第二百四話
ゴーストからの新たな『神託』が下されてから、三日。
福音の鐘は、その組織形態を根底から作り変えていた。
これまで血と暴力によって敵対勢力を排除してきた狂信の教団は今、全国津々浦々に散らばる信徒たちの情報網をフル稼働させ、政府の隠された施設を一つずつ炙り出すための巨大な調査機関へと変貌を遂げていたのである。
都内某所、福音の鐘が管理する地下作戦室。
壁一面に張られた日本地図には、無数の赤いピンが乱雑に突き刺さっていた。
「——関西方面、第三候補地の調査結果が上がりました」
須藤真里が、分厚い報告書を抱えてルディアの元へと歩み寄る。
「表向きは製薬会社の研究施設ですが、電力消費量が施設規模に対して異常です。しかも、深夜帯に限って大型の輸送車両が出入りしている記録も掴みました」
「よろしい。監視を継続なさい」
ルディアは、黄金の瞳で地図を見つめながら頷いた。
「宮子。九州方面はどうなっていて?」
「はい、ルディア様」
無機質な表情を崩さぬまま、堀宮子が静かに報告する。
「地方自治体の防災訓練施設として登録されている建物ですが、周辺住民への聞き込みで、施設内から時折『若い女性の悲鳴のようなもの』が聞こえるという証言が複数得られました」
「……悲鳴」
ルディアの表情が、僅かに険しくなった。
政府が全国に張り巡らせた、隠密製造とメンテナンスのための施設網。
これまで裏社会の誰もが実態を掴めなかったその全容が、福音の鐘の狂信的なまでの執念と、金と人海戦術によって、少しずつではあるが確実に暴かれつつあった。
「星監の泥棒猫の手を借りずとも、教団の情報網だけでここまで辿り着けましたわ。ゴースト様の御心のままに、囚われた子羊たちを一人残らず救い出す。……ああ、なんと崇高な使命でしょう」
ルディアは、うっとりとした表情で胸の前で手を組んだ。
「わたくしたちは今、神の慈悲を体現する『救済の使徒』ですのよ。かつてのように、ただ敵を屠るだけの獣ではありませんわ」
「まあ、殺しちゃダメってのは正直めんどくさいけどねー」
部屋の隅で、ルカが退屈そうに足をぶらぶらさせながら愚痴をこぼす。
「でも、政府の施設を探し回るのって宝探しみたいで楽しいから、まあいっか」
「ルカ、遊びじゃないんだからね」
リリアが、隣で呆れたようにため息をついた。
「神様が『救い出せ』って仰ったんだから、ちゃんと真面目にやらないと」
双子の他愛のないやり取りに、真里が小さく苦笑する。
かつて『福音の鐘』といえば、政府や協会、そして星監との血で血を洗う抗争に明け暮れた最悪のカルト教団だった。
その組織が今、政府に虐げられた少女たちを救い出すために、こうして地道な調査活動に汗を流している。
ゴーストという絶対的な信仰対象が与えた一つの『神託』が、狂信という凶暴なエネルギーの向きを、まるごと変えてしまったのだ。
しかし、順調に見えた調査活動に、最初の綻びが生じたのは、その日の深夜だった。
「——ルディア様! 緊急のご報告です!」
作戦室に、青ざめた顔の下級信徒が駆け込んできた。
「中部方面の調査に当たっていた信徒のうち、一名が……政府の防諜部隊に拘束されました!」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
「……拘束、ですって?」
ルディアの声から、先ほどまでの陶酔した響きが消え失せる。
「どういうことですの。詳しく説明なさい」
「は、はい。対象の施設周辺で、外部から魔力波長の測定を行っていたところ、施設側の探知結界に感知されたようです。逃走を図りましたが、装備の差もあり、追跡部隊に取り押さえられたと……」
真里が、忌々しげに舌打ちをした。
「間の抜けた話です。素人同然の下級信徒に、政府施設の調査など任せるからこうなるのです」
「その者は、どこまでの情報を握っているのかしら?」
ルディアが、冷ややかな声で尋ねる。
「担当していた地域の調査進捗と、報告用の暗号通信の手順だけです。組織全体の調査計画や、他の拠点の情報は与えておりません」
「なるほど。組織の中枢が割れる心配はない、と」
宮子が、無機質な声で淡々と分析を加えた。
「ですが、政府は『福音の鐘が自分たちの施設を執拗に探っている』という事実を、確実に把握することになります。今後、各施設の警備水準は一気に引き上げられるでしょう」
作戦室に、重苦しい沈黙が降りた。
誰もが、次にルディアが下すであろう指示を予想していた。
これまでの福音の鐘であれば、答えは決まっている。捕らえられた信徒は、組織にとってのリスクでしかない。口を封じるか、そうでなければ切り捨てて放置する——それが、この教団のやり方だった。
「……ルディア様。いかがいたしますか」
真里が、静かに問う。
彼女もまた、内心では「口封じの暗殺部隊を差し向けるべきだ」という判断に傾いていた。それが最も確実で、最も合理的な処理だからだ。
しかし。
「決まっておりますわ」
ルディアは、迷いのない声で言い放った。
「救出いたします」
「……は?」
真里が、思わず素の声を漏らした。
「お待ちください、ルディア様。たかが下級信徒一人のために、救出部隊を編成するのですか? 拘束されている以上、すでに情報を吐かされている可能性も——」
「真里」
ルディアは、静かに彼女の言葉を遮った。
その黄金の瞳には、これまでにない種類の光が宿っていた。
「ゴースト様は、何と仰いましたか」
「……それは、囚われた隠密たちを、一人残らず救い出せと」
「ええ。一人残らず、ですわ」
ルディアは、両手を広げ、作戦室に集った幹部たちを見渡した。
「政府に囚われた哀れな子羊たちを救えと命じられた我々が、自らの同胞を見捨てるなど——そんな醜悪な矛盾を、ゴースト様が是とするとお思いですの?」
その言葉に、真里はハッと息を呑んだ。
「わたくしたちは、もはやただの狂信者の集団ではありませんわ。ゴースト様より『救済』という尊き使命を賜った、選ばれし使徒なのです」
ルディアの声が、静かな熱を帯びていく。
「囚われた者を見捨てるという選択肢は、この教団にはもう存在しません。それが隠密であろうと、我らの信徒であろうと、同じことですわ」
真里は、しばらく言葉を失っていた。
彼女が知る福音の鐘は、こんな組織ではなかった。使えなくなった駒は容赦なく切り捨て、目的のためならばいくらでも屍を積み上げる。それが当たり前の世界だった。
だが、ゴーストという一つの信仰が、この組織を確実に変えてしまった。
そして真里自身、その変化を——不思議と、悪くないと感じている自分に気づいていた。
「……承知いたしました、ルディア様」
真里は、深く一礼した。
「救出部隊の編成、直ちに取り掛かります。……ええ、そうですわね。神の使徒たる者が、同胞を見捨てるなど、あってはならないことでした」
「よろしい。ルカ、リリア。あなたたちも同行なさい」
「はーい! 久しぶりに暴れられる!」
「ルカ、殺しちゃダメだからね。あくまで救出だから」
「分かってるって、リリア!」
双子が元気よく手を挙げるのを見て、ルディアは満足げに頷いた。
同じ頃。
政府・国防委員会の地下司令室。
「——福音の鐘の構成員を、中部の第九施設周辺で拘束しました」
郷田理事の報告に、御子柴は葉巻を咥えたまま、ゆっくりと目を細めた。
「ほう。あのカルト共が、我々の施設を嗅ぎ回っていたか」
「はい。取り調べによれば、末端の調査員に過ぎず、組織全体の計画までは掌握していないようですが……問題は、なぜ今になって福音の鐘が我々の施設網を調べ始めたのか、という点です」
御子柴は、椅子の背もたれに深く身を沈め、天井を見上げた。
「……白鳥の一件と、無関係ではあるまいな。あの羽衣緋雪の私情による単独の強奪劇だと踏んでいたが……時を同じくして裏社会が動き出したとなれば、話は別だ」
彼の脳裏に、一つの構図が組み上がっていく。
「これが偶然だと思うか、郷田。……緋雪の背後で、あの死神が糸を引いていたと考えるのが自然だ。奴らが、我々の『隠密』という存在に明確な興味を示しているということだ」
彼の目に、獰猛な光が宿る。
「面白い。ならば、こちらにも打つ手はある」
「と、申されますと?」
「全国の施設の警備水準を最大まで引き上げろ。そして——」
御子柴は、口の端を吊り上げた。
「奴らが救出に来るであろう、あの拘束した信徒を『餌』として使う。裏社会の連中がどれほどの規模で、どのような手口で動くのか。特務執行官の網を張り、こちらで観測させてもらおうじゃないか」
政府と裏社会。
互いに互いを罠にかけようと動き出した両者の思惑は、この夜、決定的に交差しようとしていた。
そして、その盤面の中心に立つ最強の死神は——まだ、この綻びのことを知らない。




