第百九十二話
週末の駅前商店街は、うららかな陽気に誘われた大勢の買い物客で賑わっていた。
どこかの店先から流れる流行のポップス。すれ違う学生たちの笑い声。特売を知らせる威勢の良い呼び込みの声。
つい数日前、湾岸エリアの廃工場で血を洗うような死闘が繰り広げられたことや、国家と裏社会が全面戦争の準備を進めていることなど微塵も感じさせない、圧倒的で無自覚な『平和』がそこには広がっていた。
「……よし。玉ねぎとジャガイモはこれで確保、と。あとは卵と……」
三神零は、両手に提げたスーパーのエコバッグの重みを感じながら、スマートフォンのメモ帳にチェックを入れていた。
彼が今身を置いているのは、どこにでもある平凡な休日の風景だ。誰もが彼を、夕飯の買い物袋を提げた、少し家庭的な普通の男子高校生だとしか思っていない。彼が裏社会の頂点に君臨する『最強の死神』であり、数日前に白百合のトップエースである羽衣緋雪と死闘を演じた張本人であることなど、すれ違う何百人のうち、誰一人として想像すらしていない。
(……この平和な日常を、絶対に守り抜く。そのためには……)
零はエコバッグを持ち直し、深く息を吐いた。
昨夜、ルディアから聞かされた情報が、鉛のように胃の底に沈んでいる。
政府は裏社会の二大組織——福音の鐘と星監を殲滅するため、そして同時に『ゴーストの弱点』を炙り出すために、新生・魔法少女協会のエースたちを最前線に投入しようとしている。
その中には、零の恩人である周防凛音のたった一人の妹、周防凛花が含まれているのだ。
(凛花さんを、あんな理不尽な死地に立たせるわけにはいかない。でも、俺がゴーストとして助けに入れば、御子柴の思惑通り『協会とゴーストの内通』を証明することになってしまう。そうなれば、凛花さんは政府から反逆者として処分される……)
八方塞がりだった。
動けば彼女を破滅させ、動かなければ彼女を死なせる。
その残酷なジレンマをどう打ち破るべきか、零の頭の中は昨晩からそのことばかりで埋め尽くされていた。
その時だった。
考え事に没頭するあまり、人混みの中で向かいから歩いてきた自転車を避けようと、零が咄嗟にステップを踏んだ瞬間のことだ。
——ビリッ。
安売りの玉ねぎと、特売のじゃがいもを詰め込みすぎたのかエコバッグが、無情にも破けた。
「あ……っ!」
ゴロゴロと、商店街のアスファルトに転がっていくじゃがいもや玉ねぎ。
最悪のタイミングでの失態に、零は慌ててしゃがみ込み、散らばった野菜を拾い集めようとした。
「あっ、危ないわよ。手伝うわ」
不意に、頭上から鈴を転がすような、凛とした少女の声が降ってきた。
零の足元に転がってきたじゃがいもを、細く白い手が器用に拾い上げ、零が広げたエコバッグの中へと丁寧に入れてくれる。
動きやすいショート丈のデニムジャケットに、シンプルな白いカットソー。艶やかな黒髪を肩口で切り揃えた、同年代の少女。
「すみません、助かりまし……た……」
零が顔を上げ、お礼を言おうとしたその言葉は、途中で完全に凍りついた。
目の前で「いいのよ、気にしないで」と微笑んでいる少女。
その勝気でありながらも、どこか影を落としたアーモンド型の瞳。
間違いない。彼女は、新生魔法少女協会のトップエース——周防凛花、その人だった。
(凛花、さん……!?)
零の心臓が、早鐘のように激しく鳴り始めた。
当然だが、凛花と零は「直接の面識」は一切ない。
零にとって、彼女は命の恩人である凛音の妹であり、陰ながらずっと見守り、そしてゴーストとして一度だけ命を救った相手だ。
しかし凛花にとって、目の前にいる『三神零』という少年は、たった今スーパーの袋を破いてしまった、ただのドジな同年代の一般人に過ぎない。ゴーストの正体であることも、姉の知人であることも、彼女は何も知らないのだ。
「はい、これでおしまい。重いものは下に入れた方が破けにくいわよ」
「あ……えっと……ありがとうございます。本当に、助かりました」
零は激しい動揺を必死に押し殺し、努めて『ただの高校生』としてのトーンで頭を下げた。
「ふふっ、玉ねぎにジャガイモね。今夜はカレーかしら? 家庭的でいいわね」
凛花が、少しだけ疲れたような、けれど優しい笑顔を向ける。その表情の作り方が、かつての凛音にあまりにも似ていて、零の胸が締め付けられるように痛んだ。
「あの……お礼、させてください。そこの自販機で、何か飲み物でも」
零は、少しでも彼女の今の状態を知りたくて、思わずそう提案していた。
「え? いいわよ、そんな。じゃがいも拾ったくらいで」
「いえ、俺の気が済まないので。少し休んでいきませんか。なんだか……お疲れのようだったので」
零のその言葉に、凛花は一瞬だけ目を丸くし、やがて自嘲気味に小さく息を吐いた。
「……そうね。見ず知らずの人に奢ってもらうのもアレだけど……ちょうど、少しだけ誰かと話したい気分だったのかも」
商店街の脇にある、小さな公園のベンチ。
零は自販機で買った温かいミルクティーを凛花に手渡し、自分はブラックの缶コーヒーを開けた。
「ありがとう。……ふぅ、温かい」
凛花はベンチに深く腰掛け、ミルクティーの缶を両手で包み込むようにして息をついた。その横顔は、先ほどの勝気な雰囲気から一転して、ひどくアンニュイで、ギリギリの糸で張り詰めているような危うさがあった。
「今日は、お休みなんですか?」
零が、あくまで「偶然出会った一般人」としての距離感を保ちながら尋ねる。
「ええ、まあね。久々の完全オフ。……でも、頭の中は仕事のことばっかりで、全然休まらないのよね」
凛花は苦笑いしながら、空を見上げた。
「みんな、今日のお昼ご飯のこととか、明日のデートのこととか、そういう当たり前のことだけを考えて笑ってる。……その当たり前を守るのが、私の……私たちの仕事なんだけどね」
その言葉の重みに、零は缶コーヒーを持つ手を微かに強張らせた。
彼女は、自分が今、政府の思惑によってどれほど巨大な陰謀の渦中に立たされているのか、おそらく完全には理解していない。新生協会という政府の息がかかった組織の中で、ただ純粋に「市民を守る」という正義感だけで、最前線に立とうとしているのだ。
「……大変な、お仕事なんですね」
零が慎重に相槌を打つと、凛花は視線を落とし、ミルクティーの缶を見つめた。
「大変なんてもんじゃないわ。最近、上司からの要求がどんどん過激になってる。……市民を危険から守るだけじゃなくて、もっと別の……『社会の敵』を排除するための訓練やブリーフィングばかり」
社会の敵。
それは間違いなく、福音の鐘や星監といった裏社会の組織、そして他でもないゴーストのことだろう。
零の心臓が、嫌な汗とともにドクンと跳ねた。
「……無理は、しないでくださいね。あなたが倒れたら、悲しむ人がいるはずですから」
「ふふ、優しいのね、君は。……でも、無理をしないといけない時もあるのよ。近いうちに、とても大きな……それこそ、私の存在意義が問われるような、大規模な作戦があるの。それが終わるまでは、倒れるわけにはいかないわ」
凛花は、真っ直ぐに前を見据えた。
その瞳の奥には、かつて姉の凛音が持っていたのと同じ、自己犠牲すら厭わない強烈な『正義の炎』が宿っていた。
「私にはね、目標にしてる人がいるの。……もう、亡くなっちゃったんだけど」
凛花が、ぽつりとこぼす。
「その人は、誰よりも優しくて、誰よりも強かった。私は、その人の代わりにはなれないかもしれないけれど……その人が命を懸けて守りたかったこの街の平和を、私が引き継ぎたいの。絶対に、汚させたりしない」
「……」
「だから、次の作戦は絶対に失敗できない。上層部の期待に、完璧に応えてみせるわ。……ごめんね、見ず知らずの君にこんな重い話をして。ただの愚痴だと思って聞き流して」
何も分かっていないわけがない。
むしろ、この世界で誰よりも、その『任務』の裏にある絶望的な真実を理解しているのが、目の前に座る少年だった。
(凛花さんは、政府に騙されている。彼女の純粋な正義感は、御子柴たちにとってはただの『ゴーストを釣るための撒き餌』でしかないんだ……!)
零の胸の奥で、激しい怒りと悲しみが渦巻いた。
今ここで、「その作戦には参加するな」「政府はあなたを裏社会との戦争の捨て駒にしようとしている」と叫ぶことができたら、どれほど楽だろうか。
しかし、できない。
一般人であるはずの少年が、なぜそんな国家の最高機密を知っているのか。それを説明するためには、自分がゴーストであることを明かすしかない。
もし凛花に正体を明かせば、正義感の強い彼女は「姉の意志を継ぐ自分が、憎むべき裏社会の総帥と会話していた」という事実に深く混乱し、最悪の場合は政府の監視網に気づかれ、凛花自身が『ゴーストの接触者』として処分される可能性がある。
(言えない。……俺は、見ず知らずの他人のふりをしたまま、彼女を止めるしかないんだ)
ベンチの上で、零は自分の太ももを、見えないように強く握りしめた。
「……あの」
零は、震えそうになる声を必死に抑え込み、努めて真っ直ぐに凛花の目を見た。
「俺は、あなたの仕事の詳しいことは何も分からないし、ただの通りすがりの高校生ですけど。でも、一つだけ言わせてください」
凛花が、驚いたように零を見つめ返す。
「あなたが目標にしているその人は……きっと、あなたが自分の意志を継いで立派に戦うことよりも、あなたが無茶をして傷つくことの方を、ずっと悲しむと思います」
「え……」
「だから……生きて、帰ってきてください。自分の命を、誰かの期待や大義のために、安売りしないでください。……絶対に」
その言葉は、ゴーストとしての威厳でもなく、計算された演技でもなく。
ただの『三神零』という一人の少年の、血を吐くような魂の叫びだった。
凛花は、初対面の少年のそのあまりにも真剣で、どこか悲痛な眼差しに息を呑んだ。
彼がなぜ、そこまで必死な顔で自分を引き留めようとするのか、彼女には分からない。けれど、その言葉の奥にある圧倒的な「優しさ」と「切実さ」が、彼女の冷え切っていた心を、芯から温めていくのを感じた。
「……ありがとう。君、本当に変な人ね」
凛花は、ふっと憑き物が落ちたように、今日一番の自然な笑顔を浮かべた。
「でも、少しスッキリしたわ。君の言う通りね。私は私の命を大事にしながら、ちゃんと自分の正義を貫いてみせる。……温かいミルクティー、ごちそうさま。じゃがいも、落とさないように気をつけてね」
凛花はベンチから立ち上がり、軽く手を振って公園を出て行った。
名前も知らないまま、再び他人の境界線へと戻っていく。
「……気をつけて、凛花さん」
零は、小さく呟いてその背中を見送った。
雑踏の中へと消えていく、華奢な少女の背中。
彼女はこれから、自分の正義を信じたまま、政府の用意した無慈悲な死地へと歩みを進めていくのだ。
一人残された公園のベンチで、零は冷めた缶コーヒーを見つめながら、静かに、しかし絶対の決意を固めていた。
(……ゴーストとして表舞台に出て、彼女を救えば、彼女は社会的な死を迎える。だからといって、このまま見殺しにするなんて絶対にできない。……なら、どうする?)
零の頭脳が回転を始める。
政府(御子柴)の狙いは、「ゴーストが協会(周防凛花)を特別扱いして助けに現れること」を証明し、協会を裏社会と内通する組織として掌握、あるいは処分する口実を作ることだ。
そして由鶴の監視網は、「白百合の盾(緋雪たち)とゴーストの繋がり」を血眼になって探している。
どちらの監視網にも引っかからず。
ゴーストが直接手を下したという証拠を残さず。
政府の『隠密』部隊による協会への奇襲を打ち砕き、凛花を救う方法。
(……俺が『ゴースト』として動くのがダメなら。俺以外の『何か』が、政府の陰謀を盤上ごと叩き潰せばいい)
零の紫水晶の瞳の奥に、仄暗い、しかし強烈な意志の光が宿った。
それは、これまで「圧倒的な力」だけで全てをねじ伏せてきた死神が、初めて知略と盤外戦術を用いて、国家の罠を逆手に取ろうと思いついた瞬間だった。
(ルディアさん。ヴィクトリアさん。……あんたたちの『本気の同盟』、少しだけ俺の都合のいいように利用させてもらうよ)
世界を二分する裏社会の狂信者たち。
彼女たちは、ゴーストという存在を絶対の神と崇めている。ならば、神として直接手を下すのではなく、神の『意志』として彼女たちを盤上で踊らせることはできないか。
協会を殺させず、かつ政府の隠密部隊だけを的確に殲滅させるための、完璧なシナリオ。
「……必ず、全てを守り抜いてみせる」
誰にも届かない呟きは、秋の涼しい風の中に溶けて消えた。
交わらない誓いを胸に秘め、三神零はエコバッグを提げたまま、再び平和な日常の風景の中へと歩き出した。
これから始まる未曾有の三つ巴の戦局——政府、協会、裏社会、そして白百合の盾が入り乱れる最悪の戦場において。
表舞台に出ないことを決意した最強の死神は、誰にも見えない暗闇の中で、国家の喉元に噛みつくための冷酷な『反逆のシナリオ』を書き始めていた。




