第二十話
秋の気配が深まる山間部。
木々の葉が赤や黄色に色づき始めた大自然の中で、三神零は指定された学校指定のジャージ姿で、額の汗を拭っていた。
「おい三神! サボってないで薪もっと集めろよ! このままじゃ飯盒炊爨の火が熾せなくて、昼飯のカレーが食えねえぞ!」
少し離れた場所から、段ボールをうちわ代わりに仰いでいる友人が声を張り上げてくる。
「分かってるよ。今そっちに持っていく」
零は両手に抱えた薪を落とさないように歩きながら、ふう、と息を吐いた。
本日は、零が通う高校の二泊三日の『野外研修』の初日である。生徒同士の親睦を深めるという名目のもと、県外のキャンプ場を貸し切って行われる学校行事だ。
普段は夜な夜な魔獣と死闘を繰り広げ、週末はレガリアのテロ対策に駆り出され、おまけに数学の赤点補習までこなしていた零にとって、この野外研修は待ちに待った「純粋な学生らしいイベント」であった。大自然の中でカレーを作り、夜はキャンプファイヤーを囲む。魔獣の脅威など忘れて、ただの高校生として羽を伸ばせる最高の時間になるはずだった。
(このエリアは、魔法少女協会が事前に大規模な魔獣掃討を行って『安全指定』を出している場所だ。手製アプリの警報も切ってあるし、今日と明日は絶対に平和なはず……)
零がそう呑気に構え、薪を抱えて友人の元へ戻ろうとした、その時だった。
——ゾワッ、と。
零の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
「……ッ」
零は思わず足を止め、森の奥深くへと鋭い視線を向けた。
アプリの警報は鳴っていない。だが、夜な夜な命のやり取りをしている零の『感覚』が、警報よりも早く異常を察知していた。
大気の流れが不自然に淀んでいる。微かな、しかしひどく濃密な魔力の残滓、それも人間のものではない、腐臭を伴う魔獣特有の瘴気が、風に乗って漂ってきたのだ。
(嘘だろ……協会が安全指定を出してるエリアだぞ!?)
零は腕に抱えていた薪を地面に下ろし、魔力を眼球に集中させて視神経を強化した。
木々の隙間、数百メートル先の鬱蒼とした森の奥。そこには、空間が歪むようにして開いた洞窟のような亀裂があった。
そこから、黒い甲殻を持った巨大な蜘蛛のような魔獣が、二匹、三匹と這い出してきているのが見えた。周囲の木々には不気味な糸が張り巡らされ、亀裂の奥にはさらに数十、あるいは数百の赤い眼光が蠢いている。
(魔獣の『巣』……! まだ発生したばかりの初期段階だが、あんな数が一気に溢れ出したら、このキャンプ場は終わりだ!)
協会の見落としなのか、あるいは地脈の乱れで突発的に発生したイレギュラーなのかは分からない。確かなのは、今すぐあれをどうにかしなければ、クラスメイトや教師たちが大惨事に巻き込まれるということだけだった。
「おーい三神、どうしたー?」
薪を待っている友人が不思議そうに首を傾げている。
零は咄嗟に腹を押さえ、顔をしかめてみせた。
「ご、ごめん! 急に腹が痛くなって……ちょっと仮設トイレ行ってくる!」
「うお、マジか! 漏らすなよー! カレーできたら呼んでやるからな!」
友人の呑気な声を背に受けながら、零は「ありがとう」とだけ返し、トイレがある方向とは逆の、森の奥深くへと全速力で駆け出した。
(せっかくの野外研修を、魔獣の騒ぎで中止になんてしてたまるか……! 教師が気づく前に、俺が全部片付ける!)
キャンプ場から十分に離れ、誰の目も届かない深い茂みの中へと飛び込んだ零は、胸のペンダントを強く握りしめた。
「変身」
少年の身体を、深い闇の魔力が包み込む。
ジャージ姿の男子高校生は一瞬にして姿を消し、そこには紫がかった漆黒のロングヘアを揺らす、豪奢な白と黒の魔装を纏った『ゴースト』が立っていた。
ゴーストは無言のまま、闇の『瞬間移動』で空間を跳躍した。
「シャアアアアッ!」
森の奥に形成された魔獣の巣。
体長二メートルを超える巨大な蜘蛛型の魔獣たちは、突如として自分たちの領域に現れた漆黒の魔法少女に向けて、一斉に威嚇の鳴き声を上げた。口からは、触れれば人間など一瞬で溶かしてしまう猛毒の酸が滴っている。
しかし、ゴーストは背の大剣を抜くよりも先に、足元へ向けて冷気を放った。
「——氷結領域・静寂」
ピキキキィィッ!
氷の魔力が巣の周囲数百メートルをドーム状に覆い尽くす。それは物理的な防壁であると同時に、音と魔力の漏洩を完全に遮断するための『防音結界』だった。
(ここで派手に爆発音なんて鳴らしたら、キャンプ場がパニックになるからな。……よし、これでいくら暴れても外には聞こえない)
内心で零としての計算を終えると、ゴーストはゆっくりと背に負っていた漆黒の大剣を抜き放った。
紫の瞳が、巣穴の奥で蠢く無数の赤い眼光を冷ややかに見据える。
「あなたたちには悪いけれど、私には時間が無いの。早く戻らないと、カレーが冷めてしまうから」
女性の透き通るような声でそう呟くと同時に、ゴーストは大剣の刀身に『闇』と『炎』の魔力を高密度で圧縮させた。
「ギチィィィッ!!」
ゴーストを外敵と認識した数十匹の蜘蛛型魔獣が、一斉に飛びかかってくる。無数の酸の糸が網のように放たれ、ゴーストの退路を塞いだ。
しかし、ゴーストは躱そうともしない。
「深淵の黒炎」
大剣が横薙ぎに一閃される。
放たれたのは、熱も光も持たない漆黒の炎の斬撃。
酸の糸は黒炎に触れた瞬間、蒸発することすらなく「無」へと還り、そのままの勢いで斬撃は宙を舞う魔獣たちの群れへと直撃した。
「ギャアアア——」
悲鳴は途中で途切れた。
黒炎に飲まれた魔獣たちは、甲殻も肉も、そして魔力核すらも一瞬にして焼き尽くされ、灰も残さずに消滅した。
圧倒的すぎる殲滅力。しかし、巣穴の奥からは、仲間の死に気づいたさらなる魔獣の群れが、怒狂ったように湧き出してくる。その数、およそ百体。中型サイズだけでなく、巣の主と思われる家屋ほどもある巨大な個体も姿を現した。
(少し数が多いな。……なら、これでまとめて終わらせる)
ゴーストは空間を跳躍し、巣穴の真上、空中へと瞬間移動した。
大剣を頭上高く掲げると、そこへ『氷』と『炎』と『闇』の三属性を同時に展開する。先日、山間部で特級魔獣を消し去った究極魔法。ただし、今回は地形を破壊しすぎないように威力を絞り、範囲を巣穴の内部だけに限定するよう、極限の魔力コントロールを施す。
「——深淵の極光、縮退展開」
極彩色の漆黒の光が、大剣の切っ先から巣穴の中へと一直線に注ぎ込まれた。
音は出ない。光の瞬きすらない。
ただ、巣穴の中で蠢いていた百体以上の魔獣と、その領域を構成していた瘴気そのものが、まるで消しゴムで削り取られるように、空間ごと静かに消滅していったのだ。
わずか三秒。
それだけで、新たな脅威となるはずだった魔獣の巣は、完全に浄化され、ただの静かな森の空間へと戻っていた。
ゴーストはふわりと地上に舞い降り、大剣をカチャリと鞘に収めた。
自身の防音のために張った氷のドームを解除すると、再び秋の森の心地よい風と、小鳥のさえずりが耳に届くようになる。
(よし。これで誰もパニックにならずに済む)
戦闘開始から、わずか三分間の出来事だった。
ゴーストは魔装に汚れ一つついていないことを確認すると、再び深い茂みの中へと歩みを進めた。
「変身解除」
闇の魔力が晴れ、元のジャージ姿の三神零へと戻る。
彼は近くを流れていた小川で手を洗い、何事もなかったかのように額の汗を拭いながら、キャンプ場の方角へと小走りで戻っていった。
「おーい、三神! おせーよ! もうカレーできちゃったぞ!」
「わりぃ! ちょっと腹の調子が長引いて……」
飯盒炊爨の煙が立ち上る中、友人たちが笑いながら零にカレーの盛られた紙皿を手渡す。
一口食べると、市販のルーと少し焦げたご飯の味が口いっぱいに広がり、たまらなく美味しく感じた。
(……ああ、やっぱり平和が一番だ)
零は、自分が先ほど百匹以上の怪物を単独で殲滅してきた事実など完全に頭から追い出し、ただの男子高校生としてカレーのおかわりに並ぶのであった。
その頃。
魔法少女協会・日本支部、最上階の作戦会議室。
「——緊急報告です!」
情報班の責任者である新実由鶴少佐が、血相を変えて会議室へと飛び込んできた。
円卓を囲んでいた姫嶋結衣大将と湯野麗香中将が、鋭い視線を向ける。
「どうしました、由鶴少佐。どこかでスタンピードでも発生しましたか?」
「いえ、逆です! 関東圏の第十二山岳地帯にて、突発的な魔獣の巣の発生を検知したのですが……我々の防衛部隊が急行するより前に、何者かによって『巣ごと』完全に殲滅されました!」
由鶴はホログラムモニターに、人工衛星と広域魔力センサーから取得したデータを表示した。
「発生した魔獣はおよそ百数十体。放置すれば近隣の自治体に甚大な被害が出る規模でしたが……ご覧ください。この魔力波形」
モニターに表示されたのは、氷、炎、闇の三つの属性が完璧に融合した、極彩色の波形データ。
「トリプルスペル……ゴーストですか!」
麗香中将が、驚愕に目を見開いた。
「はい。センサーの記録によれば、ゴーストの魔力反応が出現してから消失するまで、わずか『三分間』。その間に、中規模の魔獣の巣が一つ、完全に消滅しています」
「三分間……。なんという圧倒的な殲滅力ですか。しかし、なぜ彼女が急にそんな辺鄙な山奥に?」
結衣大将が不思議そうに眉をひそめる。
第十二山岳地帯は、確かに魔獣が発生してもおかしくない場所だが、ゴーストが普段活動している首都圏からは遠く離れている。
「それが……ゴーストが戦闘を行った地点からわずか数キロ離れた場所に、とある高校の生徒たちが『野外研修』でキャンプに訪れていたことが判明しました」
由鶴のその報告を聞いた瞬間、結衣と麗香はハッと顔を見合わせた。
「……なるほど。そういうことですか」
結衣大将は、深く納得したように頷き、モニターに映るゴーストの魔力波形に、心からの敬意を込めた眼差しを向けた。
「協会のセンサーすら感知が遅れた突発的な魔獣の巣。彼女は、近くにいる罪のない学生たちに危険が迫っていることをいち早く察知し、誰にも知られることなく駆けつけて、脅威を未然に排除してくれたのですね」
「ええ。しかも、パニックを起こさせないよう、わずか三分で事態を収拾して立ち去るなんて……。なんという高潔な精神。なんという深い慈愛でしょうか」
麗香中将もまた、眼鏡の奥で感動に瞳を潤ませていた。
「特S級という絶大な力を持ちながら、名もなき学生たちの平和な日常を守るために、人知れず山奥へ跳躍する。……彼女はやはり、人類の守護者です。我々は、彼女のその気高い意志に応えなければなりません」
「はい、大将。今後はゴーストの行動を妨害するような真似は一切慎み、彼女が戦いやすい環境を裏からサポートする体制を整えましょう」
協会トップたちの間で、ゴーストに対する評価と神格化が、さらなる高みへとぶち上がっていく。
カレーが冷めるからという個人的すぎる理由で三分で戦闘を終わらせ、ただの男子高校生として飯盒炊爨を満喫している三神零の真実など知る由もなく。
美しい亡霊の伝説は、協会の中でまた一つ、尾ひれをつけて語り継がれていくこととなるのであった。




