第二百十話
星監が所有する、都内某所の極秘ラボ。
最新鋭の医療機器が並ぶ静かな病室で、その日、一人の少女が上体を起こしていた。
淡い病衣に身を包み、点滴のチューブを腕に繋いだまま、彼女はぼんやりと窓のない壁を見つめている。
首元には、緋雪の氷結魔力と星監の隔離結界、そして福音の浄化魔力が幾重にも重ねられた封印の術式が、青白い光を放ちながら静かに脈打っていた。
「白鳥さん」
病室に入ってきた羽衣緋雪の声に、少女はゆっくりと顔を上げた。
右目の下の小さな泣きぼくろ。かつて、魔法少女の訓練校で共に汗を流した、あの頃と何一つ変わらない顔立ち。
「……緋雪」
白鳥は、掠れた声で友の名を呼んだ。
「毎日、来てくれてるんだね」
「当たり前でしょう。……体調はどう?」
緋雪がベッドの脇に腰を下ろすと、白鳥は微かに笑った。
「不思議な感じ。頭の中に、ずっと霧がかかってるみたいだったのが……少しずつ晴れてきてる」
彼女は、自分の手のひらをじっと見つめた。
「三日前は、自分の名前も思い出せなかった。昨日は、訓練校の教室の窓から見えた景色を思い出した。……今日は、緋雪が窓際の席で、いつも一人で本を読んでたことを思い出したの」
「……ええ。そうだったわね」
緋雪の胸が、締め付けられるように痛んだ。
その日の夕方。
病室の隅の影が、音もなく揺らいだ。
沼のように広がった闇の中から、漆黒のゴシックドレスを纏った少女が静かにせり上がってくる。
「……っ!」
白鳥が、反射的に身を強張らせた。
「大丈夫よ、白鳥さん」
緋雪が、慌てて彼女の肩に手を置いた。
「この人は……あなたを助けてくれた人よ」
ゴースト——三神零は、ベッドから少し離れた位置で足を止めた。
あえて距離を取ったのは、目の前の少女が長い間、力ずくで支配され続けてきたからだ。強大な魔力を持つ存在が近づくことが、彼女にとってどれほどの恐怖か、零には想像がついていた。
「……あなたが、ゴースト」
白鳥は、しばらく無言でその姿を見つめた後、ゆっくりと頭を下げた。
「テレビで、名前は聞きました。国家転覆を企むテロリストだって」
「そう報じられているわね」
ゴーストは、静かに答えた。
「でも、あなたは私を助けてくれた」
白鳥は、顔を上げた。
「政府は、私の頭を焼こうとしてた。ゴーストは、私を助けてくれた。……どっちが本当なのかなんて、私には分かりきってます」
その言葉に、ゴーストは僅かに目を伏せた。
「……ありがとう」
「白鳥さん」
ゴーストは、静かに切り出した。
「辛い話になるわ。答えたくなければ、答えなくていい」
白鳥は、ゆっくりと頷いた。
「聞かせてほしいの。あなたが、どうやって『隠密』になったのかを」
病室に、長い沈黙が落ちた。
白鳥は、シーツを握りしめたまま、しばらく俯いていた。
そして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……私、三年前に任務で大怪我をしたんです」
その声は、驚くほど平坦だった。感情を乗せることを、身体が忘れてしまったかのように。
「魔獣の爪で、背中を裂かれて。命は助かったけど、魔力回路がボロボロになって、以前の半分も出力が出せなくなった」
緋雪が、息を呑む。
「協会には、すぐに戦力外だって通告されました。リハビリ施設も紹介されたけど、そこも半年で打ち切り。……治らない魔法少女に、いつまでも予算は使えないって」
「……そんな」
「よくある話ですよ。私だけじゃない。あの施設には、同じような子が何人もいました」
白鳥は、力なく笑った。
「実家にも帰れなくて、バイトを転々として。魔法少女だった頃の話をすると、みんな最初は珍しがるけど、そのうち『元・魔法少女』っていうだけの、何もできない人間だって分かられちゃって」
彼女は、自分の腕をそっと抱いた。
「その頃には、もう本当に、生きてる意味なんて分からなくなってました。……そんな時に、あの人たちが来たんです」
「政府の人間ね」
ゴーストが、静かに確認する。
「はい。スーツを着た人たちが、私のアパートに来て。『あなたの力を、もう一度国のために使いませんか』って」
白鳥の唇が、震えた。
「……嬉しかったんです。本当に。誰にも必要とされなくなった私を、まだ必要としてくれる人がいるんだって」
緋雪は、両手で口元を押さえた。
「施設に連れて行かれて、書類にサインをして。最新の治療で魔力回路を再生できるって説明を受けて。私、心の底から感謝してました。……首に、あの呪符を刻まれるまでは」
「呪符を刻まれた瞬間、頭の中に鉄の杭を打ち込まれたみたいな痛みが走って」
白鳥は、自分の首元に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「それからは、断片的にしか覚えてません。……ただ、覚えてるのは、少しずつ『自分』が削られていく感覚です」
「削られる……?」
緋雪が、震える声で問う。
「はい。最初は、実家の電話番号を忘れました。次に、母の顔を忘れました。友達の名前も、好きだった食べ物も、行きたかった場所も。一つずつ、確実に、消されていくんです」
白鳥は、虚空を見つめた。
「一番怖かったのは……消されていってるってことは分かるのに、何が消されたのかは思い出せないことでした。ぽっかり空いた穴だけが増えていって、でもそこに何があったのかは、もう永遠に分からない」
彼女は、ようやく震える息を吐いた。
「そして、あの部屋に定期的に連れて行かれるんです。頭に電極をつけられて、『再誓約』って呼ばれる処置を受ける。処置が終わると、また少し『自分』が減ってる」
ゴーストは、拳を強く握りしめていた。
ドレスの奥で、爪が手のひらに食い込む感触がする。
「あの人たちは、私たちのことを『生体ユニット』って呼んでました」
白鳥は、静かに言った。
「対魔法少女兵装、ダインスレイブを動かすための部品として。……番号で呼ばれて、稼働時間で管理されて、故障したら修理される。人間じゃなかったんです。最初から、道具として扱われてた」
「白鳥さん」
緋雪が、涙をこらえながら口を開いた。
「あの夜……あなたは、私を見て動きを止めたわね。あれは」
「……ええ」
白鳥は、初めて微かに微笑んだ。
「あなたの氷を見た瞬間、頭の中の霧が、一瞬だけ晴れたんです」
彼女は、緋雪を見つめた。
「訓練校のグラウンドで、いつも一人で練習してた女の子。声をかけても、いつも冷たく突き放されて。それでも放っておけなくて、何度も話しかけた。……いつか、あの子と一緒に前線で戦えたらいいなって、思ってた」
「……白鳥さん」
「あの記憶だけは、どうしても消えなかった。何回上書きされても、消えてくれなかったんです」
白鳥の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「だから私、あの時、心の中で必死に叫んでたんです。『思い出して、私を思い出して』って。……声には、ならなかったけど」
緋雪が、堪えきれずに白鳥の手を握りしめた。
二人の少女は、しばらく無言で泣いていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
涙を拭った白鳥が、ふいに顔を上げた。
その目には、先ほどまでとは違う、切迫した光が宿っていた。
「……ゴーストさん」
「なにかしら」
「私、まだ言わなきゃいけないことがあります」
白鳥は、シーツを掴む手に力を込めた。
「あの施設に……まだ、たくさん残ってるんです」
病室の空気が、張り詰めた。
「私と同じように連れてこられて、同じように名前を消されて、番号で呼ばれてる子たちが。……私が見ただけでも、何十人もいました」
「何十人……!?」
緋雪が、絶句する。
「はい。しかも、あそこだけじゃない。移送される時に、他の施設の話を聞いたことがあります。全国に、いくつも同じような場所があるって」
白鳥は、必死の形相でゴーストを見上げた。
「あの子たちも、私と同じです。誰かに必要とされたくて、あの人たちの手を取っただけなんです。それなのに——」
彼女の声が、震えて途切れる。
「お願いします。あの子たちを、助けてあげてください。……私だけが助かるなんて、そんなの」
ゴーストは、しばらく無言だった。
やがて、彼女はゆっくりとベッドへと歩み寄り、白鳥の視線と同じ高さになるまで身を屈めた。
「……白鳥さん。一つだけ、約束するわ」
紫水晶の瞳が、真っ直ぐに少女を見つめる。
「あなたの言葉、無駄にはしない。あの子たちは、必ず私が連れ帰る。一人残らずよ」
「……本当に?」
「ええ。私は、嘘が嫌いなの」
白鳥は、その言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように泣き崩れた。
緋雪が、その細い肩をしっかりと抱きしめる。
病室を出た廊下で、ゴーストは壁に背を預け、天井を見上げていた。
(……何十人。しかも、全国に)
零の胸の内は、静かな怒りで満たされていた。
適性検査で弾かれた者。任務で傷ついて見捨てられた者。誰にも必要とされなくなった少女たち。
その絶望の底に手を差し伸べるふりをして、心を奪い、道具に変えていく。
(……許せるはずがない。これ以上こんな非道を見過ごせば、巡り巡って姉ちゃんや玲奈まで使い潰される未来が来るかもしれない。それに……こんな話を聞かされたら、せっかくの夕飯が不味くなる)
主夫としての平穏への執着と、義憤が混ざり合う。
そして同時に、零の思考は冷徹に回転していた。
(白鳥さんの証言は、政府の嘘を打ち砕く決定的な武器になる。でも、それを公表するのはまだ早い。今公表しても、政府は「テロリストが被害者を洗脳して喋らせている」と主張するだけだ)
零は、静かに拳を握りしめた。
(必要なのは、圧倒的な数の証言。何十人もの少女たちが、自分の言葉で同じことを語る。……そうなって初めて、あの物語は崩れる)
だからこそ、救出しなければならない。
彼女たちを助けることが、そのまま、この国の暗部を暴くための唯一の道になる。
「……緋雪」
ゴーストは、後から出てきた緋雪に静かに告げた。
「福音の調査と先日の救出部隊のデータから、奴らの本丸……隠密の集積所である最大規模の施設が特定できたわ。……九州の、防災訓練施設を装った拠点」
緋雪の目に、鋭い光が宿った。
「……行くのね」
「ええ。総力戦になる」
最強の死神は、静かに影の中へと沈み込みながら、最後に呟いた。
「あの子たちを、全員家に帰す。……私の夕飯の時間を邪魔し続けた落とし前は、きっちり払わせるわ」




