第二百五話
その連絡が羽衣緋雪の私用端末に届いたのは、白鳥の見舞いから戻った夜のことだった。
『白百合の盾、羽衣緋雪様。
突然のご連絡、失礼いたします。魔法少女協会、周防凛花と申します。
組織を通さず、個人的にお話を伺いたいことがあります。ご迷惑でなければ、一度お時間を頂けないでしょうか』
差出人の名前を見た瞬間、緋雪の背筋に緊張が走った。
周防凛花。新生・魔法少女協会のトップエース。かつて自分たちが所属していた組織の、現在の看板を背負う少女。
(……協会からの、非公式な接触。目的は何?)
緋雪の脳裏を、最悪の可能性がよぎる。
政府から白百合への監視が強まっている今、協会を通じて自分の動向を探ろうとしているのではないか。あるいは、白鳥の一件が漏れているのか。
しかし、続く文面を読んで、緋雪の警戒は少しだけ和らいだ。
『先日の、福音の鐘の拠点制圧作戦について。
あの戦場で私が感じた違和感を、どうしても一人で抱えていられなくなりました。
協会の中には、この話ができる相手がいません。組織を離れた立場から今の状況を見ておられる羽衣さんなら、あるいは同じものを見ておられるのではないかと思い、ご連絡差し上げました』
「……違和感」
緋雪は、端末を握りしめたまま、しばらく画面を見つめていた。
凛花は、あの戦場で何かを掴みかけている。それは間違いない。
(この子が何に気づいているのか、確かめなくちゃいけない。……それに)
緋雪の思考が、もう一つの方向へと伸びていく。
(零くんにも、この話を聞かせておきたい)
周防凛花という少女がどこまで真実に近づいているのか。彼女が政府をどう見ているのか。それは、ゴーストとして盤面を動かす零にとって、極めて重要な情報になるはずだ。
だが、当然ながら「彼氏を連れていく」などとは言えない。
白百合の仲間たちには、緋雪が零に想いを告げたことも、ましてや彼の正体も、何一つ伝えていないのだから。
しばらく考え込んだ後、緋雪はある口実を思いついた。
週末の午後。
都内の閑静な住宅街にある、小さな一軒家カフェ。
窓際の大きなテーブル席に、緋雪、真奈、鈴乃、飛鳥という白百合のエース陣が揃って腰を下ろしていた。
「それにしても緋雪、急に『みんなでお茶しよう』なんて珍しいじゃない」
飛鳥が、メニューを眺めながら首を傾げる。
「……ええ。たまには、こういう時間も必要かと思って」
緋雪は、努めて平静を装いながらコーヒーカップに口をつけた。
(協会のトップエースと二人きりで会うなんて、由鶴に知られたら間違いなく怪しまれる。……だから、あくまで『非番の仲間内の集まりに、たまたま同席してもらう』という形にしないと)
これが、緋雪の計算だった。
情報班の由鶴が自分を監視している以上、単独行動は極力避けなければならない。仲間と一緒であれば、たとえ記録に残っても「非番の交流」として処理される。
「あ、緋雪ちゃん! あそこにいるの、三神くんじゃない?」
真奈が、窓の外を指さして声を上げた。
カフェの前を、大きなエコバッグを提げた零が通りかかったところだった。
「あら、本当ね」
緋雪は、内心のドキドキを完璧に押し隠しながら、ごく自然な調子で言った。
「……ちょうどよかったわ。零くん、たまにはお礼にお茶くらいご馳走したいと思っていたの」
我ながら白々しい理由だと思いつつ、緋雪は窓を叩いて零を呼んだ。
「ちょうどみんなでお茶をしていたの。いつもお弁当のお裾分けを頂いているし、お礼にコーヒーでもご馳走させて。少しだけ、付き合ってくれないかしら?」
「え、いいんですか? 俺なんかがご一緒して」
突然呼び止められた零は、戸惑いつつも席に着いた。
(緋雪さんが、わざわざ俺を呼び止めるなんて。……何か、意図があるはずだ)
零もまた、緋雪の不自然な誘い方から、そこに何らかの狙いがあることを敏感に察していた。
それから十分ほど後。
カフェの扉が静かに開き、一人の少女が姿を現した。
動きやすいカジュアルな私服。艶やかな黒髪を肩口で切り揃えた、凛とした佇まいの少女——周防凛花である。
「羽衣さん。突然のご無理を聞いていただき、ありがとうございます」
凛花は、深く一礼した後、テーブルを囲む面々を見回し——そして、その視線が一人の少年の顔で止まった。
「……あ」
凛花の目が、驚きに見開かれる。
「……あなた、あの時の」
零もまた、彼女の顔を見て、内心で凍りついていた。
(……凛花さん!? まさか、ここに来るのが凛花さんだったなんて!)
先日、街の商店街で紙袋の底が抜けた時、じゃがいもを拾ってくれた少女。そして、公園のベンチで缶ミルクティーを片手に、思わぬ本音を漏らしていった、あの名も知らぬ「お姉さん」。
「え、なになに? 凛花さんと三神くん、知り合いだったの?」
真奈が、目をキラキラさせながら身を乗り出す。
「い、いえ、その……少し前に、街で偶然お会いして」
「そうなんです。買い物袋が破けてしまった彼を、少しだけ手伝っただけで……」
零と凛花が、揃ってしどろもどろに説明する。
「へえ〜、そんな偶然あるんだ!」
「世間って狭いのね」
真奈と鈴乃が無邪気に感心する隣で。
(……零くん、いつの間に凛花さんと接点を持っていたの!?)
緋雪だけが、コーヒーカップを持つ手をピクリと震わせながら、内心で激しく動揺していた。
もちろん今は追及している場合ではないと理解しているが、この件は後でしっかり聞かせてもらおうと、彼女は心に固く誓った。
しばらくの雑談の後。
凛花が、意を決したように背筋を伸ばした。
「……それでは、本題に入らせてください」
彼女の声から、先ほどまでの柔らかさが消え、トップエースとしての鋭さが戻る。
「単刀直入にお聞きします。皆さんは——ゴーストという存在を、本当に『悪』だと思っておられますか?」
テーブルの空気が、一瞬にして張り詰めた。
零は、アイスコーヒーのストローを咥えたまま、ぴくりとも動けなくなった。
緋雪は、表情筋の一つも動かさぬまま、内心で(来たわね……!)と身構える。
「……なんで、そんなことを聞くの?」
最初に口を開いたのは、飛鳥だった。
「あなたは協会のトップエースでしょう。政府と協会は、ゴーストを『国家の敵』として指定しているはず」
「ええ。だからこそ、お聞きしたいんです」
凛花は、真っ直ぐに飛鳥を見返した。
「先日の、福音の鐘の拠点制圧作戦。私は最前線で、教団の幹部たちと直接刃を交えました。……そして、確信したんです。彼女たちは、私を殺せる場面で、明確に殺さなかった」
「……殺さなかった?」
鈴乃が、眉をひそめる。
「はい。少なくとも三度、私は完全に隙を晒しました。あの双子の実力なら、確実に私の首を取れたはずです。それなのに、彼女たちは直前で刃を逸らした。まるで、誰かに『殺すな』と命じられていたかのように」
凛花の言葉に、緋雪の心臓が跳ねた。
(……この子、そこまで気づいているの)
「そして、後になって知りました。あの戦場の裏で、政府の『隠密部隊』という直轄部隊が動いていて、それが壊滅させられていたことを」
「隠密部隊……? 政府がそんなものを裏で……」
飛鳥が不快感を露わにし、鈴乃も険しい顔になる。
凛花は、拳を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「私たち協会は、囮にされていたんです。政府に。……そして、その政府の思惑を完全に読み切って、私たちを傷つけずに、隠密部隊だけを的確に無力化した何者かがいる」
「……ゴースト」
真奈が、ぽつりと呟いた。
「ええ。少なくとも、そう考えるのが自然だと私は思っています」
凛花は、テーブルの面々を見渡した。
「政府は、ゴーストを無差別なテロリストだと言います。でも、私が見た戦場は、驚くほど血が流れていなかった。……この矛盾を、私は一人で抱えきれなくなったんです」
長い沈黙の後。
最初に応えたのは、意外にも真奈だった。
「……あのね、凛花さん。真奈も、ずっと思ってたことがあるんだ」
いつもの明るさを潜めた、真剣な表情。
「真奈たち、何度もゴーストと戦ったことがあるの。すっごく強くて、正直勝てる気がしないくらい。……でも、真奈たち、誰も死んでないんだよね」
「真奈……」
「あれだけの力があったら、真奈たちなんて一瞬で消せるはずなのに。いつも、動けなくされるだけで、絶対に殺されない。……それって、変じゃない?」
「私も、同じことを考えていたわ」
飛鳥が、腕を組みながら続けた。
「あいつが本気で街を壊そうと思ったら、白百合も協会も止められない。それなのに、被害はいつも最小限に抑えられている。……敵にしては、あまりにも配慮が過ぎるのよ」
「あー、それ分かる」
鈴乃も、深く頷いた。
「私、あいつに一回吹き飛ばされたことあるけど、翌日には普通に任務復帰できたもん。あんな化け物に殴られて無傷とか、逆におかしいでしょ」
次々と語られるエースたちの実感に、凛花は目を見開いていた。
「……やっぱり。私だけの思い込みじゃなかったんですね」
その時、それまで黙って話を聞いていた零が、遠慮がちに口を開いた。
「あの、俺は魔法のことは全然分からない、ただの高校生なんですけど」
全員の視線が集まる中、零は慎重に言葉を選んだ。
「……ニュースで報道される話と、実際に街で聞く話が、時々食い違ってる気がするんです」
「食い違い?」
「はい。うちの近所でも、何ヶ月か前に魔獣が出たことがあって。その時、テレビでは『協会が撃退した』って言ってたんですけど……近所のおばさんは『黒い服の女の子が助けてくれた』って言ってました」
零は、あくまで一般人としての目線を装いながら、しかし確かな重みを持って続けた。
「誰が正しいとか、俺には判断できません。でも……人を助けた話が、なかったことにされてるとしたら。それは、なんだか嫌だなって思います」
その言葉に、凛花はハッと息を呑んだ。
「……あなたは、本当に不思議な人ですね」
凛花は、あの日ベンチで見せたのと同じ、少しだけ疲れたような、けれど優しい笑みを浮かべた。
「あの時も、初対面の私に、あんなに真剣な言葉をくれた」
(……この人は、やっぱり何かを知っている気がする。でも、どうしてただの高校生が)
凛花の中で、小さな引っかかりが生まれる。しかしそれは、まだ言葉になるほどの形を持っていなかった。
その後、凛花は協会内部の空気——政府から下りてくる作戦命令の異常さや、上層部が議論すら許さない硬直した体制について、慎重に情報を共有した。
白百合側からも、政府からの踏み絵と、それを『緩衝地帯』という策で躱した経緯が語られる。
「……ありがとうございました。今日、勇気を出してご連絡して本当によかった」
カフェを出る際、凛花は深く頭を下げた。
「私、もう少しだけ、自分の目で確かめてみます。政府が何を隠しているのか」
「気をつけてね、凛花さん」
緋雪が、静かに声をかける。
「協会の中で、そういう疑問を口にするのは……きっと、想像以上に危険なことだから」
「はい。肝に銘じます」
凛花が去っていく後ろ姿を見送りながら、零は静かに拳を握りしめていた。
(凛花さんは、もう気づき始めてる。……政府に利用されていることも、俺が誰も殺していないことも)
彼女の純粋な正義感が、政府の陰謀に押し潰される前に。
自分にできることを、一つでも多く。
(急がないと。……盤面を、ひっくり返すための準備を)
そして、その隣で。
(……零くん。凛花さんとの『偶然の出会い』について、後でたっぷり説明してもらうわよ)
緋雪は、氷点下の微笑みを浮かべながら、隣を歩く少年の横顔をじっと見つめているのであった。




