第二百話
政府の地下施設から隠密・白鳥を救出し、星監の極秘ラボへと移送してから数日が経過した。
ラボの中は、静かな医療機器の電子音だけが規則正しく響いていた。
特殊な魔力隔離カプセルの中で眠り続ける少女、白鳥。
彼女の首元には、緋雪の緻密な『氷結魔力』、星監の技術班による『隔離結界』、そして福音の鐘が放つ『浄化魔力』が複雑に絡み合った、強固な封印の術式が施されている。
根本的な解呪にこそ至っていないものの、脳を焼き切ろうとする呪符の暴走は完全に沈静化し、彼女の生命維持の波形は驚くほど穏やかなものになっていた。
深夜、人目を忍んでラボを訪れた緋雪は、白鳥のカプセルの前に立ち、そっとガラス越しに手を触れていた。
「……白鳥さん」
その声に応えるように、カプセルの中のバイタルモニターが、微かな反応を示した。
ピピッ……ピピピッ……。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
白鳥の閉ざされていた瞼が、僅かに震え、そして薄く開かれた。
「……あっ」
緋雪が息を呑む。
かつて戦場で交戦した時の、あの虚ろで一切の感情を持たなかった隠密の瞳ではない。今、白鳥の目には、確かな『自我の光』が宿っていた。
彼女は、焦点の定まらない目で周囲の無機質な機材を見回し、やがてガラスの向こう側に立つ緋雪の顔を捉えた。
「……は、ごろもさん……?」
酸素マスク越しに、掠れた、ひどく弱々しい声が漏れる。
それは、機械に書き換えられたプログラムの音声ではなく、数年前、魔法少女訓練校のグラウンドで共に笑い合った、あの頃の彼女自身の声だった。
「……ええ。私よ。羽衣緋雪よ」
緋雪の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙が溢れ落ちる。
彼女はカプセルにすがりつくようにして、何度も何度も頷いた。
「よかった……本当によかった……!」
白鳥は、微かに口角を上げ、安心したように再び目を閉じた。
まだ長時間の覚醒は難しく、すぐに深い眠りへと落ちてしまったが、その表情は心を殺された『隠密』の無機質なものではなく、安らかで温かい、人間の少女のものに戻っていた。
——その光景を、ラボの入り口付近の影から、静かに見守っている存在があった。
漆黒のドレスを纏ったゴースト、いや、三神零である。
ゴーストの姿でありながら、その内側にある少年の心は、確かな安堵に包まれていた。
(……意識を取り戻したか。星監の結界技術と福音の浄化魔力は、確かに本物だ。これで、延命だけじゃなく、彼女の失われた記憶や自我を少しずつ回復させていく道筋が見えた)
零は、静かに息を吐きながら、同時にこの『成功』が持つもう一つの巨大な意味について思考を巡らせていた。
白鳥が自我を取り戻し、証言能力を回復する。
それはつまり、政府がどのようにして元魔法少女たちを非人道的な洗脳兵器に改造したのか、そのおぞましい過程を語る『生きた証人』を手に入れたことを意味する。
(御子柴の非道を、完全に暴き、白日の下に晒すための決定的な切り札……)
これまで裏社会の力だけで暗躍してきた反逆のシナリオに、ついに「世論」や「表社会の正義」を味方につけるための強力なカードが加わろうとしている。
もしこの事実が、白百合の情報班である由鶴や、協会で真実に近づきつつある凛花の手に渡れば、政府の暗部は世論の炎に包まれ、内側から崩壊するだろう。
「……少しずつ、盤面がひっくり返り始めているわ」
ゴーストは、小さく呟き、紫水晶の瞳に冷酷な決意の光を宿した。
政府の非道、暴走する国家権力、そして囚われた彼女たちを救い出すための最終決戦。
白鳥の小さな目覚めは、最強の死神が描く『反逆のシナリオ』を、いよいよ最終段階へと押し上げる、決定的な夜明けの兆しであった。
——しかし。
この『大成功』は、同時に、ある恐るべき約束の執行条件を満たしてしまったことを意味していた。
白鳥の意識回復という明確な成果が出たことで、星監と福音の鐘による延命処置は『成功』と見なされた。
白百合と政府の間でヒリヒリとした緊張感が続く中、三神零の休日は、約束された『報酬の支払い』という名目で、絶体絶命の危機を迎えていた。
「——さあ、零くん。処置は完璧に成功したわ。約束通り、今日は私にたっぷり奉仕してもらうわよ?」




