第百八十九話
同時刻、政府・国防委員会の地下最深部。
御子柴は、薄暗い作戦室で葉巻を燻らせながら、白百合の盾から届いた回答書を冷ややかに見つめていた。
「『民間人保護と被害拡大防止を目的とした、独自裁量での介入』……。ずいぶんと小賢しい条件をつけてきたな」
郷田理事が眉をひそめる。
「いかがいたしますか、御子柴先生。これでは、白百合の連中を最前線の囮に使うことはできません」
「構わん。白百合の盾の奴らが、我々の掃討作戦に無条件で協力するなどと最初から信用しておらん」
御子柴は、足元に控える無機質な『隠密』の少女たちを見下ろした。
「奴らが緩衝地帯とやらで大人しくしているなら、それはそれで利用価値がある。外周を白百合に塞がせ、逃げ場を失った裏社会のネズミどもを、隠密部隊で中央から殲滅する。……ただし、隠密部隊には追加指令を出す。裏社会の構成員だけでなく、白百合の動きも監視・記録せよ。もし白百合の連中が少しでも裏社会に加担する素振りを見せれば、容赦なく切り捨てろ」
政府の暗部は、すでに白百合の盾すらも完全に敵視し始めていた。
同じ頃、白百合の盾・作戦指令室。
情報班の新実由鶴は、連日連夜の監視任務による疲労で目の下に濃い隈を作りながらも、狂気じみた集中力でモニターに向かっていた。
(……羽衣緋雪が提案した、第三の道『緩衝地帯』。この戦術は、表向きは組織の理念を守るための完璧な一手に見える。しかし……)
由鶴の頭脳が、一つの恐るべき仮説へと辿り着きつつあった。
もし緋雪が、単にゴーストに洗脳された『哀れな被害者』であるなら、政府からの要求に対して過剰な拒否反応を示すか、あるいは自暴自棄な行動に出るはずだ。
しかし、緋雪の立ち回りはあまりにも高度で、政治的でありすぎた。彼女は政府の要求を躱し、白百合の物資ルートを守り、なおかつ裏社会との直接対決を避けるという、全ての陣営にとっての『最適解』を自らの手で導き出したのだ。
(これは……単なる洗脳ではない。彼女は自分の意思で、この状況をコントロールしようとしている。ゴーストに従属しているのではなく、ゴーストと『対等な意思を持つ共犯者』として動いている……!)
疑惑の質が、変容していく。
かつての仲間が洗脳されているという悲劇的な仮説から、組織の中枢に『裏社会と対等に渡り合う恐るべき知能犯』が潜んでいるという、底知れないサスペンスへ。
由鶴の背筋を、冷たい悪寒が駆け抜けた。
その夜。
都内の外縁部、かつて工業地帯だった廃工場エリアで、凄惨な戦闘が繰り広げられていた。
福音の鐘および星監の合同部隊と、政府の『隠密』部隊による二度目の激突である。
「こちら氷のエース、羽衣緋雪。エリアBの民間人の避難誘導、完了しました」
「了解。引き続き、戦闘区域の外周に留まり、戦火の拡大を防いでください」
通信機越しの由鶴の声に応え、緋雪は瓦礫の上に降り立った。
緩衝地帯。
それは、政府と裏社会の殺し合いの余波が、一般市民の暮らす市街地へと及ばないようにするための絶対防衛線。
緋雪は『氷の太刀』を鞘に収めたまま、遠くで閃く魔力の光と、爆発音を静かに見つめていた。
(……零くん。あなたが表に出ないでいてくれて、本当によかった)
もしゴーストがこの戦場に現れれば、緋雪は白百合のエースとして、彼と対峙しなければならないかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
しかし、その時。
ガサッ……。
緋雪の背後の暗闇から、足音とも呼べないような微かな気配がした。
「……!」
緋雪は瞬時に振り返り、右手に氷の魔力を展開して冷気の盾を形成した。
暗闇の中から現れたのは、一人の少女だった。
年齢は緋雪と同じくらいだろうか。しかし、その瞳には一切の光がなく、まるで精巧な人形のように無機質だった。両手には、魔力を無効化する漆黒の短剣——ダインスレイブが握られている。
(この子が、政府の特殊部隊……『隠密』!)
緋雪の背筋に、緊張が走る。
隠密の少女は、緋雪の姿を視界に収めると、一切の感情を交えることなく、ただプログラムされた通りに短剣を構えた。
『——白百合の盾。我々の戦闘領域への不干渉を確認。……しかし、魔力展開による敵対行動とみなし、排除プロセスへ移行する』
抑揚のない機械的な声。
隠密の少女が、地を這うような神速で緋雪の懐へと踏み込んできた。
「くっ……!」
緋雪は冷気の盾でダインスレイブの斬撃を受け流そうとする。しかし、漆黒の刃が触れた瞬間、氷の盾はパリンと甲高い音を立てて霧散してしまった。
(やっぱり、魔力そのものを無効化する武装! なんて厄介な……!)
緋雪は体術で少女の追撃を躱し、距離を取る。
反撃しようと氷の太刀を生成しかけた、その瞬間。
ふと、街灯の僅かな光が、隠密の少女の顔を照らした。
少女の右目の下にある、小さな泣きぼくろ。そして、短剣を構える時の、不自然なほどに内側に捻られた左手首の癖。
それを見た瞬間、緋雪の脳裏に、数年前の魔法少女学校時代の記憶がフラッシュバックした。
(……嘘。あの構え……それに、あの泣きぼくろ……。まさか、二年前に魔獣との戦闘で重傷を負って、引退したはずの……!)
緋雪が目を見開いて息を呑んだ、その直後。
隠密の少女の動きが、ほんの一瞬だけ、ピタリと止まった。
虚ろだった少女の瞳が、緋雪の顔と、彼女が展開した美しい氷の魔力を見て、微かに——本当に微かに、揺らいだのだ。
「……あ……」
少女の唇から、機械的な合成音声ではない、微弱な、消え入るような生身の声が漏れた。
それは、失われた記憶の底から浮かび上がった、かつての『仲間』に対する既視感。あるいは、自分がかつて目指していた『魔法少女の誇り』への痛切な未練。
しかし、その人間らしい躊躇は、一秒も続かなかった。
少女の首元に埋め込まれた呪符の刺青が赤く明滅すると、少女は再び無機質な人形の顔に戻り、スッと後ろへと跳躍した。
『——エリアCにて、別動隊の交戦を確認。排除プロセスを中断し、合流する』
隠密の少女は、そのまま音もなく闇の中へと溶け込み、姿を消してしまった。
後に残された緋雪は、展開していた氷の魔力を解くことも忘れ、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
「……嘘でしょう」
緋雪の震える声が、夜の静寂に吸い込まれていく。
「あの子たち……政府の『隠密』って、まさか……かつて魔法少女だった子たちを、洗脳して兵器にしているの……?」
政府の用意した対裏社会用の切り札。
それは、怪物の細胞を移植されたキメラなどよりも遥かに非道で、おぞましい『犠牲者たち』の成れの果てだった。
国家の狂気。裏社会の暴走。そして、白百合の盾の孤立。
交わることのない三つの勢力が、悲劇的な哀しみを孕んだまま、ついに暗闇の中で激突の時を迎えようとしていた。




