第百九十三話
東京湾を一望できる、放棄された超高層ビルの最上階。
かつては富裕層向けの展望レストランだったその場所は、今では骨組みとひび割れたガラスだけが残る、荒涼とした廃墟と化していた。
地上数百メートルの高さから吹き込む冷たい夜風の中、世界を裏側から支配する二人の女が、豪奢なアンティークのテーブルを挟んで対峙していた。
「……政府の『隠密』部隊に対する、福音と星監の共同迎撃網の構築。大枠はこれでよろしいですわね」
福音の鐘のトップ、ルディア・ロンディニウムが、羊皮紙の地図に赤いインクで印をつけながら、冷ややかな黄金の瞳を細めた。
「ええ、異論はないわ。情報共有の暗号化プロトコルも、すでに星監の技術班に統合させてある。……まさか、あなたとこんな風に膝を突き合わせて、軍議を開く日が来るなんてね」
星監の指導者、ヴィクトリア・ローゼンベルグが、パラソル型のステッキを弄びながら、妖艶な笑みを浮かべて紅茶のカップを傾けた。
二大組織による、本気の同盟。
これまで互いの組織を削り合ってきた不倶戴天の敵同士が、共通の敵である『国家の暗部』を前に、完全に牙を揃えていた。
だが、その張り詰めた空気を、突如として圧倒的な『闇』が塗り潰した。
「——ずいぶんと、楽しそうなお茶会ね、私も混ぜてもらえるかしら?」
二人の足元の影が、まるで底なしの沼のように広がり、そこから一人の少女が音もなくせり上がってきた。
豪奢なフリルとリボンをあしらった漆黒のゴシックドレス。夜の闇よりもなお深い黒髪と、透き通るような白磁の肌。そして、冷酷に輝く瞳。
「ゴ、ゴースト様……ッ!?」
ルディアが、紅茶のカップをひっくり返しそうになるのをすんでのところで堪え、弾かれたように立ち上がってその場に傅いた。
「……っ!」
ヴィクトリアもまた、優雅な態度の裏で心臓を激しく跳ねさせ、ステッキを置いて深く頭を下げた。
無理もない。
これまでは、ルディアやヴィクトリアの方から、ゴーストのエージェント(神使)である三神零を介して、あるいは偶然の遭遇によってしか言葉を交わすことができなかったのだ。
最強の死神が、自らの意思で、彼女たちの軍議の場に直接顕現した。その事実は、二人の裏社会のトップに、これまでにないほどの戦慄と身の引き締まるような緊張感を与えた。
「面を上げなさい。今日は、あなたたちの祈りを聞きに来たわけじゃないわ」
ゴースト——三神零は、女性特有の凛とした、底知れない声音で告げた。
内心では「二人の凄みが半端じゃなくて胃が痛い」と冷や汗を流していたが、絶対にそれを表に出すわけにはいかない。彼は今、盤上を動かす『冷酷な支配者』を完璧に演じ切らなければならないのだ。
「ゴースト様御自ら、我らの場に降臨されるとは……。もしや、我らの共同作戦に、何か御不満がございましたでしょうか」
ルディアが、恍惚と畏怖の入り混じった声で尋ねる。
「不満はないわ。ただ、少しだけ『手直し』をさせてもらう」
ゴーストは、二人の間にあるテーブルの端に腰を下ろし、紫水晶の瞳で彼女たちを見下ろした。
「政府の暗部が、あなたたちの制圧に『新生・魔法少女協会』のエースたちを差し向けてくる。その情報は掴んでいるわね」
「はい。周防凛花をはじめとする、協会の犬どもが前線に投入される手はずとなっております」
ルディアが頷く。
「その作戦において。——協会のエースたちには、可能な限り死者を出さないこと。これが、私からの最初の条件よ」
その言葉に、ルディアとヴィクトリアは僅かに目を見開いた。
「……協会の魔法少女を、殺してはならないと?」
ヴィクトリアが、怪訝そうに眉をひそめる。
「彼女たちは、政府に飼われたとはいえ、我々裏社会の脅威となる存在。それを無傷で帰せとおっしゃるの?」
「勘違いしないで」
ゴーストは、冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「私が殺すなと言っているのは、あくまで『協会のエースたち』よ。彼女たちの背後で糸を引く政府の人間、そして自我を消去された『隠密』部隊の連中は、容赦なく叩き潰して構わない」
ゴーストは、ゆっくりと立ち上がり、ビルの縁へと歩み寄った。眼下には、光の海のような東京の夜景が広がっている。
「……これは、私の『神託』ではないわ。あなたたちへの、対等な『共闘の提案』よ。あなたたちの誇りと矜持にかけて、私と共に、この盤上で踊ってもらいたいの」
信仰の対象として一方的に命じるのではなく、対等なパートナーとしての共闘の要請。
その言葉の重みに、ルディアは感極まったように両手を組み、打ち震えた。
「ああ……! ゴースト様御自ら、我々に作戦行動を共にせよと仰ってくださるのですね……! このルディア・ロンディニウム、魂の底から歓喜しておりますわ。あなたの御心のままに、盤上を美しく血で彩ってみせましょう!」
狂信的な教祖が歓喜の涙を流す一方で。
星監のトップであるヴィクトリアは、パラソルを杖のように突き、現実主義者としての鋭い視線をゴーストに向けた。
「……あら。ようやくあなたも、神棚から降りて、本気で盤面に関わる気になったのね」
ヴィクトリアの唇の端が、不敵に吊り上がる。
「いいわ。最強の死神の提案となれば、無下に断る理由はない。……ただし、こちらにも相応の『見返り』は頂戴するけれど?」
その言葉に、空気が一瞬で凍りついた。
ルディアが「不敬ですわよ、泥棒猫!」と殺気を放つが、ゴーストは片手でそれを制した。
(やっぱり、ヴィクトリアさんは一筋縄じゃいかないな……)
零は内心で苦笑しながらも、ゴーストとしての威厳を崩さずにヴィクトリアを見据えた。
「見返り? 星監のトップともあろう者が、私に何を要求するというの」
「簡単なことよ」
ヴィクトリアは、妖艶な流し目を送った。
「この作戦が成功し、政府の野犬どもを片付けた暁には……あなたの『エージェント』である三神零くん。彼と丸一日、誰にも邪魔されないデートの時間を頂戴するわ。もちろん、あなたの許可を得た上でね」
「……は?」
思わぬ要求に、零は素の声を漏らしそうになるのを必死で堪えた。
(で、デート!? 俺と!? なんでそんな要求が出てくるんだ!?)
ルディアがギリッと奥歯を鳴らす。
「抜け駆けは許しませんわよ! それならば、わたくしにも三神くんと過ごす安息の時間を要求いたします!」
「あら、あなたの教団なんて関係ないわ。これは星監とゴースト様の直接取引よ」
(なんで俺の休日が、国家規模の軍事作戦の報酬になってるんだ……)
零は胃の痛みを覚えながらも、ここで狼狽えるわけにはいかない。
「……いいでしょう。私の『彼』の時間が欲しければ、この作戦、完璧に成功させてみせなさい」
ゴーストは、あえて傲慢に言い放ち、強引に話を作戦の具体的な戦術へと戻した。
「作戦の輪郭はこうよ」
ゴーストは、テーブルの上の羊皮紙の地図を指差した。
「政府は、協会を前面に押し出して、あなたたちの拠点を襲撃させる。……あなたたちは、その襲撃に対して、あえて『苦戦している演技』を協会側に見せなさい」
「苦戦の、演技……?」
ルディアが首を傾げる。
「ええ。政府の狙いは、協会とあなたたちが疲弊したところに、魔力を無効化する『隠密部隊』を投入し、一網打尽にすることよ。だから、あなたたちが『協会相手に全力を出している』と政府に誤認させれば、彼らは必ず増援として隠密部隊を送り込んでくる」
ゴーストの紫水晶の瞳が、冷徹な光を帯びる。
「そこを、叩くのよ」
ゴーストは、地図上の幾つかの幹線道路や、侵入経路となる裏路地に印をつけた。
「隠密部隊の増援ルートは、事前に私が割り出しておく。あなたたちは、前線で協会と戦っているフリをしながら、裏社会の精鋭をこれらのルートに伏兵として配置しなさい。そして、空間隔離の結界を用いて、隠密部隊と協会のエースたちを完全に『分断』するの」
「なるほど……。協会を肉の盾として前線に釘付けにしている間に、我々の別働隊が、政府の本命である隠密部隊を各個撃破するというわけね」
ヴィクトリアが、感心したように息を漏らした。
「その通りよ。協会には『裏社会は手強かった』と思わせて撤退させ、隠密部隊と政府の指揮官だけを確実な死地へと誘い込む。これが、私の描いたシナリオよ」
これまでは「神使」が、ゴーストの意思を代弁していると思われていた。
しかし今回ばかりは、零自身が、二つの巨大組織の戦力を直接指揮し、盤上の駒として動かしている。
表舞台に出ないことを決意した少年が、最強の死神という仮面を被ったまま、知略をもって国家の陰謀を打ち砕こうとしているのだ。
「……素晴らしい戦術ですわ、ゴースト様。我々福音の処刑人たちは、政府の隠密どもを一人残らず神の裁きにかけてご覧に入れます」
「星監のエージェントも、ダインスレイブへの対策は済んでいるわ。……あなたと三神くんへの『貸し』、高くつかせてもらうわよ」
ルディアとヴィクトリアが、それぞれ確かな殺意と闘志を瞳に宿して頷いた。
作戦の伝達を終え、ゴーストは自身の足元に再び影の沼を展開した。
漆黒のドレスが、闇の中へとゆっくりと沈んでいく。
「……最後に、もう一つだけ釘を刺しておくわ」
ゴーストは、肩越しに冷たい視線を二人に向けた。
「くれぐれも、殺しを止めはしないけれどやりすぎないように。協会の連中はもちろん、隠密の少女たちも、できる限り生け捕りにしなさい」
「……それは、ゴースト様の慈悲でしょうか?」
ルディアの問いに。
ゴーストは、ふっと自嘲気味な、しかし極めて冷酷に見える笑みを浮かべた。
「これは、慈悲でもなんでもない。ただの——盤面を汚さないための、計算よ。血の匂いは、次なる野犬を引き寄せるだけだからね」
誰も死なせたくない。
恩人の妹も、かつて魔法少女だった哀れな隠密たちも、全てを救いたい。
その血を吐くような本音を、『冷酷な計算』という完璧な仮面で覆い隠し、零は闇の中へと姿を消した。
残された廃ビルの屋上で、ルディアとヴィクトリアは、ゴーストが消えた空間に向かって深く一礼した。
「……やはり、ゴースト様は底知れぬお方ですわ」
「ええ。盤面を完全に支配し、生殺与奪の権を握りながら、あえて血を流さないことを選ぶ。……これこそが、真の絶対者の余裕というものね」
勘違いと狂信は、ここに極まっていた。
こうして、政府の暗部に対する、裏社会の二大トップと最強の死神による『神使の指令(反逆のシナリオ)』が、静かに、そして確実に動き出したのである。




