第二百三話
白百合の盾、情報班専用モニタールーム。
新実由鶴は、暗い部屋の中で一人、無数の資料に囲まれていた。
緋雪への尋問(という名の問いかけ)は失敗に終わった。彼女は頑なに嘘を貫き通し、由鶴の追及をやんわりと躱してみせた。しかし、それは同時に由鶴の中で一つの確信を強めることにもなっていた。
(緋雪は、隠さねばならない何かを抱えている。……そして、その何かは、彼女がゴーストに従わされているのではなく、彼女自身が心から守りたいと願う何かだということです)
由鶴は、デスクの上に散らばった資料の山から、一枚のファイルを手に取った。
それは、彼女が独自にまとめ続けている『ゴースト関連事案』の分析報告書だった。Xデーの完璧な連動、緩衝地帯を巡る駆け引き、協会と隠密部隊の分断劇、そして今回の白鳥強奪事件。
その全てに共通する、一つの奇妙な特徴があった。
「……誰も、死んでいない」
由鶴は、ぽつりと呟いた。
裏社会の頂点に君臨するという、恐るべき死神。政府の暗部でさえ震え上がらせるほどの圧倒的な力を持ちながら、その所業を丹念に洗い出していくと、そこには奇妙なまでに『不殺』の一貫性があった。
政府の隠密部隊は、皆殺しにされるどころか生け捕りにされている。協会のエースたちも、致命傷を負わされることなく撤退させられている。
「……これは、単なる気まぐれではありません。明確な、意志によるものです」
由鶴の脳裏に、これまでの前提そのものを揺るがす、一つの仮説が浮かび上がった。
(もしかして、ゴーストは……裏社会の暴走を抑え込むための、何らかの『抑止力』として機能しているのでは……?)
それは、政府が喧伝する「悪の権化」というイメージとは、あまりにもかけ離れた仮説だった。
しかし、由鶴が積み上げてきたデータは、その突飛な可能性を静かに裏付けつつあった。
「……分かりません。分からないことだらけです」
由鶴は、こめかみを押さえながら深く息を吐いた。
緋雪が守っているものの正体。ゴーストという存在の本当の目的。そのどちらもまだ、霧の向こうに霞んだままだ。
「……ですが。私が今、確信を持って言えることが一つだけあります」
由鶴は、報告書を静かに閉じた。
「緋雪。あなたは、この巨大な謎の中心にいながら、誰も傷つけないための綱渡りを続けている。……ならば私は、あなたを告発する情報班ではなく、あなたの嘘を守り抜くための『盾』になるべきなのかもしれません」
まだ、その決意を口にする勇気はない。
だが、由鶴の中で、緋雪という一人の仲間への向き合い方が、静かに、しかし確実に変わり始めていた。
同じ頃。
新生・魔法少女協会、周防凛花の私室。
凛花は、ベッドに腰掛けたまま、膝の上に置いたタブレットの画面をじっと見つめていた。
画面には、政府から協会に配布されている『裏社会脅威度評価レポート』が表示されている。そこには、ゴーストという存在について、政府側の一方的な見解——「国家の敵、殲滅すべき最重要標的」という文言が、これでもかと並べ立てられていた。
「……本当に、そうなのかしら」
凛花は、画面をスクロールする指を止めた。
福音の鐘の拠点制圧作戦で見た、幹部たちの不自然なまでの手心。そして、隠密部隊の増援を的確に分断し、誰も殺さずに無力化してみせた、あまりにも洗練された盤面操作。
もし本当にゴーストが、無差別な殺戮を厭わない冷酷な支配者なのだとしたら、あの戦場はもっと血に塗れていたはずだ。しかし実際には、協会側にも福音側にも、目立った死者は一人も出ていない。
「政府の言う『悪』と、私が実際に見た戦場は、どうしてこんなにも噛み合わないの……」
凛花は、タブレットを閉じ、窓の外の夜空を見上げた。
姉・周防凛音が命を賭して守ろうとしたこの街。その平穏を、本当に脅かしているのは誰なのか。
政府が指し示す方向と、自分自身の目で見た真実。その二つの間に横たわる、埋めがたい溝。
(お姉ちゃんなら、こんな時どうしただろう)
凛花は、姉の遺影代わりに飾っている一枚の写真を、そっと手に取った。
優しく、けれど芯の強い眼差しでこちらを見つめる、在りし日の凛音の姿。
「……お姉ちゃんは、きっと自分の目で確かめようとしたはずよね」
凛花は、静かに決意を固めた。
政府の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分自身の手で、この歪んだ戦局の真実を突き止める。
その決意は、まだ誰にも打ち明けられていない、彼女だけの孤独な戦いの始まりだった。
そして、その頃。
福音の鐘、大聖堂の地下深くに広がる作戦室。
「——総員、傾注なさい!」
ルディア・ロンディニウムの凛とした声が、集結した幹部たちに響き渡った。
宮子、真里、そしてルカとリリアの双子が、緊張した面持ちで整列している。
「ゴースト様より、新たな『神託』を賜りましたわ」
ルディアの黄金の瞳が、これまでにないほどの熱を帯びて輝いていた。
「政府に囚われ、自我を奪われた哀れな元魔法少女たち——『隠密』部隊。彼女たちを一人残らず救い出し、浄化せよとの御命令です」
「……救い出す?」
真里が、怪訝そうに眉をひそめた。
「殺すのではなく、ですか」
「ええ。ゴースト様は、政府に使い捨てられた子羊たちにすら、慈悲を賜るお方ですのよ」
ルディアは、うっとりとした表情で目を細めた。
「わたくしたちは今日この時をもって、ただの殺戮者ではなく、『救済の使徒』として生まれ変わるのです」
「……面白いじゃん」
ルカが、ナイフをくるりと指先で回しながらニヤリと笑った。
「殺さないだけで、暴れていいのは変わらないんでしょ?」
「そうよ、ルカ。ただし——」
リリアが、隣で釘を刺す。
「神様の御心に背いて、うっかり殺しちゃったりしたら、承知しないからね」
「うぐ、分かってるって」
ルディアは、幹部たちを見渡し、両手を高く掲げた。
「政府が我らを、そしてゴースト様を『悪』と呼ぶのならば、我らはその『悪』の名において、彼らの非道を白日の下に晒してみせましょう。全国に散らばる政府の隠密製造施設、そしてメンテナンス拠点——その全てを、この福音の鐘が突き止めます」
「「「ゴースト様の御心のままに!」」」
幹部たちの声が、大聖堂の地下に重々しく反響した。
狂信という名の推進力を得た福音の鐘は、これまでの血生臭いテロ組織から、政府の暗部を追い詰めるための巨大な調査網へと、静かに、しかし確実にその姿を変えつつあった。
この動きは、由鶴の監視網にも、凛花の探求にも、まだ捉えられていない。
しかし、水面下で蠢き始めた三つの潮流——由鶴の再評価、凛花の目覚め、そしてルディアの進軍は、遠からず一つの巨大なうねりとなって、政府の暗部を飲み込もうとしていた。




