第二百一話
白鳥の延命処置が無事に完了し、白百合の盾と政府、そして裏社会の間でヒリヒリとした緊張感が水面下で続く中。
三神零の休日は、全く別のベクトルで絶体絶命の危機を迎えていた。
「——さあ、三神くん。白鳥の延命処置は完璧に成功したわ。約束通り、今日は私にたっぷり奉仕してもらうわよ?」
休日の昼下がり。
都内でも有数の高級ブランドショップが立ち並ぶ、華やかなメインストリート。石畳の歩道を行き交う人々が、すれ違いざまに思わず振り返り、感嘆の溜め息を漏らすほどの圧倒的なオーラを放つ絶世の美女が、悪戯っぽい笑みを浮かべて三神零の右腕に絡みついていた。
星監のトップ、ヴィクトリア・ローゼンベルグである。
普段、裏社会を統べる際に彼女が纏っている豪奢で退廃的なゴシックドレスの装いとは打って変わり、今日の彼女はボディラインを美しく強調する深紅のタイトワンピースに身を包んでいた。艶やかな金糸の髪をふわりと風に揺らし、大きなつばの女優帽とサングラスを身につけたその姿は、お忍びで来日したハリウッドのトップスターか、あるいはどこかの国の王族の令嬢かといった風格だ。
道ゆく男性たちが羨望の眼差しを向ける中、当の零本人はといえば、深めのキャップ、そして地味なパーカーという、極力目立たない『ただの男子高校生』の変装を徹底し、冷や汗を流しながら周囲を激しく警戒していた。
「……あの、ヴィクトリアさん。奉仕って、具体的に何をするつもりですか……?」
零は、周囲の突き刺さるような視線に胃を痛めながら、おずおずと尋ねた。
数日前、白鳥を救うための技術提供の『見返り』として要求された、ヴィクトリアとの丸一日のデート。
まさか本当に、あの漆黒のドレスを纏ったゴーストの姿で街を歩くわけにはいかない。そんなことをすれば、三分で政府の対魔法少女部隊に包囲されるか、情報班の由鶴にドローンで追跡されるかのどちらかだ。そのため、「最強の死神の本来の姿である『三神零』として同行する」という条件でなんとか妥協してもらったのだ。
しかし、彼女が言う『奉仕』という言葉の響きが、零の不安を過剰に煽っていた。
「うふふ、決まってるじゃない。ショッピングよ。あなたが私の荷物持ち兼、エスコート役。……あら、それともベッドの上での奉仕の方がご希望だったかしら? 星監が所有する都内のスイートルームなら、いつでも手配できるわよ?」
ヴィクトリアが、サングラスを少しずらし、妖艶な流し目を送ってくる。
彼女の豊満な胸元が零の腕に押し当てられ、甘く高貴な香水の匂いが鼻腔をくすぐった。傍から見れば、完全に年上の色気あるお姉さんに、純朴な少年がからかわれている図である。
「ショッピングでお願いします!! 全力で荷物持ちをやらせていただきます!」
零は食い気味に、そして極めて事務的なトーンで即答した。
「あら、つまらない。まあいいわ、今日は思い切り発散させてもらうから、覚悟なさいな」
かくして、裏社会の女王が堂々と『報酬』を回収する、前代未聞のデートが幕を開けたのである。
高級ブティックを何軒もハシゴし、金銭感覚の完全にバグったヴィクトリアの爆買いに付き合わされ、零の両腕にはあっという間に大小数十個のブランド紙袋がぶら下がっていた。
大小数十個のブランド紙袋の重みに、零の細腕はプルプルと悲鳴を上げていた。ゴーストとして変身すれば特S級の膂力を誇る彼だが、生憎と素の『三神零』は、ただの運動不足気味な男子高校生に過ぎない。この物理的な重さだけは、魔法でどうにかできる問題ではなかった。
そして、総額で家が何軒も建つような品物を抱えて街を歩く精神的な重圧が、二重の意味で確実に彼の気力を削り取っていた。
「ねえ、零くん。このドレス、どうかしら?」
「……とてもお似合いだと思い……えっ? 今、なんて?」
ふいに、ヴィクトリアが呼び方を変えたことに零は気づいた。
これまではゴーストの神使としての『三神くん』という呼び方だったのが、何の脈絡もなく、まるで恋人に話しかけるかのように自然な『零くん』へと変化していたのだ。
「あら、聞こえなかった? せっかくのデートなんだから、堅苦しい名字で呼ぶのはやめたの。……ダメかしら、零くん?」
ヴィクトリアは悪戯っぽく微笑み、さらに密着して零の腕に自分の胸を押し当ててきた。その柔らかく圧倒的な質量と、至近距離で見つめてくる艶やかな瞳に、零の顔が一気に熱を帯びる。
「い、いえ……ダメじゃないですけど……」
「うふふ。可愛い顔をして。じゃあ、次のジュエリーショップに行くわよ、零くん」
数時間後。
さすがに歩き疲れた二人は、街角にあるお洒落なオープンカフェのテラス席で休むことにした。
運ばれてきた季節のフルーツタルトを前に、ヴィクトリアはサングラスを外し、年相応の女の子のように無邪気に目を輝かせていた。
(……ヴィクトリアさんも、こんな風に普通の休日を楽しむことがあるんだな)
零は、アイスコーヒーのストローを咥えながら、彼女のそんな姿を少しだけ微笑ましく見つめていた。
「……なに? 人の顔をジロジロ見て。もしかして、私の大人の魅力にようやく見惚れたのかしら、零くん?」
ヴィクトリアが、フォークを咥えたまま上目遣いで零を見た。
「いえ、その……ケーキ、美味しそうに食べるんだなと思って。裏社会のトップでも、甘いものは別腹なんですね」
「当然よ。頭を使う仕事ばかりだもの。……それに、こうして何も気にせず、ただの女の子として街を歩けるのは、本当に久しぶりだから」
ヴィクトリアは、少しだけ寂しそうな、けれど穏やかな笑みを浮かべた。
「今日は特別よ。だって、私の隣にはゴースト様の名代である『零くん』が、最高のボディーガードとしてついているんだから」
そう言って、彼女はテーブルの下で、ヒールを脱いだ足先でツンツンと零の足首をつついてきた。
「っ!? ヴィクトリアさん、外ですから!」
「あら、照れてるの? 初々しくて可愛いわね」
ヴィクトリアが楽しげに笑い声を上げた、まさにその時だった。
「——ちょっと! そこでお待ちになって!!」
突如、平和な休日のカフェの空気を切り裂くような、凛とした、しかし激しい怒りに震える声が響き渡った。
ブランド街の石畳を、豪奢な白いフリルドレスをバサバサと翻しながら、一人の美少女が猛烈な勢いで突進してくる。
福音の鐘のトップ、ルディア・ロンディニウムである。
「る、ルディアさん!? どうしてここに!」
零は思わず立ち上がり、アイスコーヒーをこぼしそうになった。
「あら。ルディア・ロンディニウム。どうしてあなたがここにいるのかしら?」
ヴィクトリアが、不機嫌そうに目を細めて冷たい視線を向ける。
「ヴィクトリア・ローゼンベルグ! わたくしを差し置いて、抜け駆けは許しませんわよと言ったはずですわ!」
ルディアは、息を切らしながらも零の前に歩み寄り、その左腕をガシッと力強く抱き込んだ。
「神使様の位置情報など、福音のネットワークをもってすれば容易く特定できますわ! 白鳥の浄化処置が無事に完了したこと、わたくしから直接ゴースト様へご報告するために彼を探しておりましたが……なぜ、あなたが神使様の隣で、我が物顔でお茶などシバいておりますの!?」
「誰が泥棒猫よ、ルディア・ロンディニウム。今日は私が彼を一日貸し切っているの。邪魔しないでちょうだい」
「いいえ! わたくしの浄化魔力がなければ、あの呪符の毒は中和しきれませんでしたわ! 本来ならば、わたくしがゴースト様御自らとの一日を賜るべきところですが、彼が代わりに奉仕するというのなら、それも神の思し召し! さあ、わたくしと共に祈りを捧げる教会の巡礼に出ましょう!」
「譲らないわよ。彼は私の荷物持ちなんだから。ねえ、零くん?」
ヴィクトリアが、ことさら親しげに名前を呼びながら零の右腕にさらに深く身を寄せた。
その『呼び方』の変化を、狂信者であるルディアの耳が聞き逃すはずがなかった。
「……は? ヴィクトリア・ローゼンベルグ。あなた、今……神使様を下の名前で、馴れ馴れしく呼びましたわね……?」
ルディアの黄金の瞳が、血走ったように見開かれる。
「なれば、わたくしも! 零様! こんな俗物女のところになど長居は無用ですわ! さあ、わたくしと共に行きましょう、零様!」
対抗心を燃やしたルディアまでが、零の左腕に自身の豊満な胸をぎゅっと押し当てながら、必死に彼を引っ張り始めた。
右腕を深紅のドレスのヴィクトリア・ローゼンベルグに、左腕を純白のドレスのルディア・ロンディニウムにホールドされたまま、零は完全に身動きが取れなくなっていた。
バチバチと青白い火花を散らす、裏社会の二大組織のトップ。互いにフルネームで罵り合いながら、零の腕にすり寄る彼女たちの圧倒的なプロポーションに、零の顔は茹でダコのように真っ赤に染まっていた。
「おい、見ろよあれ……なんだあのハーレム……」
「両手に絶世の美女、しかもどう見ても二人とも年上の超絶綺麗なお姉さんじゃないか……」
「あの地味な高校生、前世で国でも救ったのか……? 羨ましすぎるだろ……」
周囲の客たちが、怯えと強烈な嫉妬の混じった声で遠巻きに見守っている。
年上のお姉さん二人による、夢のようなハーレムデート。しかし、当の零本人にとって、それは夢でもなんでもなく、ただひたすらに胃壁が削られる無間地獄であった。
——そして、この地獄のような修羅場を。
少し離れた斜め向かいのカフェのテラス席から、優雅に、しかし圧倒的な『優越感』をもって眺めている人物がもう一人存在していた。
休日の買い出し帰りに、偶然このブランド街を通りかかった、変装姿の羽衣緋雪である。
(……ふふっ。裏社会のトップが二人揃って、零くんを取り合って必死みたいね。でも、滑稽だわ)
緋雪は、伊達メガネの奥で紫水晶の瞳を細め、優雅にアイスティーのストローを咥えた。
彼女はすでに、三神零に想いを告白している。そして何より、彼が『ゴースト』その人であるという、世界で最も深く、最も重い秘密を共有する唯一の共犯者なのだ。
ヴィクトリアとルディアがいくら彼にすり寄ろうと、彼女たちはゴーストの正体すら知らない、ただ盤上で踊らされているだけの存在に過ぎない。
(あの二人がどれだけアピールしたところで、零くんの本当の顔を知っているのは私だけ。私の方が、あの二人よりもずっと先を行っているんだから)
緋雪は、一切の嫉妬を感じることなく、まるで勝者のような余裕と優越感に浸りながら、密かに彼らの騒動を監視し続けていた。
——しかし。
その余裕の氷壁は、次の瞬間、脆くも崩れ去ることになる。
遠目からでもはっきりと分かるほど、ヴィクトリアとルディアの『豊満な胸』が、これでもかとばかりに零の両腕に押し付けられていた。
そして何より、そんな二人の柔らかな感触に挟まれた零の顔が——周囲の視線にパニックになっているのもあるが——明らかに、真っ赤になってデレデレと緩んでいるように見えたのだ。
(…………は?)
緋雪の視線が、ヴィクトリアの胸元へ。そしてルディアの胸元へ。最後に、自身の(彼女たちに比べればつつましい)胸元へと移動する。
その瞬間、緋雪の中で何かがブツンと音を立てて千切れた。
ピキィィィンッ……!
緋雪の周囲の気温が一瞬にして絶対零度まで急降下し、彼女が握りしめていたグラスのアイスティーが、ストローごと一瞬でカチンコチンに完全凍結した。
テラス席のテーブルが白く霜を吹き、隣の席の客が「ひぃっ!? 急に真冬に!?」と悲鳴を上げて逃げ出す。
(余裕? 優越感? そんなもの、知るもんですか。あんな……あんな脂肪の塊に腕を挟まれて、デレデレしてるんじゃないわよ、あの馬鹿死神……!)
先ほどまでの優雅な勝者の笑みは完全に消え失せ、緋雪の紫水晶の瞳には、かつて魔獣に向けた時よりも遥かに純度の高い『殺意』が宿っていた。
相手は裏社会のトップ二人ではない。あんな分かりやすい色仕掛けに鼻の下を伸ばしている、最愛の共犯者に対する明確な殺意である。
(絶対に許さない……っ!!)
完全なる敗北感と殺意に震えながら、緋雪は心の中で恐るべき復讐を確定させた。
「さあ零様、あっちのフロアに行くわよ!」
「お待ちになって! まずは教会のステンドグラスを見に行きますわよ、ヴィクトリア・ローゼンベルグ!」
「ちょ、引っ張らないでください! 二人とも、紙袋が破けます!」
国家の危機と、政府による非道な陰謀が渦巻く裏側で。
最強の死神の平穏であるべき休日は、年上のお姉さん二人によるハーレムデートの様相を呈しながら、遠方からの凄まじい殺気に見つめられ、ひたすらに胃の痛くなるようなコメディチックな時間として消費されていくのであった。




