第百九十一話
深夜の静寂に包まれた、白百合の盾が提携する総合病院の特別病棟。
消毒液の微かな匂いが漂う薄暗い病室の床に、音もなく真っ黒な影の沼が広がった。
空間跳躍による『影移動』を用いて、誰にも見つかることなく病室に侵入したのは、豪奢な漆黒のドレスに身を包み、夜の闇よりも深い黒髪をなびかせたゴーストである。
変身しなければ魔法を使うことができないため、彼女はこの姿で病院の厳重なセキュリティをすり抜けてきたのだ。
ゴーストは、冷たく輝く紫水晶の瞳で鋭く病室内を警戒した。
ベッドに腰掛けている緋雪以外に誰もいないこと。そして、白百合の情報班である由鶴が仕掛けたかもしれない隠しカメラや盗聴器といった、あらゆる監視の目も存在しないことを、極めて慎重に、完全に確認する。
安全が確保されたと判断した次の瞬間、ゴーストの身体を包んでいた黒い魔力がフッと霧散し、元の私服姿の少年——三神零へと戻った。
「……緋雪さん」
ベッドの上で身を起こしていた少女に、零はそっと、安堵と緊張の入り混じった声で呼びかけた。
月明かりに照らされた羽衣緋雪は、普段の凛とした制服姿ではなく、無機質な白い病衣を纏っていた。その首筋や腕には、痛々しい包帯やガーゼが当てられている。
数日前、廃工場エリアでゴーストが放った『闇の衝撃波』による負傷の痕だ。
「零くん……。わざわざ来てくれたのね。見つからなかった?」
「うん。ゴーストの姿で影を伝ってきたから大丈夫。……それより、体の具合はどう?」
零はベッドの脇に置かれた丸椅子に腰を下ろし、持参した小さな保温ジャーをサイドテーブルに置いた。中には、緋雪が少しでも食べやすいようにと、生姜を効かせた温かい特製の鶏団子スープが入っている。
「ふふ、ありがとう。打撲と魔力枯渇だけだから、もうすっかり平気よ。明日には退院して、現場にも復帰できるわ」
緋雪は安心させるように微笑んだが、零の瞳には深い自責の念が暗い影を落としていた。
「……ごめん。いくら由鶴さんの監視の目を誤魔化すためとはいえ、本当に、緋雪さんを傷つけてしまって。」
零がギュッと拳を握りしめ、うつむく。
いくら手加減をしたとはいえ、愛する人を自分の手で吹き飛ばし、瓦礫に叩きつけた感触は、零の手のひらに呪いのようにこびりついて離れなかった。
そんな零の震える手を、緋雪の白く細い手がそっと包み込んだ。
「謝らないで、零くん。これは、私が自分で選んだことよ」
緋雪の紫水晶の瞳が、真っ直ぐに零を射抜く。
「それにね。瓦礫にぶつかる直前、私の背中を包み込んでくれた柔らかい重力……零くんが手加減の中に隠してくれた優しさ、ちゃんと分かっているから。だから、あんなに派手に吹き飛ばされたのに、骨一つ折れていないのよ」
「緋雪さん……」
「トップエースとしての私の誇りにかけて、あの場は本気で戦う必要があった。そうじゃなきゃ、由鶴を……情報班の鋭い目を欺くことなんてできなかったわ」
緋雪は、零の手を自分の頬に寄せ、愛おしそうに目を細めた。
秘密を共有する共犯者としての、確かな絆。表社会の光と裏社会の闇に分かたれていながらも、二人の心は誰よりも強く結びついていた。
しかし、穏やかな沈黙の後。
緋雪の表情に、ふと微かな不安の影が落ちた。
「……でも、少しだけ怖い時があるの」
「怖い?」
「ええ。この先もずっと、こういう『本気の演技』を続けられるか分からないから。……今回は上手くいったわ。でも、政府の動きも、裏社会の動きも、日に日に激しさを増している。いつか、本当に取り返しのつかない状況で、零くんと本気で刃を交えなきゃいけなくなる日が来るんじゃないかって」
緋雪の震える声に、零はハッとした。
自分は「表舞台に出ない」という選択をしたことで、緋雪を守れると思っていた。しかし、それは同時に、緋雪に「ゴーストを敵として憎む白百合のトップエース」という過酷な仮面を被せ続けることを意味している。
持続不可能な嘘。いつか破綻するかもしれないという恐怖を、彼女は一人で抱え込んでいたのだ。
「……絶対に、そんな日は来させない」
零は、緋雪の手を強く握り返した。
「俺が、根本からこの事態を解決する糸口を見つける。緋雪さんにも、白百合の皆にも、二度とあんな思いはさせないよ」
「……うん。信じてるわ、零くん」
月明かりの下、二人は互いの温もりを確かめ合うように、静かな時間を過ごした。
しかし、そのかりそめの平穏が、すでに新たな戦火によって脅かされつつあることを、零はこの直後に思い知らされることとなる。
緋雪の見舞いを終え、病院から少し離れた深夜の公園。
自宅へと歩を進めていた零の足が、ピタリと止まった。
街灯の光が届かない木立の陰。
そこに、見慣れたポップコーン売りの変装でも、清掃員の姿でもない、豪奢なドレスを纏った一人の女性が佇んでいた。
福音の鐘のトップ、ルディア・ロンディニウム。
彼女はいつものような、ゴーストに対する陶酔しきった熱狂的な態度は鳴りを潜め、極めて冷徹で真剣な表情を浮かべていた。
「……ルディアさん」
「夜分遅くに申し訳ありません、三神くん」
ルディアは、静かに一礼した。
「折り入って、あなたのお耳に入れておきたいことがございますの。……いえ、ゴースト様の『神使』であるあなたには、知っておいていただく義務があると言うべきかしら」
そのただならぬ空気に、零は警戒心を強めながらも頷いた。
「何があったの?」
「先日お伝えした通り、我ら福音の鐘と、ヴィクトリア・ローゼンベルグ率いる星監は、政府の『隠密』という共通の敵に対し、本気の同盟を結びましたわ」
ルディアの黄金の瞳が、夜の闇の中で鋭く光る。
「すでに水面下で、幾度か隠密部隊との交戦が発生しております。我々も無傷ではありませんが、政府側にも相当な損害を与えました。……しかし、政府の暗部は、隠密部隊だけでは我々裏社会の二大組織を制圧するには『頭数が足りない』と判断したようですの」
「頭数が足りない? じゃあ、どうするつもりなんだ……」
「ええ。そこで政府は、新たな駒を盤上に投じるつもりのようですわ。……次は、我々の制圧に『魔法少女協会』のエースたちを差し向けるという情報を掴みました」
その言葉に、零の呼吸が止まった。
「協会の……エース……!?」
魔法少女協会。
かつては白百合の盾と並び称された防衛組織であり、現在は政府の強力なテコ入れによって新体制へと移行している。
そして何より、その最前線に立っているのは。
「まさか……」
「ご想像の通りですわ、三神くん。周防凛花さんをはじめとした、新生協会のトップクラスの戦力が、我々裏社会の殲滅のために前線へ投入される手はずとなっております」
周防凛花。
零の自身の命を救ってくれた恩人・周防凛音の、たった一人の妹。
零が「ゴースト」として戦い始めた原点とも言える大切な存在が、政府の使い捨ての駒として、死地に送られようとしている。
「なるほど」
白百合の盾には、政府から防衛協定という名の踏み絵が突きつけられていたはずだ。緋雪の機転によって直接的な加担は免れたとはいえ、政府がなぜここで協会を矢面に立たせるのか。
ルディアは、冷ややかな声でその背景を分析してのけた。
「お察しのとおり、新生協会は、前体制の崩壊後、政府の完全な後ろ盾と管理の下で再構築された組織です。つまり、白百合の盾のような世論の熱狂的な支持や、独立した資金源を持たない、政府にとって極めて『御しやすい駒』なのですわ」
ルディアはヒールを鳴らし、零の周囲をゆっくりと歩きながら続ける。
「政府の隠密部隊は確かに精鋭ですが、数が少ない。福音と星監という広範囲に散らばる巨大組織の戦力を削るには、手駒として頭数の多い協会の魔法少女を肉の盾にする方が、遥かに都合がいいのでしょう。……白百合の盾が『緩衝地帯』などという理屈で前線に出るのを拒んだ以上、政府はより扱いやすい協会を使い潰すことに決めたのですわ」
理不尽な政府の論理に、零はギリッと奥歯を噛み締めた。
しかし、ルディアの言葉はそれだけでは終わらなかった。
「……それに。もう一つ、政府には協会を動かす『理由』があるはずです」
ルディアが、ふと声を落とし、零の耳元で囁く。
「先のXデーの折。周防凛花さんが、ゴースト様に命を救われたという情報を……政府も独自に掴んでいる可能性がありますわ」
「——ッ!」
零の背筋に、氷のような戦慄が走った。
あの日、キメラ魔獣の群れから凛花を救うため、零は一瞬だけゴーストとして彼女の前に姿を現した。その事実は、白百合の情報班である由鶴の監視網には引っかからなかったはずだ。
しかし、政府の特務執行官や隠密が、別のルートでその光景を目撃、あるいは記録していたとしたら。
「お分かりですか、三神くん。政府の狙いは、我々裏社会の殲滅だけではありません。もしゴースト様が周防凛花さんを特別扱いしているのなら、彼女を死地に立たせることで、必ずゴースト様が姿を現す。……これは、ゴースト様を誘き出し、その正体や弱点を暴くための、極めて悪辣な罠ですわ」
由鶴が白百合の内部から向けている『ゴーストとエース陣の内通疑惑』という監視の目。
そして、御子柴たち政府の暗部が外側から仕掛けてきた『ゴーストと協会の接点』を暴くための罠。
二重の監視網が、零という存在を完全に包囲しつつあった。
零は、絶望的な板挟みに陥っていた。
誰も傷つけたくない。凛花を、あんな理不尽な戦いで死なせるわけにはいかない。
しかし、もし自分がゴーストとして前線に飛び出し、凛花たち協会の魔法少女を救えばどうなるか。
それは、御子柴の狙い通りに「ゴーストは周防凛花に特別な感情を抱いている」という証拠を与えることになる。結果として、協会は裏社会と通じているというレッテルを貼られ、凛花の立場は完全に失われ、最悪の場合は政府に反逆者として処分されてしまう。
動けば動くほど、大切な人たちの首が絞まっていく。
助けたいのに、助けられない。
その耐え難いジレンマに、零はギリッと拳を握りしめ、手のひらから血が滲むほどに爪を立てた。
「……ルディアさん。どうして、俺にそれを教えたんです?」
零が、絞り出すような声で問う。
福音の鐘にとって、協会は敵だ。政府に差し向けられた協会を返り討ちにすることは、彼女たちにとって何のためらいもないはずである。わざわざ零に教える義理などない。
ルディアは、妖しく、それでいてひどく真剣な微笑みを浮かべた。
「三神くんの与り知らぬところで、あなたの大切な人たちが我々と刃を交え、無惨に散っていくことになるのは……忍びありませんもの」
「……」
「それに、我々としても、政府の思惑通りに踊らされて協会と潰し合うのは本意ではありません。……決断は、あなた次第ですわ、三神くん」
ルディアは、闇に溶け込むように後退りしながら、最後に一言だけ、静かに言い残した。
「あなたがゴースト様に対してどう報告するのか……わたくし達は、ゴースト様の選択に、どこまでも付き従うだけですもの」
夜風とともに、ルディアの姿は完全に消え去った。
彼女の最後の言葉が、零の心に重く響く。
ルディアは、あくまで『ゴースト』という絶対的な信仰対象への忠誠を語っている。彼女は三神零という人間の苦悩に寄り添っているわけではない。ゴーストという神が下す冷酷な、あるいは慈悲深い決断を待っているだけなのだ。
この孤独な戦場において、零個人として本当に頼れる相手は、先ほど病室で微笑んでくれた緋雪しかいない。
しかし、その緋雪にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。彼女はすでに、白百合の盾の中で極限の嘘を背負ってくれているのだから。
一人、冷たい夜道に立ち尽くす零。
見上げれば、雲の切れ間から覗く月が、これから始まる血みどろの闘争を予言するかのように、青白く冷たい光を放っていた。
「……また、新しい戦いが始まるのか」
白百合の盾、魔法少女協会、福音の鐘と星監、そして政府の暗部。
全ての勢力が絡み合う巨大な盤上で。
静かに、しかし絶対の覚悟を胸に秘め、反撃の糸口を模索し始めていた。




