディア・ロンディニウム、身命を賭してご期待に応えてみせますわ……! あの憎き政府の施設など、跡形もなく——いえ、失礼、生け捕りにしてご覧に入れます!」
先ほどまでの敵意など、影も形もなかった。
感涙にむせぶ教祖の姿に、真里が「ルディア様、落ち着いてください」と慌てて駆け寄る。
(……この人、扱いやすすぎない?)
フードの下で、緋雪が呆れ果てていた。
そして円卓の主席では、ゴーストが涼しい顔を装いながら、内心で(よ、よかった……なんとか威厳を保てた……)と胸を撫で下ろしていた。
その一部始終を、ヴィクトリア・ローゼンベルグは優雅に脚を組んだまま眺めていた。
彼女もまた、当然のように緋雪の正体には気づいていた。
だが、ルディアのように感情的に騒ぐことはない。彼女の頭の中では、まったく別の計算が高速で回転していた。
(白百合のトップエースを『手駒』として引き入れる。……ゴースト様の支配力は、もはや裏社会に留まらないわね)
単純に戦力として強力であること。
表社会との非公式なパイプが手に入ること。
そして何より、彼女が作戦に参加したという事実そのものが、将来的な切り札になり得ること。
ヴィクトリアは、パラソル型のステッキで、コツンと床を叩いた。
「——私は、この協力者の参加を歓迎するわ」
「なっ、ヴィクトリア・ローゼンベルグ! あなたまで!?」
ようやく立ち直ったルディアが噛み付くが、ヴィクトリアは平然と受け流した。
「戦力は多いに越したことはないもの。それに、表社会に一本パイプができるというのは、星監にとっても悪い話じゃないわ」
そして、彼女は妖艶に微笑みながら、指を一本立てた。
「ただし。タダで頷くほど、私はお人好しじゃないの」
ゴーストの背筋に、嫌な予感が走った。
「……何が望みかしら」
「ゴースト様。この件を認める見返りとして、また『あの権利』を頂戴するわ」
「……あの権利?」
「ええ」
ヴィクトリアは、艶やかに唇を吊り上げた。
「あなたの有能なエージェント——三神零くんとの、丸一日の時間よ。今度は泊まりがけで。……温泉あたりが、いいわね」
その瞬間、影の結界空間の温度が、明確に下がった。
「またそれですの!?」
ルディアが絶叫する。
「あなたという人は、どこまで強欲なんですの! ならばわたくしも——」
「あら、あなたはこの間、スーパーで毎日彼の隣に立っているでしょう」
「あれは聖なる職務であって、決して私欲では——!」
二人が言い争う中。
円卓の末席から、じわり、じわりと冷気が漏れ出していた。
(……泊まりがけ。温泉。零くんと)
フードの下で、緋雪の思考が凍りついていく。
正体を隠している(そして手駒として参加している)以上、彼女はここで一言も口を挟むことができない。抗議も、嫉妬の表明も、一切許されない。
その行き場のない感情が、無意識のうちに魔力となって漏れ出していた。
影の結界空間の床に、うっすらと霜が張り始める。
「……ねえ、なんか寒くない?」
シルヴィアが、アイスブルーの瞳を細めて周囲を見回した。
「結界の温度調整、壊れてるんじゃないの」
「あの、大丈夫ですか?」
レイラが、心配そうにフードの人影の顔を覗き込んだ。
「お顔が見えませんが……もしお加減が悪いようでしたら、すぐに処置しますが……」
「…………結構よ」
絞り出すような声で、緋雪は首を振った。
主席では、ゴーストが必死に平静を装いながら、内心で絶叫していた。
(冷気! 緋雪さんの冷気が漏れてる! そして俺の胃が死ぬ!)
しかし、ここで拒否する選択肢はない。
四十七人の少女たちの命がかかっている。星監の全面協力は、絶対に必要なのだ。
「……いいでしょう」
ゴーストは、可能な限り威厳を保った声で答えた。
「ただし、作戦を完璧に成功させることが条件よ」
「うふふ、交渉成立ね」
満足げに微笑むヴィクトリアの隣で、床の霜が、さらに範囲を広げていった。
その後、作戦の役割分担が確定した。
シルヴィア・バークスは風による戦線の分断と、外部からの増援ルートの遮断。
レイラ・メリクスは後方に救護拠点を設置し、救出された隠密たちの治療。
福音の鐘の精鋭部隊は、施設内部の制圧と隠密の確保。
名もなき協力者——緋雪は、呪符の暴走に対する緊急凍結処置。
そしてゴーストは、最深部への強行突入と、最大戦力(特務執行官やダインスレイブ)の制圧。
「決行は、三日後の深夜」
ゴーストは、円卓を見渡して静かに告げた。
「——四十七人。一人も、欠けさせないわ」
「「「御意」」」
会議が解散し、結界空間から出た夜道。
変身を解いた零の隣で、フードを外した緋雪が、無言のまま歩いていた。
「……あの、緋雪さん」
「なに?」
「温泉の件は、その、作戦を通すために仕方なく……!」
「分かってるわ」
緋雪は、氷点下の微笑みを浮かべた。
「作戦のためだもの。四十七人の命がかかってるんだから、当然の判断よ」
「そ、そうだよね! よかった、分かってくれ——」
「でもね、零くん」
「はい」
「私、あなたとまだ、泊まりがけでどこにも行ってないんだけど?」
零は、返す言葉を完全に失った。
しばらく無言で歩いた後、緋雪はふっと表情を和らげ、そっと零の手を握った。
「……全部終わったら、埋め合わせしてもらうから。覚えておいて」
「……はい。必ず」
決戦を三日後に控えた夜。
二人の手は、静かに、しかし固く繋がれていた。




