第百九十七話
深夜の白百合の盾・作戦指令室。
情報班の新実由鶴は、幾つものモニターから流れる膨大な暗号化データと格闘していた。
(政府の暗号通信網……相変わらず強固ですが、先の隠密部隊の敗北で、情報伝達の経路に僅かな乱れが生じています。この隙を突けば……)
由鶴の指がキーボードの上を神速で舞う。
情報班としての彼女の腕は、国内でもトップクラスだ。国家の最高機密である国防委員会のサーバーの末端に、彼女は密かに独自のバックドアを仕掛けることに成功していた。
パラパラと画面に展開される文字列。
その中に、由鶴の目を引く一つの断片的な報告書があった。
『——対象:生体ユニット・コードネーム「白鳥」。感情反応の異常値を検知。洗脳の不適合と判断し、明朝0400時、第7メンテナンス施設にて「完全消去」の処置を実行予定——』
「……完全消去。生体ユニットの、感情反応の異常?」
由鶴は眉をひそめた。
さらにデータを辿ると、この「白鳥」という個体が、昨晩の緩衝地帯において、氷のトップエース・羽衣緋雪と交戦した個体であることが判明した。
(……緋雪と交戦した直後に、エラーを起こし、廃棄処分……? これは、単なる偶然でしょうか)
由鶴の脳裏に、冷酷な情報分析官としての直感と、かつての仲間を疑い続ける悲痛な思惑が交錯する。
(もし、この「白鳥」という隠密が、緋雪と何らかの個人的な繋がりを持っていたとしたら。……この情報を緋雪に流せば、彼女はどう動くでしょう)
由鶴は、ゴーストと共犯関係にあると疑っている緋雪の『本性』を暴くための餌として、この情報を利用することを決断した。
彼女は、報告書のデータを巧妙に偽装し、白百合の盾のエース陣が閲覧できる『要注意情報共有フォルダ』の片隅に、あえて目につくように配置した。
「……さあ、緋雪。もしあなたが本当にゴーストの冷酷な手先になり下がっているのなら、こんな個人的な感傷の情報など、見向きもしないはずです。ですが、もしあなたの中にまだ『白百合のエース』としての人間性が残っているのなら……」
由鶴は、祈るような、それでいて呪うような視線で、モニターの向こう側の反応を待ち続けた。
退院して自室のベッドで、緋雪は寝付けずにタブレットを眺めていた。
隠密との交戦。あの一瞬だけ見えた、隠密の少女の右目の下の泣きぼくろと、独特な剣の構え方。
(間違いない。あれは、訓練校時代の同級生だった『白鳥』さんだ。……魔獣にやられて、引退したはずなのに。どうして、政府の兵器なんかに……)
緋雪の胸は、激しい後悔と悲しみで締め付けられていた。
自分がもっと早く彼女の異変に気づいていれば。彼女を絶望の淵から救い出せていれば、あんな心を殺された人形にならずに済んだのではないか。
その時、タブレットに新着情報の通知がポップアップした。
由鶴が意図的に流した、要注意情報共有フォルダの更新。
緋雪は何気なくそのファイルを開き——そこに書かれていた『コードネーム白鳥・明朝0400時、完全消去』の文字を見た瞬間、心臓が凍りつくような衝撃を受けた。
「……完全消去!? 自我も記憶も、全部消して廃人にするってこと……!?」
時計を見る。現在時刻は午前二時。
処置が行われるまで、あと二時間しかない。
緋雪はベッドから弾かれたように飛び起きた。
(どうする? 私が動けば、確実に政府の施設に侵入したことがバレる。白百合の盾に迷惑がかかるし、何より私が独自の行動を取っていることが由鶴に知られてしまう)
トップエースとしての立場。そして、零を守るための嘘。
それらを全て天秤にかけた上で。
「……それでも、見過ごせるわけないじゃない!」
緋雪は、迷うことなく白百合の制服を身に纏い、氷の太刀を手に取った。
これは、ゴーストのシナリオでも、白百合の任務でもない。羽衣緋雪という一人の人間としての、本気の救出行動だった。
政府・第7メンテナンス施設。
都心の地下深くにあるその施設は、厳重なセキュリティと、ダインスレイブを装備した特務兵によって守られていた。
その最深部。手術台のような冷たい台の上に、白鳥が拘束具で固定されていた。彼女の頭部には無数の電極が取り付けられ、完全消去の処置を待つばかりとなっている。
「……処置開始まで、あと五分。ジェネレーターの出力を最大にしろ」
白衣を着た研究員が、冷酷に指示を出す。
白鳥の虚ろな瞳からは、ただ一筋の涙が静かに零れ落ちていた。
まさにその時。
施設全体を揺るがす、凄まじい轟音が地上から響き渡った。
「な、何事だ!?」
「地上の防衛線が……突破されました! 福音の鐘、星監、両組織の大規模な部隊が、施設の外郭を同時に強襲しています!」
警報が鳴り響く指揮所に、悲鳴に近い報告が飛び交う。
地上では、この日を待っていたかのように、福音の鐘と星監の精鋭たちが政府の防衛網へと牙を剥いていた。
「……捕らわれた同胞たちの、報復の時ですわ」
聖光の剣を掲げたルディア・ロンディニウムが、荘厳な光をまとって特務兵の防衛線を切り裂く。
「政府の玩具工場、根こそぎ潰させてもらうわよ」
紫電を纏うヴィクトリア・ローゼンベルグが、剣を一閃し、次々と迎撃部隊を薙ぎ払っていく。
隠密部隊にかつての仲間や部下を捕らわれ、傷つけられた二大組織の怒りは、政府の想定を遥かに超える規模の総攻撃となって噴出していた。
地上の攻防に施設全体の防衛リソースが一気に引き寄せられ、地下メンテナンス区画の警備は、皮肉にも大きな穴を空けることとなった。
——パキィィィンッ!!!
突如、メンテナンスルームの分厚い強化ドアが、凄まじい冷気によって内側から凍りつき、粉々に砕け散った。
「なっ!? 何者だ!」
警報が鳴り響く中、砕け散った氷の向こうから、絶対零度の冷気を纏った一人の少女が姿を現した。
氷のトップエース、羽衣緋雪。
彼女の瞳には、かつてないほどの激しい怒りと、友を救うという絶対の決意が宿っていた。
「……私の友達に、汚い手で触らないで」
緋雪が氷の太刀を一閃すると、室内の温度が一気に急降下し、研究員たちが悲鳴を上げて凍りついた床に倒れ込んだ。
「侵入者だ! 対象は魔法少女! ダインスレイブ構え!」
駆けつけてきた特務兵たちが、一斉に魔力無効化兵器を構えて緋雪を取り囲む。
(魔力は無効化される。まともに撃ち合えば不利……! でも、地上の混乱のおかげで、こちらに割ける人数はそう多くないはず……!)
緋雪は、地上の襲撃によって手薄になった守備の隙を的確に突き、体術と最小限の魔力で特務兵たちを次々と無力化していった。
「くっ……この人数で、たった一人にッ……!」
特務兵の一人が膝を突いたところで、緋雪は一気に手術台へと駆け寄り、白鳥を拘束していた金具を氷の刃で精密に切断した。
「白鳥さん! しっかりして!」
緋雪が抱き起こすと、白鳥は焦点の合わない目で緋雪を見つめた。
「……はごろも、さん……?」
「ええ、私よ。遅くなってごめんなさい」
しかし、白鳥の首元の呪符が激しく明滅し、彼女は苦悶の声を上げた。
「くっ……あぁぁっ! あたまが、割れる……!」
(この呪符が、白鳥さんの脳を焼こうとしている……! でも、無理に剥がせば命に関わる!)
緋雪は覚悟を決め、白鳥の首元の呪符にそっと手を当てた。
極低温の『絶対氷結』の魔力を、極限まで緻密にコントロールして流し込む。
呪符の術式そのものを完全に破壊するのではなく、その機能を『凍結』させ、一時的に停止させる応急処置。
ピタリ、と呪符の明滅が止まり、白鳥の呼吸が穏やかなものへと変わった。
「……成功、した。でも、これじゃあ一時しのぎに過ぎない。完全な解放には、もっと根本的な技術の解析が必要ね」
緋雪は白鳥をしっかりと抱き抱え、地上の激しい戦闘の轟音を遠くに聞きながら、崩壊しつつある施設から脱出を図った。
数時間後。
作戦指令室のモニター越しに、政府の施設が福音の鐘と星監の大規模な合同襲撃を受け、地下メンテナンス施設まで一部が半壊したという報告を受けた由鶴は、眉根を寄せて画面を睨みつけていた。
「……福音の鐘と星監が、政府の施設を正面から強襲……。同時刻に、緋雪が独自にメンテナンス施設へ侵入し、隠密を一人救出……」
由鶴の緻密な計算式の中で、二つの事象がどう繋がるのか、あるいは繋がらないのかを慎重に検討する。
(これは、偶然の一致でしょうか。それとも、裏社会側が『捕らわれた同胞への報復』として独自に動いた、その混乱に緋雪が乗じただけなのか……)
福音の鐘と星監が隠密部隊によって仲間を傷つけられていたことは、由鶴もすでに把握している。二大組織が報復に出ること自体は、不自然な話ではない。
だが、そのタイミングがあまりにも緋雪の単独行動と重なりすぎていた。
「……緋雪が、事前にこの襲撃計画を知っていた? いえ、それとも、ただ運が良かっただけなのか」
由鶴の胸の内で、確信に変わりつつあった「緋雪とゴーストの共犯関係」という疑惑が、判断材料の増加によってかえって揺らぎ、輪郭を失っていく。
「……分からない。裏社会が、何を考えて動いているのか。緋雪が、どこまで真実を知っているのか」
由鶴の呟きは、誰の耳にも届かない。
しかし、独自に動いた裏社会の報復と、一人の少女の本気の救出行動が偶然にも重なったこの夜は、国家の陰謀に痛烈な一撃を与えると同時に、白百合の内部に向けられた疑惑の目を、皮肉にも大きく揺さぶる結果となったのだった。




