第百九十話
深夜の湾岸エリア。かつては大規模な物流拠点として栄えていたが、数年前の魔獣災害によって放棄され、今では鉄骨の残骸とコンクリートの瓦礫が延々と連なる無人の廃墟地帯となっていた。
分厚い雲が月明かりを遮る漆黒の闇の中、ひときわ異質な黒い影が、音もなく瓦礫の上を滑るように移動していた。
豪奢なフリルとリボンをあしらった漆黒のゴシックドレス。夜の闇よりもなお深い黒髪と、透き通るような白磁の肌。そして、冷たく輝く紫水晶の瞳。
裏社会の頂点に君臨すると噂される最強の死神、ゴースト——その正体である三神零は、政府の『隠密』部隊の情報を独自に探るため、今夜も密かに単独行動を取っていた。
『ギャアアアアッ!』
突如、暗闇を切り裂くような咆哮とともに、四つん這いの異形——大型の魔獣が、廃倉庫の陰から飛び出してきた。ゴーストの強大な魔力に惹きつけられて現れた、はぐれ魔獣だ。
しかし、ゴーストは歩みを止めることすらしない。
「……邪魔よ」
凛とした、底知れない女性の声音。
ゴーストが指先を軽く振るうと、目に見えない不可視の『深淵の重圧』が空間を歪めた。
メキッ、という鈍い音とともに、飛びかかってきた大型魔獣の巨体が空中でピタリと静止し、次の瞬間、凄まじい重力によってアスファルトの地面へと叩きつけられ、ひしゃげた肉塊と化した。
(はぐれ魔獣の討伐はついでとはいえ、こんな廃墟にまで出没するなんて。……やはり、最近の魔力バランスが不自然に偏っている。政府がキメラを大量発生させた影響か?)
零は内心で冷静に分析しながら、魔獣の残骸から視線を外した。
その時だった。
——背筋に強烈な氷のような悪寒を走らせた。
魔力の気配はない。
ただ、空間そのものが「殺意」という目的のためだけに最適化されたような、不自然極まりない空白。
ゴーストは咄嗟に足元の影を広げ、自身の背後を覆うように、高密度の闇魔法による絶対防壁を展開した。これまで、特級魔獣の渾身の一撃すら無傷で弾き返してきた、鉄壁の魔法障壁である。
しかし。
パキィィィンッ……!!
「なっ……!?」
ゴーストの紫水晶の瞳が、驚愕に見開かれた。
背後の暗闇から音もなく音速で突き出された漆黒の短剣が、絶対の強度を誇るはずの闇の防壁を、まるで濡れた紙か薄いガラスを割るかのように、容易く貫通したのだ。
(魔力が……『切断』された!?)
物理的な破壊ではない。短剣の刃が触れた瞬間、闇魔法を構成する魔力の術式そのものが強制的に無効化され、霧散させられたのだ。
ゴーストは反射的に上体を捻り、空間跳躍による『影移動』を試みた。
しかし、防壁を抜かれた一瞬の遅れが命取りとなる。漆黒の刃が、ゴーストのドレスの袖を掠め、白磁の肌に浅く、しかし確かな朱色の線を引いた。
「くっ……!」
ゴーストは影の中へと沈み込み、十数メートル離れた鉄骨の上に再出現した。
左腕から微かに流れる血を抑えながら、襲撃者たちを見下ろす。
瓦礫の上に音もなく降り立ったのは、三人の少女たちだった。
白百合の盾のエースたちと同年代。しかし、その瞳には一切の光がなく、ガラス玉のように虚ろだった。首元には禍々しい呪符の刺青が明滅し、両手には魔力無効化兵器『ダインスレイブ』が握られている。
(こいつらが……福音の鐘と星監を襲撃した、政府の『隠密』部隊……!)
緋雪から聞いていた情報と、ルディアからの報告が頭の中で繋がる。
魔力による防御は一切通用しない。すなわち、魔法少女にとっての『絶対の盾』が紙切れと同義になるという、最悪の天敵。
『——目標、裏社会の総帥・ゴースト。魔力波長の完全一致を確認』
『——これより、排除プロセスへ移行する』
隠密たちは、機械的な合成音声のように呟くと、三方向から同時に地を這うような神速でゴーストへと殺到した。
連携のレベルは、並の魔獣や裏社会の暗殺者とは次元が違う。感情を完全に排除し、ただ対象を『処理』するためだけに最適化された動き。
右から長刀が、左から双剣が、そして正面から短剣が、ゴーストの逃げ場を完全に塞ぐように迫る。
(防御魔法は抜かれる。なら……!)
ゴーストは、迫り来る三つの死の刃を前に、あえて防御を完全に捨てた。
迎撃の炎。
ゴーストの足元から、莫大な魔力が爆発的に膨れ上がる。
「——灰燼に帰しなさい」
ゴーストが腕を振るうと同時に、周囲数十メートルの空間を埋め尽くすほどの、紅蓮の『炎魔法』が炸裂した。
ダインスレイブは確かに魔力を無効化する。しかし、それは「刃が触れた部分」の術式を断ち切るに過ぎない。空間そのものを焼き尽くすほどの超広範囲の熱量すべてを、一本の剣で斬り裂くことなど物理的に不可能なのだ。
『……ッ!』
圧倒的な火炎の津波を前に、隠密たちは初めて回避行動を余儀なくされ、後方へと大きく跳躍した。
しかし、ゴーストの反撃はそれだけでは終わらない。
(炎で視界と退路を塞ぐ。次は——!)
炎の壁の向こう側に着地した隠密たちの足元。
そこのアスファルトが、突如として白く凍りついた。ゴーストが炎の裏に隠して放っていた『氷魔法』である。
絶対零度の冷気が、隠密たちの両足を瞬時に大地へと縫い付ける。
『——拘束を確認。ダインスレイブによる魔力切断を試みる』
隠密の一人が、足元の氷を砕こうと短剣を振り下ろした。
だが、その刃が氷に触れるよりも一瞬早く。
「——遅いわ」
彼女たちの頭上の空間が、漆黒の『闇魔法』によって完全に覆い尽くされた。
局地的に発生させた超重力の球体が、三人の隠密の頭上から隕石のように落下する。
ズドォォォォォンッ!!!
凄まじい轟音とともに、廃工場エリアの地面がすり鉢状に陥没した。
舞い上がった粉塵が晴れると、そこにはダインスレイブを手放し、重力の檻に押し潰されて気を失っている三人の隠密たちの姿があった。
「……ふぅ」
ゴーストは鉄骨からふわりと飛び降り、気を失った少女たちを見下ろした。
ダインスレイブという厄介な兵器はあっても、魔法の運用と戦術の組み立てにおいては、最強の死神の足元にも及ばなかった。
(これが、かつて魔法少女だった子たち……)
零の胸の奥が、ギリッと痛む。
彼女たちの虚ろな寝顔には、かつて誰かを守るために戦い、そして見捨てられた絶望の痕跡が深く刻まれているように見えた。
彼女たちを殺すことなどできない。政府の非道な行いを暴き、彼女たちを救う方法を必ず見つけ出す。零はそう決意し、隠密たちの首元にある呪符の刺青を調べようと手を伸ばした。
——その時。
遠くの夜空から、猛烈な速度で接近してくる複数の『強大な魔力』の気配を感じ取った。
零は咄嗟に手を引き、空を見上げた。
間違いない。情報班の由鶴のドローンか監視網が、先ほどの炎と重力魔法の大規模な魔力放出を検知し、即座に実働部隊を差し向けてきたのだ。
バサァッ!
風を切り裂き、最初に瓦礫の上に降り立ったのは、風のエース・弓飛鳥。
続いて、地響きとともに土のエース・只野真奈が、炎を纏って新堂鈴乃が着地する。
そして——最も鋭く、最も冷たい冷気を纏いながら、氷のトップエース・羽衣緋雪が、ゴーストの真正面に立ちはだかった。
作戦指令室のモニター前で、新実由鶴は息を呑んで戦況を見つめていた。
『各員、対象は裏社会の総帥・ゴーストです! 付近には政府の隠密部隊と思われる反応も倒れていますが、ゴーストの危険度はそれを遥かに凌駕します。決して油断しないでください!』
通信機から響く由鶴の緊迫した声。
現場に降り立った白百合のエースたちは、ゴーストの放つ圧倒的なプレッシャーを前に、それぞれ武器を構えて身構えた。
(……マズい。よりによって、緋雪さんたちと遭遇してしまうなんて)
零の内心には、冷や汗が流れていた。
ここで自分が少しでも手心を加えたり、親しげな態度を取ったりすれば、監視網の向こう側にいる由鶴に「緋雪たちとゴーストが裏で通じている」という決定的な証拠を与えてしまう。
特に、政府からの踏み絵を『緩衝地帯』という策で躱した直後の現在、白百合の盾への監視の目は極限まで高まっている。
(やるしかない。……容赦のない、残酷な裏社会のトップを演じきるんだ)
ゴーストは、冷酷な笑みを口元に浮かべ、紫水晶の瞳で白百合のエースたちを睥睨した。
「……あら。政府の犬どもの次は、白百合の盾のお出ましかしら。夜のお散歩の邪魔ばかりで、本当に鬱陶しいわね」
その声は、空気を凍らせるほどに冷たく、傲慢な響きを持っていた。
「ゴースト……! こんな街外れで、一体何を企んでいるの!」
飛鳥が、白銀の長槍を構えて鋭く問い詰める。
しかし、ゴーストは飛鳥の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「企む? 私を誰だと思っているの。道端の石ころを蹴り飛ばすのに、いちいち理由など必要ないわ。……それとも、あなたたちもこの子たちと同じように、私の前で這いつくばりたいのかしら?」
ゴーストから放たれる底知れない魔力の波に、真奈と鈴乃がゴクリと喉を鳴らす。
その中でただ一人、氷のトップエースである羽衣緋雪だけが、無表情のままゴーストを真っ直ぐに見据えていた。
由鶴の監視カメラは、二人の対峙を克明に記録している。
(零くん……!)
緋雪の心臓は、激しく警鐘を鳴らしていた。
彼女は、目の前にいる恐ろしい死神が、数日前に自分を抱きしめ、お弁当を作ってくれた心優しい少年であることを知っている。
そして同時に、彼が今、自分たち白百合の盾を由鶴の疑惑から守るために、あえて『冷酷な敵』を演じてくれていることも、痛いほどに理解していた。
(なら、私も……トップエースとしての役目を、完璧に演じきる!)
「——問答は無用よ。あなたはここで、私が凍らせる」
緋雪が右手に『氷の太刀』を生成し、極低温の冷気が周囲の瓦礫を白く染め上げる。
その瞳には、一欠片の私情も交えない、トップエースとしての鋭い殺気が宿っていた。
「……ふふっ。相変わらず、威勢だけはいいのね、氷のエース」
ゴーストは、優雅に片手を前に差し出した。
「いいわ。その安い覚悟ごと、深淵の底に沈めてあげる」
戦闘は、瞬きする間もなく開始された。
「行くよ、みんな! はぁぁぁッ!」
最初に動いたのは鈴乃だった。彼女の放つ極太の火炎放射が、ゴーストを焼き尽くそうと一直線に伸びる。
だが、ゴーストは指先一つ動かさず、足元の影を立体的に隆起させ、炎を完全に飲み込んで消滅させた。
「なっ、私の炎が!?」
「隙あり!」
炎の裏に隠れて接近していた真奈が、巨大なハンマーをゴーストの頭上から全力で振り下ろす。
しかし、ハンマーがゴーストに届く直前。
「……遅いわ」
ゴーストの展開した『深淵の重圧』が、真奈のハンマーを局地的に数千倍の重さへと変えた。
「わわっ!?」
ハンマーの自重に耐えきれず、真奈は悲鳴を上げて前のめりに倒れ込み、そのままアスファルトにめり込んで身動きが取れなくなる。殺傷力はゼロだが、完全に無力化する精密な重力操作。
「真奈! くっ、風刃乱舞!」
飛鳥が長槍を振るい、無数の真空の刃を放つ。
ゴーストは影の中へと沈み込み、風の刃を全て回避。次の瞬間、飛鳥の頭上の空中に再出現した。
「しまっ……!」
飛鳥が上を向いた瞬間、ゴーストは漆黒のヒールで空中の足場を蹴り、強烈な闇の衝撃波を飛鳥の腹部へと叩き込んだ。
「かはっ……!」
内臓を破裂させないよう完璧に威力が調整された衝撃波。飛鳥は息を詰まらせ、数十メートル後方へと吹き飛ばされて瓦礫に激突し、意識を刈り取られた。
戦闘開始から、わずか数十秒。
白百合の盾が誇る三人のエースが、手も足も出ずに無力化された。
モニター越しの由鶴が、絶望に顔を蒼白にする。
「……さて。残るはあなた一人よ、氷のトップエース」
ゴーストは、悠然と瓦礫の上に降り立ち、緋雪へと向き直った。
「——まだよ!」
緋雪が、氷の太刀を上段に構え、神速の踏み込みでゴーストの懐へと飛び込んだ。
太刀が振り下ろされる。ゴーストは右手に凝縮した闇のブレードを生成し、それを受け止めた。
ガキィィィンッ!!
氷と闇の魔力が激突し、凄まじい衝撃波が周囲の瓦礫を粉砕する。
一撃、二撃、三撃。
緋雪の太刀筋は、一切の躊躇がない。ゴーストの急所を的確に狙い、絶対零度の冷気を叩き込もうとする。
ゴーストもまた、冷酷な表情を崩さず、その全てを闇のブレードで弾き返し、重力魔法で緋雪の体勢を崩しにかかる。
モニター越しに見れば、それは裏社会の総帥と白百合のトップエースによる、血を洗うような死闘にしか見えない。由鶴の目にも、緋雪がゴーストを本気で殺そうとしていることは疑いようのない事実に映っていた。
しかし。
火花を散らし、刃が交差する、そのほんの数十センチの距離で。
モニターのマイクすら拾えないほどの微かな声で、二人は言葉を交わしていた。
(……ごめん、緋雪さん。少し、痛いかもしれないけど)
(……謝らないで。手加減なんてしたら、由鶴に疑われるわ。本気で来て、零くん!)
互いの命を削り合うような剣戟の嵐の中で、二人の瞳だけは、お互いへの絶対的な信頼と愛情で結ばれていた。
緋雪が、渾身の魔力を込めた氷の太刀を水平に薙ぎ払う。
「——散りなさい」
ゴーストは、その斬撃を闇のブレードで弾き飛ばすと同時に、左手を緋雪の胸元へと突き出した。
手加減はしない。だが、絶対に致命傷は与えない。
ゴーストの放った巨大な『闇の衝撃波』が、緋雪の纏っていた氷の魔力障壁を粉々に砕き散らし、彼女の身体を後方へと大きく吹き飛ばした。
「きゃあっ……!」
緋雪は空中で体勢を立て直せず、そのまま地面を激しく転がり、瓦礫に背中を打ち付けて動きを止めた。
外傷はないが、脳震盪と魔力枯渇によって立ち上がることはできない。完璧な『戦闘不能』状態の偽装。
「……ふふっ。この程度かしら、白百合の盾のトップエース。呆れて物も言えないわ」
ゴーストは、倒れ伏す緋雪を見下ろしながら、冷酷な勝者の声で響かせた。
「今日は気分がいいから、命だけは助けてあげる。次に私の前に現れた時は……その心臓を凍らせてあげるわ」
ゴーストは、気絶している隠密の少女たちには目もくれず、自身の足元の影を大きく広げた。
そのまま、漆黒のドレスの裾を翻し、音もなく闇の中へと姿を消していく。
後に残されたのは、圧倒的な力で蹂躙された白百合のエースたちと、破壊された廃墟の痕跡だけだった。
「……っ、く……!」
地面に倒れたまま、緋雪は苦しげに顔を歪め、身じろぎした。
痛い。確かに衝撃波は強烈だった。しかし、その内側には、彼女の身体を気遣うような、柔らかく温かい重力が働いていたことを、緋雪だけは知っていた。
(……ありがとう、零くん。これで、私は……)
作戦指令室では、由鶴が震える手でモニターの映像を再生し直していた。
氷のトップエースが、ゴーストに対して一切の躊躇なく本気の殺意を向け、そして圧倒的な実力差によって敗北した記録。
(……緋雪は、ゴーストと本気で殺し合っていた。手加減も、馴れ合いも一切なかった。……私の仮説は、間違っていたのでしょうか……?)
由鶴の胸の内で、確信に変わりつつあった「緋雪とゴーストの共犯関係」という疑惑が、再び深い霧の中へと迷い込んでいく。
誰も死なず、しかし誰もが己の信じる正義と嘘のために、極限の演技を完遂した夜。
国家、裏社会、そして白百合の盾の三つ巴の戦局は、最強の死神の孤独な決断によって、より一層複雑な迷宮へと足を踏み入れていた。




