第百八十八話
白百合の盾による『条件付き協力』の決定から、数日が経過した。
表向きは平穏な日々が続いているように見えたが、水面下では国家と裏社会の巨大な歯車が、互いをすり潰すような不気味な音を立てて回り始めていた。
その日の放課後。
三神零は、緋雪の指定した海浜公園のベンチで、彼女と並んで座っていた。
手元には、零が朝早くから仕込んで持参した特製の唐揚げ弁当の空箱がある。
「……ごちそうさま。本当に美味しかった。零くんの唐揚げを食べたら、コンビニのお弁当なんて食べられなくなっちゃうわね」
緋雪は少し疲れたような、けれど心底安堵したような微笑みを浮かべた。
「お粗末様。……でも、ちゃんと寝られてる?」
零が心配そうに覗き込むと、緋雪は「大丈夫よ」と首を振ったが、その目元にはわずかな隈が浮いていた。
彼女は、周囲に誰もいないことを確認してから、声を潜めて白百合の盾の現状を話し始めた。
政府から突きつけられた『最後通牒』のこと。白百合の盾が物資の供給を人質に取られ、実質的な踏み絵を踏まされたこと。そして、彼女自身が提案した『緩衝地帯』という苦肉の策のこと。
「……そうか。政府が、そんな部隊を」
零の表情が、険しいものへと変わる。
「ごめん。俺が……ゴーストという存在が目立ちすぎたせいで、緋雪さんたちにまでそんな重圧をかけさせてしまった」
「謝らないでって言ったでしょう。悪いのは、自分たちの失態を隠して魔法少女を使い捨ての駒にしようとする政府の人間よ。……それに、私は最前線の緩衝地帯に出ることで、政府の動きも監視できる。零くんに情報も流せるわ。だから、心配しないで」
緋雪は健気に笑ってみせたが、零の胸の奥には鉛のような重い罪悪感が沈んでいった。
自分の存在そのものが、愛する少女と、彼女の所属する組織を窮地に追い込んでいる。その事実は、零の心を深く抉った。
弁当箱を片付け、緋雪を駅まで見送った後。
零が一人、自宅の部屋で深い溜め息をついていると、足元の影が不自然に揺らめいた。
『——三神くん。ご機嫌麗しゅう』
影の中から響いてきたのは、福音の鐘のトップであるルディア・ロンディニウムの恭しい声だった。
「ルディアさん。どうかしたの?」
『ええ。三神くんに、我ら福音の鐘と星監の決定をご報告申し上げておこうかと』
ルディアの口から語られた内容は、零の背筋を凍らせるには十分すぎるものだった。
数日前の夜、福音の鐘の地方拠点と星監のフロント企業が、政府の対魔法少女特殊部隊『隠密』による同時多発的な奇襲を受けたこと。彼らが魔力を無効化する『ダインスレイブ』を装備し、自我を持たない殺人機械と化していること。
そして——。
『我ら福音の鐘と、星監。二つの組織は、ゴースト様の名の下に本気の同盟を締結いたしました。政府の愚犬どもには、我らが直接、血の制裁を下します。神使様はどうか、その麗しき日常を平穏にお過ごしください』
「え……ちょっと待って、同盟!? 星監と!?」
『はい。これより、我々裏社会は総力を挙げて政府暗部の根絶やしに掛かります。全てはゴースト様と、神使様の御心のままに』
通信は、一方的に切れた。
零は、スマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上にへたり込んだ。
(俺の……俺の知らないところで、巨大な勢力が『俺の名前』で動いている……!)
これまで、福音の鐘や星監とは、どこか勘違いやすれ違いの上で関係を保ってきた。
しかし、事態はもはやギャグや勘違いで済まされる段階を完全に超えていた。世界を二分する裏社会の巨大組織が、ゴーストという絶対的なシンボルの下で統合され、国家権力に対する全面戦争を引き起こそうとしている。
自分がただの高校生であり、「誰かを守りたい」という一心で使ってきた力が、いつの間にかこんな途方もない事態を引き起こしていた。その恐怖と、取り返しのつかない責任の重さが、零の肩にのしかかる。
「……俺が、止めなきゃいけない」
零は、両手で顔を覆った。
しかし、どうやって?
ここで自分がゴーストとして表舞台に出て、政府と裏社会の双方を力でねじ伏せればいいのだろうか。
いや、それは最悪の手だ。もしゴーストが動けば、必ず白百合の盾も対応を迫られる。緋雪が『緩衝地帯』という絶妙な策で作り上げてくれたかりそめの平穏が、全て水の泡になってしまう。
ゴーストが直接戦闘に出れば出るほど、緋雪の立場は危うくなり、彼女は組織の中で『敵』を愛してしまったという矛盾に引き裂かれてしまう。
(緋雪さんや、白百合の盾を巻き込むわけにはいかない。ゴーストとして派手に暴れるのは下策だ)
ならば、自分にできることは何か。
「……今までどおり独自に動くしかないか」
零は顔を上げ、決意の瞳で虚空を見つめた。
政府の暗部である御子柴の狙い。そして、『隠密』部隊の正体と弱点。
それらを、戦闘ではなく『潜入』という形で調べ上げる。誰も傷つけず、誰の目にも触れないまま、事態を根本から解決するためのピースを揃える。
表舞台に出ないこと。それが、最強の死神が選んだ、愛する人を守るための最も過酷な決断だった。




