第百九十八話
都心の喧騒から遠く離れた、ひっそりとした山間にある古い洋館。
そこは、緋雪の生家である羽衣家がかつて所有し、数年前の魔獣災害を機に手放されて廃墟同然となっていた物件だ。新興勢力である『白百合の盾』のトップエースに就任した際、緋雪が組織の目すら届かない「万が一の事態」に備え、個人的な資金で密かに買い戻して隠れ家に改装していた極秘のセーフハウスである。
物理的な人里からの隔離に加え、何重にも張り巡らされた魔力迷彩の結界。政府の監視網はおろか、白百合の盾が誇る情報班・新実由鶴の高性能ドローンでさえ、この場所を特定することは不可能に近い。
埃を被ったアンティークの家具が並ぶ薄暗い寝室で、緋雪はベッドの脇に座り込み、意識を失っている少女——コードネーム『白鳥』の首元に、そっと右手を当て続けていた。
「……っ……はぁ……」
緋雪の額から、大粒の汗がポタポタと滴り落ち、シーツに染みを作っていく。
彼女は今、自身の得意とする『絶対氷結』の魔力を、極限まで緻密にコントロールしながら白鳥の首元にある禍々しい呪符の刺青へと流し込んでいた。
呪符の術式そのものを凍結させ、脳を焼き切ろうとする再起動プログラムを強制的に停止させるための応急処置。だが、これは氷のトップエースである緋雪にとっても、とてつもない集中力と魔力を激しく消費する綱渡りのような荒業だった。
大剣を用いて脳神経の外科手術を行うようなものだ。少しでも冷気が強すぎれば、白鳥の頸動脈や脳幹まで凍りつかせて命を奪ってしまう。逆に少しでも魔力の供給が途切れ、氷が溶ければ、呪符は即座に再起動し、白鳥の脳細胞を完全に破壊してしまう。
緋雪は睡魔と魔力枯渇の疲労に耐えながら、白鳥の苦しげな寝顔を見つめていた。
(白鳥さん……。昔、訓練校のグラウンドで一緒に笑い合ったあの頃から、どれだけ辛い思いをしてきたの……)
かつての友が、心を殺され、政府の使い捨ての兵器『隠密』として戦わされていたという絶望的な事実。それでも、一昨晩の戦闘中、彼女は緋雪の魔法を見て僅かながら自我を取り戻そうとした。その微かな人間性の欠片が、緋雪に「絶対にこの子を救い出す」という本気の決意を固めさせたのだ。
「大丈夫よ、白鳥さん。私が、必ず助けるから……」
緋雪が震える声で呟いた、その時だった。
室内の床に落ちていた月明かりの影が、突如として意志を持ったかのように蠢き、底なしの沼のように広がり始めた。
空間が歪み、影の中から音もなくせり上がってきたのは、豪奢な漆黒のドレスを纏った絶世の美少女——裏社会の頂点に君臨する最強の死神、ゴーストである。
政府の地下施設が、ルディアやヴィクトリアの部隊によって正面から強襲され、結果的に緋雪の単独行動への疑いを逸らす形になった——その夜、ひっそりと駆けつけた死神だ。
「……ずいぶんと無茶をしてくれたわね、緋雪」
ゴーストの口から紡がれたのは、冷徹でありながらも、どこか深く相手を気遣うような女性の声音だった。
変身している状態の彼は、決して素の三神零としての口調を出さない。それはゴーストという絶対的な存在としての威厳を保つためでもあり、自らが紡ぐ力にブレを生じさせないためでもあった。
「ゴースト……! 来てくれたのね」
緋雪は、目の前の死神が最愛の少年であることを十分に理解した上で、あえて『ゴースト』と呼んだ。彼女もまた、この過酷な盤上で共犯者として立ち回る覚悟を決めている。
「ええ。……あなたの魔力が、いつもと違う異様な消費のされ方をしているのを感じたの。心配で、来てしまったわ」
ゴーストは、緋雪の横に並び、ベッドで眠る白鳥を見下ろした。
緋雪の冷気によって首元の呪符は青白く凍りついているが、その奥底では、未だに禍々しい赤黒い魔力が毒々しく脈動を続けているのが見て取れた。
ゴーストは、白鳥の首元に自身の白い指先をそっとかざし、微弱な闇の魔力を探針のように流し込んだ。
数秒後、ゴーストの紫水晶の瞳が、険しいものへと変わった。
「……酷いな。これは、単純な洗脳や精神操作の類じゃない。彼女自身の魔力波長に寄生して、人格を形成する脳波のパターンを常に強制的に書き換え続ける、かなり悪辣で複雑な術式だわ」
「あなたの魔法で、解呪できないの……?」
緋雪が不安げに見上げる。
ゴーストは、悔しそうに僅かに目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
「私の力は、絶対的な『破壊』と『防御』には向いている。でも、人間の脳神経と魔力回路にここまで深く癒着した呪いを、宿主を傷つけずに引き剥がすような、精密な外科手術みたいな真似は……完全に畑違いよ」
それは、世界最強を誇る死神が、自らの力が万能ではないという限界を明確に自覚した瞬間だった。
無理に闇魔法や重力魔法で呪符を消し飛ばそうとすれば、白鳥の脳の海馬ごと物理的に破壊してしまい、彼女を廃人にしてしまう。圧倒的な暴力だけでは、人間の心を救うことはできないのだ。
「そ、そんな……。じゃあ、白鳥さんはこのまま……私が魔力を流し続けるのをやめたら、死んでしまうの?」
緋雪の声が、絶望に震える。
しかし、ゴーストはスッと立ち上がり、その漆黒のドレスの裾を揺らした。
「——諦めるつもりはないわ」
ゴーストの瞳には、かつてないほどの強い決意の光が宿っていた。
「この子を救うには、私一人の力じゃ足りない。だから、専門家の力を借りるわ。……この洋館の結界は優秀だけれど、設備がない。医療設備と技術のある、別の場所へ移すわよ」
ゴーストは自らの影を広げ、洋館から遠く離れた別の空間——自身が作り出した魔力による『影の結界部屋』へと、二人の裏社会のトップを呼び出した。
「——来なさい、ルディア・ロンディニウム。ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
威厳に満ちた声で呼びかけると、ほどなくして影の中から二人が姿を現した。
一人は、黄金の瞳を恍惚と輝かせる福音の鐘の指導者、ルディア。
もう一人は、パラソル型のステッキを優雅に手にした星監のトップ、ヴィクトリア。
二人は先ほどまでの政府施設強襲を終えたばかりだが、ゴーストの召喚に一切の疲れを見せることなく傅いた。
「ははっ! 深夜の御召し上げ、恐悦至極に存じますわ、ゴースト様!」
「あら。わざわざ結界空間に呼び出すなんて、ずいぶんと急な用件みたいね」
ゴーストは、漆黒の玉座に足を組んで座り、冷徹な視線で二人を見下ろした。
「先日の戦いで、あなたたちは政府の『隠密』部隊を多数生け捕りにしたわね。彼女たちの首にある呪符……あの悪辣な上書き術式についての解析は、どこまで進んでいるのかしら」
その問いに、ヴィクトリアとルディアは顔を見合わせた。
「……即答は避けさせてもらうわ、ゴースト様。星監の技術班が空間隔離結界の技術を応用して解析中だけれど、あの術式はあまりにも魔力波長に深く癒着しすぎている。完全な解呪ができるかどうかは、まだ研究の途上よ」
ヴィクトリアが、慎重に言葉を選ぶ。
「福音の鐘の『聖光の魔法』を以てしても、呪いの核を浄化し切るには至っておりません。無理に引き剥がせば、彼女たちの精神が崩壊してしまいますゆえ、現在は安全なアプローチを研究しておりますわ」
ルディアもまた、悔しそうに報告した。
「完全な解呪には至っていない……。だが、進行を抑えることはできているのね?」
ゴーストの鋭い指摘に、ヴィクトリアが頷く。
「ええ。捕獲した隠密たちを実験台にして研究した結果、術式の『起点』を一時的に隔離し、再起動を凍結させることで、自我の崩壊を防ぎ延命させる措置は確立できているわ」
「上出来よ。なら、その処置を施してほしい患者がもう一人いるわ」
ゴーストは、影の空間の奥に視線を向けた。
「ヴィクトリア。星監の医療設備が整った、極秘のラボを提供しなさい。ルディア、あなたのところの浄化術者もそこへ派遣しなさい」
ゴーストの命令に、二人は即座に頷いた。しかし、ヴィクトリアは妖艶な笑みを浮かべてパラソルの柄をコツンと床に鳴らした。
「あら、あなたが誰かのために頭を下げるなんて、珍しいこともあるものね。……いいわ、星監の最新鋭の地下ラボを提供してあげる。でも、タダというわけにはいかないわよ?」
「……見返りを求めるというの」
「ええ。この処置が成功した暁には……あなたの『神使』である三神零くん。彼と丸一日、誰にも邪魔されないデートの時間を頂戴するわ」
ゴーストは、表情を一切変えなかったが、内心では(えええっ!? なんで俺の休日がこんなところで交渉材料になってるんだ!?)と激しく動揺していた。
しかし、休む間もなくルディアがキーッと噛み付いた。
「不敬ですわよ泥棒猫! 三神くんはゴースト様の御使い。その時間を私物化するなど言語道断!」
ルディアは、すかさずゴーストの足元に跪き、熱を帯びた黄金の瞳で見上げた。
「ゴースト様! わたくしは神使ではなく、ゴースト様御自らと過ごす1日を所望いたします! ああ、このルディア・ロンディニウム、神の御側で丸一日、その威光にひれ伏すことができましたら、福音の全知全能を尽くして患者をお救いしてみせますわ!」
(……こっちはこっちで、俺がゴーストの姿で一日中ルディアさんの相手をするのか!? 胃に穴が空くどころの話じゃないぞ……!)
零の精神力は限界を迎えそうだったが、白鳥の命を救うためにはこの二人の協力が不可欠だ。
ゴーストは、小さく、しかし威厳に満ちた溜め息を吐いた。
「……いいわ。好きになさい。ただし、確実にこの子の時間を繋ぎ止めることが条件よ」
それから一時間後。
星監が所有する、都内某所のダミー企業ビルの地下深く。
最新鋭の医療機器が並ぶ極秘のラボに、ゴーストは緋雪と白鳥を連れて影移動で現れた。
すでにラボには、星監の白衣を着た技術班たちと、福音の鐘の高位術者たちが集結し、奇妙で異様な熱気に包まれていた。
白鳥はすぐに専用の魔力解析ベッドに寝かされ、緋雪が流し続けていた氷の魔力から、星監と福音の合同チームによる延命処置へと切り替えられた。
「波長の同調率、98パーセント! これより結界技術をミクロレベルで応用し、呪符の魔力回路を脳神経から物理的に引き剥がすための隔離レイヤーを構築します!」
技術者たちが神速でキーボードを叩き、巨大なモニターに白鳥の脳波と呪符の魔力波長が3Dグラフとなって表示される。
同時に、福音の鐘の術者たちがベッドを囲み、円陣を組んで祈りの詠唱を捧げた。
「大いなる神の御名において、この穢れし呪縛を浄化せん……!」
温かく神聖な光が、白鳥の首元にこびりついた赤黒い魔力を中和し、星監の技術班が構築した隔離レイヤーをサポートしていく。
科学と魔法、データ解析と宗教的祈祷。相反するはずの二つの巨大組織の力が、最強の死神の指揮の下で完璧な連携を見せ、一人の少女の命を確かに繋ぎ止めていた。
「……すごい」
部屋の隅で、ようやく魔力の供給を止めて休むことができた緋雪は、目の前で繰り広げられる光景に息を呑んでいた。
政府ですら匙を投げ、廃棄処分しようとしていた洗脳の呪縛。それを、かつては血で血を洗う抗争を繰り広げていた裏社会の人間たちが、信じられないほどの熱意と技術力で解析しているのだ。
そして、それらを束ね、指揮しているのは、緋雪の隣に静かに佇む漆黒の死神だった。
「……完全な解呪の即答は避けられたけれど、延命の処置は問題なく進んでいるようね。これで自我が崩壊する危険は完全に脱したわ」
ゴーストが、安堵したように息を吐き出した。
その横顔には、死神としての威圧感だけでなく、ただ一人の少女の命が救われたことを心から喜ぶような、静かな温かさが滲み出ていた。
「ありがとう、ゴースト……。本当に、ありがとう」
緋雪が、涙ぐみながらゴーストのドレスの袖をきゅっと握りしめる。
ゴーストは、そっと緋雪の頭に手を置き、優しく撫でた。
「あなたが、諦めずに助けようとしたからよ。……それに、私一人の力じゃ、どうにもならなかったわ」
ゴーストは、ラボの無機質な天井を見つめた。
これまでは、どんな困難も己の圧倒的な魔法の力だけでねじ伏せてきた。しかし、今回ばかりはそうはいかなかった。自分一人の力には限界があること、そして、盤上を動かすためには誰かを頼ることの重要性を、零は身をもって学んだのだ。
「……力を借りるなんて、性に合わないけれど」
ゴーストは、忙しく立ち働く星監の技術班と福音の術者たちを見つめながら、緋雪にだけ聞こえる小さな声で呟いた。
「誰も切り捨てないためなら……私は、いくらでも頭を下げてあげるわ」
それは、最強の死神が、ただの絶対的な恐怖の象徴としてだけでなく、『他者を頼ることを厭わない』という新たな強さを手に入れた瞬間だった。
二つの組織への「借り」が積み重なり、ヴィクトリアとのデート、そしてルディアへの一日奉仕という、恐るべきコメディチックな時限爆弾を抱えることになった零。
しかし、星監の解析技術と福音の浄化魔法という新たな希望の光は、白鳥の命を救い、今後、政府に囚われている他の隠密たちを救済するための極めて重要な技術的土台となった。
情報班・由鶴の監視という薄氷を踏みながらも、ゴーストと緋雪の反逆のシナリオは、着実に国家の暗部を追い詰めるための布石を打ち終えていた。




