第二百六話
白百合の盾・本部、最上階の会長室。
夕暮れの光が差し込む静かな執務室に、新実由鶴は一人立っていた。
その手には、これまで彼女が独自に積み上げてきた膨大な分析資料が、分厚いファイルとなって握られている。
「……失礼いたします」
深く息を吸い込み、由鶴は扉をノックした。
室内には、白百合の盾を統括する姫嶋会長と、湯野副会長の二人が待っていた。
姫嶋は執務机の向こうで両手を組み、湯野は窓際で腕を組んだまま、入室した由鶴を静かに見つめている。
「急ぎの報告があるとのことでしたね、新実さん。……ずいぶんと思い詰めた顔をしているようですが」
姫嶋の落ち着いた声に、由鶴は一礼して答えた。
「はい。……本日は、情報班としてではなく、一人の隊員として申し上げたいことがございます」
由鶴は、抱えていたファイルを執務机の上にそっと置いた。
「以前より、私が個人的な疑念から羽衣大佐の極秘監視を行っていたことはご存知かと思います。本日は、その調査の果てに私が到達した結論を、ご報告いたします」
「……結論、ですか」
湯野が、眼鏡の奥で目を細める。
「それで、羽衣さんはやはりゴーストと通じていたのですか?」
「……何らかの形で接触し、情報を得ている可能性は極めて高いです。しかし——」
由鶴は、明確な意志を持って首を横に振った。
「羽衣緋雪は、白百合の盾を裏切ってなどおりません。彼女は、この組織の誰よりも市民のことを考え、そして誰にも言えない重い真実を一人で背負っている——それが、私の結論です」
室内の空気が、一瞬止まった。
「……随分と感傷的な結論ですわね、新実さん」
湯野が、冷ややかに指摘する。
「あなたは情報班のトップです。感情ではなく、データに基づいた分析を提示すべき立場でしょう」
「はい。ですから、こちらをご覧ください」
由鶴は、ファイルを開き、姫嶋と湯野の前に一枚の資料を差し出した。
そこには、これまでゴーストが関与したと推定される全事案が、時系列に沿って克明に整理されていた。
「これは、私が独自に収集・分析した『ゴースト関連事案の全記録』です。Xデーにおけるキメラ魔法少女の大量発生。緩衝地帯を巡る駆け引き。福音の鐘による政府の隠密部隊の拘束。……そして、先日の政府メンテナンス施設への襲撃」
由鶴は、資料の一点を指し示した。
「これら全ての事案に、一つの明確な共通点があります」
彼女は、まっすぐに姫嶋を見据えた。
「——死者が、一人も出ていないのです」
姫嶋の目が、僅かに見開かれた。
「Xデーでは、ゴーストは民間人を重力魔法で救出しています。協会のエース部隊が窮地に陥った際も、彼女は魔獣を制圧し、その場を去っています。政府の隠密部隊は、皆殺しにされるどころか全員が生け捕りにされ、生存が確認されています。……そして我々白百合のエース陣も、幾度となくゴーストと交戦しながら、一人の死者も出していない」
「……確かに、言われてみればそうですわね」
湯野が、資料を手に取って眉をひそめた。
「あれほどの力を持ちながら、被害があまりにも少なすぎる」
「そうです。これは偶然ではありません。明確な『意志』です」
由鶴の声に、熱がこもり始める。
「裏社会の頂点に君臨し、国家の暗部すら震え上がらせるほどの力を持ちながら、彼女は徹底して人を殺さない。それどころか、福音の鐘と星監という、本来なら血で血を洗う殺戮集団までもが、ゴーストの影響下では『不殺』を貫いているのです」
由鶴は、ゆっくりと息を吐き、そして自らの結論を口にした。
「私は……ゴーストという存在は、政府が喧伝するような無差別なテロリストではないと考えます。むしろ、暴走しかねない裏社会の勢力を内側から抑え込み、同時に政府の暗部が行っている『非道』を妨害しようとしているのではないか、と」
会長室に、重い沈黙が降りた。
「……新実さん」
最初に口を開いたのは、湯野だった。
「あなたは、自分が何を言っているか分かっているのですか? それは、情報班のトップが、国家の敵とされる存在を擁護する分析を提出したということですよ」
「承知しております」
由鶴は、微塵も揺らがずに答えた。
「ですが、情報班の役割は、上層部が聞きたい結論を用意することではありません。データが示す真実を、そのまま報告することです。……たとえそれが、組織にとって都合の悪い結論であっても」
その毅然とした態度に、湯野は言葉を失った。
そして、それまで沈黙を保っていた姫嶋会長が、静かに資料をめくり始めた。
一枚、また一枚。彼女は驚くほど丁寧に、由鶴が積み上げた分析を読み込んでいく。
やがて、姫嶋は資料を閉じ、深く息を吐いた。
「……新実さん。一つ、確認させてください」
「はい」
「先日、政府・国防委員会から我々に届いた文書のことは、あなたも把握していますね」
由鶴の表情が、僅かに強張った。
「……ええ。『白百合の盾の内部にゴーストの協力者が潜んでいる疑いがある。全隊員の通信記録の提出と、政府による内部監査を受け入れよ』という強圧的な通達ですね」
「ええ。政府は、我々を対裏社会作戦の盾として使い潰そうとしながら、我々自身の内部にも疑いの目を向け、管理下に置こうと図っている。……新実さん、この構図をどう見ますか」
由鶴は、しばらく姫嶋の目を見つめた後、慎重に答えた。
「……政府は、ゴーストという存在よりも、自分たちの『何か』が暴かれることを恐れ、焦っている。そう見えます」
「そうです」
姫嶋の声に、初めて明確な怒りが滲んだ。
「白百合の盾は、市民を魔獣から守るために作られた民間組織です。政府の私兵でも、権力闘争の駒でもない。……そのことを、彼らに思い出させる必要があるようですね」
姫嶋は椅子から立ち上がり、窓の外に広がる夕暮れの街を見つめた。
「新実さん。あなたの個人的な調査を、本日をもって『ゴーストおよび政府の隠密部隊に関する、白百合の盾の独立調査』として正式に承認します」
「……え」
由鶴が、目を丸くした。
「必要な予算も、人員も、権限も与えましょう。表向きは従来通り、政府への協力姿勢を維持し、当たり障りのない通信記録だけを提出しておきなさい」
姫嶋は、静かに微笑んだ。
「協定は守る。要請にも応じる。ただし、白百合の盾は白百合の盾として、独自に真実を追う。……これが、我々の答えです」
「……姫嶋さん。それは、綱渡りにも程がありますわよ」
湯野が、額を押さえながらため息をついた。
「ですが……ええ、悪くありませんわね。あの狸親父の言いなりになるよりは、よほど白百合らしい」
湯野の言葉に、姫嶋は苦笑した。
「それから、新実さん。羽衣さんの件ですが」
「……はい」
「あなたの報告を、私は信じます。羽衣さんの独自の動きへの追及は、これをもって凍結とします」
その言葉に、由鶴の喉が、詰まったように震えた。
「……ありがとう、ございます」
由鶴は、深く、深く頭を下げた。
顔を上げた彼女の目は、僅かに潤んでいた。
「ただし、一つだけ約束していただきたいことがあります」
姫嶋が、真剣な表情で続ける。
「羽衣さんが何を背負っているにせよ、それが彼女一人の手に負えなくなった時。……その時は、必ず私たちに知らせなさい。我々のエースを、たった一人で潰させるわけにはいきませんから」
「……はい。必ず」
会長室を辞し、由鶴は誰もいない廊下を一人歩いていた。
窓の外は、すでに夜の帳が下り始めている。
由鶴は、ふと足を止め、暗くなりつつある廊下の窓に映る自分の顔を見つめた。
(……これで、少しはあなたを守れたでしょうか、緋雪)
組織に彼女を売り渡すことなく、むしろ組織そのものの方針を動かすことで、緋雪への追及と政府の監査を躱すことができた。
情報班として積み上げてきた分析が、初めて誰かを守るために使われた。
(あなたは、まだ私に何も話してくれない。それでいいのです。……あなたが話せる日が来るまで、私はあなたの背中を、外側から守り続けます)
かつて、疑い、監視し、告発しようとした相手。
その同じ相手を、今、由鶴は自らの手で守ろうとしている。
「……不器用ですね、私たちは」
由鶴は、小さく自嘲するように呟いて、再び歩き出した。
その足取りは、これまでのどんな時よりも、確かなものだった。
同じ夜。
政府・国防委員会の地下司令室では、御子柴が忌々しげに葉巻の煙を吐き出していた。
「白百合の盾より、要求していた全隊員の通信記録と監査報告が提出されました。……案の定、不審な通信記録は一切なし。完全な『白』とのことです」
郷田理事の報告に、御子柴はふんと鼻を鳴らした。
「馬鹿な。あの女(羽衣緋雪)が我々の施設に単独潜入した直後だぞ。異常行動がないわけがなかろう。どうやら、白百合の狸どもは本格的に我々に隠し事を始めたらしいな」
御子柴は、報告書を無造作に机に放り投げた。
「……武力で言うことを聞かぬのなら、別の刃を使うまでだ。郷田、世論対策班を呼べ」
「世論、ですか?」
「そうだ。ゴーストと裏社会が政府施設を襲撃したという『事実』。それに対処しきれない民間組織の無力さ。……国民が震え上がるようなシナリオを、そろそろ大々的に報じてやろうじゃないか」
御子柴の目に、冷たく陰湿な光が宿る。
「白百合の盾を孤立させ、世論の力で押し潰す。正義の味方気取りの連中がどこまで耐えられるか、見物だな」
白百合が政府から静かに距離を取り、真実を追い求む決意を固めたその夜。
国家の暗部は、これまでとは全く異なる形の刃——『情報操作と世論』という名の巨大な武器を、抜き放とうとしていた。




