第二百九話
中部地方の山間部に築かれた、政府の第九施設。
深夜、月明かりすら届かぬ闇の中を、四つの影が音もなく滑走していた。
「……妙ですわね」
先頭を走る須藤真里が、出刃包丁の柄を握りしめたまま、鋭く目を細めた。
「事前の偵察では、この施設の警備は三十名程度のはずでした。ですが、この魔力反応の数は……」
「……およそ、九十。三倍です」
背後から追随する堀宮子が、無機質な声で淡々と告げる。
「ちぇー、増えてるじゃん。めんどくさいなあ」
身の丈ほどもある巨大な鎌を軽々と担いだルカが、唇を尖らせた。
「まあいいや。さっさと信徒くん助けて、帰ってご飯食べよ」
「ルカ、油断しないの」
双剣を抜き放ったリリアが、姉に釘を刺す。
「神様の御言葉、覚えてるよね。政府の連中は叩き潰していいけど、あくまで生け捕り。急所は外すこと」
「分かってるってば!」
四人は、施設の外郭防衛線へと躍りかかった。
戦闘は、開始直後から予想を大きく上回る消耗戦となった。
「——ちいっ!」
ルカが巨大な鎌を横薙ぎに振るい、立ちはだかる政府の暗殺部隊——『特務執行官』の一団を吹き飛ばす。
しかし、その刃は寸前で峰へと返されていた。本来なら胴を両断するはずの一撃を、あえて打撃に切り替えているのだ。
「あーもう、めんどくさい! 殺していいなら三秒で終わるのに!」
ルカが、悔しげに叫ぶ。
致命傷を与えず、しかし確実に無力化する。
言葉にすれば簡単だが、実戦においてそれは、殺すことよりも遥かに高度な技術と、何倍もの手間を要求される作業だった。
「愚痴を言っている暇があったら手を動かしなさい、ルカ!」
真里が出刃包丁を閃かせ、元魔法少女を組み込んだ対魔法少女兵装『ダインスレイブ』を構えた特務執行官の手首を的確に打ち据える。
魔力無効化兵器を弾き飛ばした彼女は、しかし次の瞬間、背後から迫る三人目の敵に舌打ちをした。
(……この配置。おかしいですわ)
真里の脳裏に、嫌な予感が走る。
防衛部隊の動きが、あまりにも整然としすぎている。まるで、こちらが来ることを最初から知っていて、特務部隊を配置して待ち構えていたかのような——
(それに、この監視カメラの数。通常の施設警備には、明らかに過剰です)
「……真里」
宮子が、治癒魔法の淡い緑光を放ちながら近づいてきた。
「これは、罠です。私たちの戦い方を、記録されています」
「ええ。私も、たった今そう確信いたしましたわ」
真里は歯噛みした。
だが、今更引き返すという選択肢は、彼女たちの中にはもう存在しない。
この施設の地下には、政府に拘束された同胞が囚われているのだ。
「……構いません。記録されようが観測されようが、我々の使命は変わりませんわ」
真里は、出刃包丁を握り直した。
「ルカ、リリア! 地下区画へ突破します! 宮子は後方の掃討と治癒を!」
「「はーい!」」
救出そのものは、成功した。
地下の拘束室から下級信徒を助け出し、四人は施設からの脱出を果たした。
だが、その代償は決して小さくなかった。
「リリア! 大丈夫!?」
撤退の道中、ルカが妹の肩を支える。リリアの左腕には、ダインスレイブによって斬られた深い傷が刻まれていた。
「……平気。かすり傷だよ」
「かすり傷じゃないでしょ、それ!」
真里もまた、脇腹を押さえていた。指の間から、じわりと血が滲んでいる。
殺さないという縛りを守りながら、罠を張った精鋭部隊を相手取った結果が、これだった。
「……宮子。応急処置を頼みますわ」
「はい。ですが、私の治癒魔力も、もう半分を切っています」
月明かりの下、傷ついた幹部たちは、それでも救い出した信徒を守るようにして、闇の中へと消えていった。
同時刻。政府・国防委員会の地下司令室。
「——素晴らしい。実に、素晴らしい収穫だ」
御子柴は、巨大なモニターに映し出される戦闘記録映像を眺めながら、口の端を吊り上げていた。
「御子柴先生。我々の特務執行官部隊は、負傷者三十七名。拘束していた構成員も奪還されました。……これのどこが収穫なのですか」
郷田理事が、恐る恐る問う。
「死者は何人だ」
「……は?」
「死者だ。何人死んだと聞いている」
郷田は、慌てて手元の報告書をめくった。
「……ゼロ、です。特務執行官に重傷者は複数おりますが、死亡者は一人も」
「そうだ」
御子柴は、映像の一場面を静止させた。
そこには、巨大な鎌を振るう銀髪の少女が、明らかに刃の向きを返している瞬間が、克明に記録されていた。
「見ろ、この動きを。この娘は、確実に相手を両断できる間合いで、わざわざ刃を峰に返している。他の連中も同様だ。手首、関節、鳩尾——すべて、殺さずに無力化するための急所ばかりを正確に狙っている」
御子柴の目に、獰猛な光が宿った。
「これは、偶然でも慈悲でもない。徹底された『命令』だ。裏社会の殺し屋どもが、誰かの命令によって、絶対に人を殺さないよう縛られているのだ」
「……信じられません。あの福音の鐘が、ですか」
「ゴーストだ」
御子柴は、断言した。
「あの死神が、裏社会全体に『不殺』を強制している。……そして郷田、これは我々にとって、この上ない朗報だぞ」
御子柴は、椅子から立ち上がり、モニターを見上げた。
「戦場において、殺せぬという縛りは致命的な弱点だ。奴らは、どれほど追い詰められても相手の命を奪えない。ならば——」
彼は、葉巻に火をつけ、深く煙を吸い込んだ。
「民間人を盾に取れば、奴らは何もできまい。人質を並べれば、あの死神は自ら首を差し出すかもしれんな」
国家の暗部が、最も卑劣な刃を研ぎ始めた瞬間だった。
その夜遅く。
福音の鐘、大聖堂。
祭壇の前には、包帯を巻いた幹部たちが並んでいた。
脇腹に厚く包帯を巻いた真里。左腕を吊ったリリア。魔力を使い果たして顔色の悪い宮子。そして、妹に付き添うルカ。
その前に立つルディア・ロンディニウムが、深く頭を垂れた。
「……ゴースト様。ご報告申し上げます」
彼女の足元の影から、音もなく漆黒のドレスを纏った少女がせり上がってくる。
「救出作戦は成功いたしました。しかし、敵の特務執行官の待ち伏せにより、幹部四名が負傷。……我らの偵察が甘かったゆえの失態です。いかなる罰も、このルディアがお受けいたしますわ」
ゴースト——三神零は、静かに幹部たちの顔を見渡した。
包帯。血の滲んだガーゼ。疲れきった表情。
彼女たちがこうなったのは、他でもない、自分が下した『殺すな』という命令のせいだ。
もし普段通りに戦うことを許していれば、この四人がこれほどの傷を負うことはなかっただろう。
自分は、安全な場所から理想だけを押し付け、その代償を彼女たちに払わせていた。
零の胸に、鉛のような重さが落ちてくる。
ゴーストは、ゆっくりと祭壇の階段を降り、幹部たちの前に立った。
そして——深く、頭を下げた。
「……ごめんなさい」
大聖堂の空気が、凍りついた。
「ゴ、ゴースト様……!?」
ルディアが、目を見開いて絶叫する。
「あなたたちに『殺すな』と命じたのは、私よ」
ゴーストは、頭を下げたまま続けた。
「その縛りが、戦場でどれほど重い枷になるか。私は分かっていながら、それを押し付けた。……そして自分は、安全な場所から命令を下すだけだった」
「お、お待ちください! 顔をお上げくださいませ!」
ルディアが慌てて跪き、幹部たちも一斉に平伏する。
「神が、我らのごとき者に頭をお下げになるなど——そのようなこと、あってはなりませんわ!」
「神様! あたしたち、別に恨んでなんかないよ!」
ルカが、涙目で叫んだ。
「そうだよ」
リリアが、吊った腕をかばいながら静かに続ける。
「殺さないって決めたのは、あたしたち自身だもん。神様に言われたからじゃなくて……それが正しいって、あたしたちが思ったから」
「……ええ」
真里も、包帯を押さえながら微笑んだ。
「かつての我々であれば、下級信徒の一人など、迷わず切り捨てておりました。ですが今日、我々は同胞を助けに行き、そして助け出した。……この誇らしさを、ゴースト様は我々に与えてくださったのです」
ゴーストは、ゆっくりと顔を上げた。
その紫水晶の瞳には、これまでにない色が浮かんでいた。
「……それでも。もう、あなたたちだけに背負わせるつもりはないわ」
彼女は、静かに、しかし大聖堂の隅々まで届く声で宣言した。
「次の作戦には——私も出る」
一瞬の沈黙の後。
「……ぇ」
ルカが、ぽかんと口を開けた。
「か、神様が!? あたしたちと一緒に戦ってくれるの!?」
「うそ、本当に……?」
双子が顔を見合わせ、次の瞬間、大聖堂に爆発的な歓声が上がった。
「ああ……ああ、なんという僥倖……!」
ルディアが、両手を組んで感涙にむせぶ。
「我らが神が、御自ら戦場に降臨されるとは……! この日を、このルディア・ロンディニウム、生涯忘れませんわ……!」
(……もう、やめだ)
狂騒の中心で、ゴーストは静かに拳を握りしめていた。
(誰かに背負わせて、自分だけ安全な場所にいるのは。……俺が、前に出る)
その報せは、ほどなくして星監にも届いた。
『——あら。あなたが自ら前線に立つというの』
影の結界空間に開かれた通信回線の向こうで、ヴィクトリア・ローゼンベルグが優雅に脚を組み替えた。
「ええ。文句があるかしら」
『まさか。……ただ、あなたが泥をかぶるというのに、私が高みの見物を決め込んでいたのでは、星監の名折れですものね』
ヴィクトリアは、妖艶に笑った。
『次の作戦、星監も全力で参加させてもらうわ。……それと、戦力が足りないというのなら、いい駒を用意してあるのだけれど』
「駒?」
『ええ。欧州支部から、二人ほど呼び寄せておいたの。——入りなさい』
通信の向こうで扉が開き、二人の少女が姿を現した。
一人は、アッシュグレーのショートボブに、アイスブルーの切れ長の瞳。黒のパンツスタイルにロングコートを羽織り、気だるげに半眼を細めている長身の女性。
「シルヴィア・バークス。風属性。星監欧州支部の実働部隊長よ」
「……どうも」
シルヴィアは、通信越しのゴーストを一瞥し、面倒くさそうに息を吐いた。
「東洋の死神、ね。噂は聞いてるけど……正直、独り歩きしてるだけじゃないのって思ってるわ」
『シルヴィア。口の利き方に気をつけなさい』
「事実を言っただけです、ヴィクトリア様」
ゴーストは、静かに片手を持ち上げた。
次の瞬間、通信映像の向こう側で、シルヴィアの膝がガクンと折れかけた。
「……っ!?」
空間跳躍による、極めて微弱な重力の余波。ゴーストが指先で軽く触れた程度の力が、通信回線を挟んだ先の彼女の身体を、一瞬だけ床に押し付けたのだ。
「……訂正するわ」
シルヴィアは、片膝をついたまま、乾いた笑みを浮かべた。
「噂のほうが、控えめすぎたみたいね。……失礼したわ、ゴースト」
そして、その隣。
淡い水色のロングヘアを緩く三つ編みにした、小柄な少女が、深々と一礼した。
「レイラ・メリクスと申します。水属性、治癒と防御を専門としております。……お会いできて、光栄です」
レイラは、柔らかく微笑んだ。
「あの。一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なにかしら」
「今回の作戦では……敵を、殺さずに済ませるというのは、本当ですか?」
その問いに、ゴーストは静かに頷いた。
「ええ。誰も殺させないわ。政府の兵士も、囚われた少女たちも」
レイラの深い青の瞳が、じわりと潤んだ。
「……ああ、よかった」
彼女は、胸に手を当てて心から嬉しそうに微笑んだ。
「そういう戦い方をなさる方の下で働けるのは、私にとって何よりの幸せです。……皆さんが傷ついても、私が必ず治します。だから、思う存分戦ってください」
『——ふふ。いい戦力でしょう?』
ヴィクトリアが、満足げに笑った。
『シルヴィアの機動力で戦線を分断し、レイラが後方で全員を回復させる。これで「殺さずに戦って自分たちが傷つく」という問題も、随分と楽になるはずよ』
福音の鐘。星監。欧州からの増援。
そして、初めて自ら前線に立つことを決めた、最強の死神。
裏社会の総力が、今、一つの旗の下に集結しようとしていた。
その頃、国家の暗部が、人質という最も卑劣な刃を研いでいることを——まだ、誰も知らないまま。




