第百八十七話
白百合の盾・本部の最上階に位置する大会議室。
重厚なマホガニーの円卓を囲むように、組織の中枢を担う幹部たちと、実働部隊を牽引するエースたち——羽衣緋雪、弓飛鳥、只野真奈、新堂鈴乃の四名——が一堂に会していた。
空調の微かな稼働音すら鼓膜を打つほどに、部屋の空気は重く、そして極限まで張り詰めている。
中央のホログラムモニターには、政府から突きつけられた『最後通牒』の文面が、冷酷な光を放って投影されていた。
「……以上が、政府からの正式な作戦協力要請——事実上の、我々に対する踏み絵の全容です」
湯野副会長が、硬い声で状況説明を締めくくった。
「政府が極秘裏に編成した対魔法少女特殊部隊『隠密』による、裏社会掃討作戦。これに我々白百合の盾も前線部隊として戦力を提供せよ、と」
その言葉に、円卓の空気はさらに数度、温度を下げた。
静寂を破ったのは、現場の指揮を執ることも多い風のエース・弓飛鳥が、怒りを堪えきれずに机を強く叩く音だった。
「ふざけないでください! 私たちは市民を魔獣から守るための民間防衛組織であって、政府の汚れ仕事を行うための『剣』じゃありません!」
飛鳥が、鋭い風のような眼差しで幹部たちを睨みつけて立ち上がった。
「裏社会の掃討? そんなものは警察や特務機関の仕事です。得体の知れない『隠密』なる部隊のテスト運用に、うちの隊員たちを使い潰されるくらいなら、こんな要請、正面から拒絶すべきです!」
「飛鳥の言う通り、我々の理念から大きく外れています。……しかし、現実問題としてただ拒否すれば済む状況ではありません」
湯野が、苦渋に満ちた顔で反論する。
「皆も知っての通り、我々『白百合の盾』は政府から直接資金や物資の支援を受けているわけではなく、あくまで民間からの出資で成り立つ独立組織です。政府はこれまで、我々の活動を『黙認』してきたに過ぎない。……しかし最近、政府からの強烈な水面下の圧力により、我々の装備開発や医療物資、魔力障壁のインフラを担う民間企業との取引が、急速に難しくなりつつあります」
湯野の指摘に、飛鳥を始めとするエース陣の顔がさらに曇った。
「今回の要請を拒否すれば、政府は現在の『黙認状態』を完全に取り消し、我々を裏社会と内通する非合法組織として認定するでしょう。そうなれば、全ての取引先企業に国家権力による取引停止命令が下る。物資を絶たれれば、我々は魔獣から市民を守る活動そのものが物理的に不可能になります」
「だからといって、政府の言いなりになって現場の隊員を最前線の囮にしろと!? 政府の連中が、私たちを安全な後方支援に置いてくれる保証がどこにあるんですか!」
飛鳥が食い下がる。現場で隊員たちの命を預かる彼女にとって、政府の身勝手な論理で仲間を死地に送ることなど絶対に認められなかった。
組織の存続という現実を直視する湯野と、現場の理念と隊員の命を重んじる飛鳥の激しい議論。
円卓を囲む他の幹部たちも、どちらの主張も痛いほど理解できるがゆえに、重苦しい沈黙を漂わせていた。
「……真奈、鈴乃。実働部隊を率いるエースとして、あなたたちの意見も聞かせてください」
姫嶋会長が、静かに二人に水を向けた。
「あ、えっと……」
「私は……」
土のエース・只野真奈と、炎のエース・新堂鈴乃は、顔を見合わせた後、スッと視線を『ある一点』へと向けた。
彼女たちの視線の先——円卓の最も重要な席の一つに座る、氷のエース・羽衣緋雪へ。
普段であれば、真奈や鈴乃も飛鳥に同調して自らの意見を率直に口にする。しかし今の二人は、遊園地での一件以来、緋雪が何か「途轍もなく大きな秘密」を抱えていることを肌で感じ取っていた。
普段から最も冷静に大局を見極める彼女がどう動くのか。それを確かめないことには、迂闊に身の振り方を決められないという、無言の圧力がそこにはあった。
そして、その『視線の集中』を、冷酷なレンズ越しに監視し、全く別の最悪な解釈へと結びつけている者がいた。
情報班の新実由鶴である。
(……エースたちが、羽衣緋雪の顔色を窺っている。やはり、土と炎のエースもすでにゴーストの精神的支配下にあり、現場の指揮系統は緋雪を起点として裏社会に乗っ取られている……!)
由鶴は、タブレットの画面に表示される緋雪のバイタルデータを見つめながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
(さあ、どうするのですか、緋雪。政府の掃討作戦に参加すれば、あなたは裏社会の総帥であるゴーストと敵対することになる。しかし、ここで作戦を拒否、あるいは飛鳥に同調して消極的な態度を示せば……それこそが、あなたが裏社会の犬に成り下がったという『決定的な証拠』になります)
由鶴の胸の内で、仲間を疑う悲痛な叫びと、情報班としての冷徹な分析がせめぎ合っていた。
会議室の全員の視線が、沈黙を保ち続けていた緋雪へと集まる。
「……緋雪。皆があなたの意見を待っているわ。聞かせてちょうだい」
姫嶋の声に促され、緋雪はゆっくりと立ち上がった。
緋雪の胸の中には、荒れ狂う嵐のような葛藤が渦巻いていた。
(政府の作戦に全面協力すれば、私は零くんと……ゴーストと戦うことになる。あの優しくて、一人で傷ついてきた彼に、私が刃を向けるなんて絶対にできない)
(でも、ここで作戦を飛鳥の言う通り真っ向から拒否すれば、白百合の盾は物資を絶たれ、組織として崩壊する。そうなれば、街の市民を守ることも、彼を陰からサポートするための力も失ってしまう)
愛する人を守りたい。
組織の理念と、飛鳥たち仲間を守りたい。
相反する二つの重圧。由鶴が仕掛けた監視の目があることなど知る由もない緋雪だったが、戦場の直感が「ここで間違えた答えを出せば、全てが終わる」と告げていた。
緋雪は、静かに、そして深く息を吸い込んだ。
彼女の脳裏に浮かんだのは、夜の展望台で自分を抱きしめてくれた零の温もりと。
『俺も、一緒に考えるよ』と言ってくれた、彼の不器用で優しい笑顔だった。
(……私は、どっちも選ばない。両方を守り抜く)
「会長、副会長。そして皆」
緋雪の口から紡がれた声は、極北の氷のように澄み切り、微塵の揺らぎもなかった。
「私は、政府の作戦要請に対して、『全面拒否』も『全面協力』もすべきではないと考えます」
その言葉に、会議室がざわめいた。
「どういう意味ですか、緋雪。政府は二者択一を迫っているのですよ。このままでは取引先への圧力が限界を迎えます」
湯野が眉をひそめる。
「第三の道を、こちらから提示するのです」
緋雪は、凜とした視線で円卓を見回した。
「政府の『隠密』部隊が福音の鐘や星監に本格的な攻撃を仕掛ければ、裏社会の二大組織は必ず報復のために市街地で大規模な武力行使に出ます。そうなれば、未曾有の被害が出るのは火を見るより明らかです」
緋雪はホログラムモニターに、都内の主要エリアのマップを展開した。
「我々白百合の盾は、政府の『対裏社会作戦』の枠組みそのものには参加の意思を示します。これにより、政府もこれ以上露骨に民間防衛組織への物資供給を妨害するような真似はできなくなるはずです。……ただし、その実働内容は『隠密部隊との共同戦線』ではなく、あくまで『民間人の保護と、裏社会の抗争による被害拡大の抑止』に限定した、我々の独自裁量による介入を条件とします」
「独自裁量での介入……?」
飛鳥が目を見開く。
「はい。我々は政府の指揮下に入るのではなく、政府部隊と裏社会の組織との間に『緩衝地帯』を形成し、戦火が市街地に及ぶのを防ぐ盾となります。政府には『逃げ出した裏社会の構成員を外周で封じ込めるための配置だ』とでも説明すればいい。これにより、我々は政府の掃討作戦に直接加担して隊員を使い潰されることを防ぎつつ、組織の理念である市民の防衛を最優先に実行できます。何より、黙認状態を維持し、物資の供給ルートを守り抜くことができます」
それは、見事なまでの『条件闘争』の提示だった。
表向きは「作戦に参加する」という大義名分を保ちつつ、実質的には政府の私兵として裏社会の殲滅に直接手を下すことを回避する。
そして何より、緋雪自身にとっては——前線の『緩衝地帯』に身を置くことで、政府の動きを監視しつつ、零やその配下の組織に白百合の刃が向かうのを、自らの権限で密かにコントロールできるという、完璧な『逃げ道』の確保でもあった。
会議室が、深い沈黙に包まれた。
誰もが、緋雪の提示した『第三の道』の合理性と、その高度な政治的バランス感覚に舌を巻いていた。
(……ば、馬鹿な。これでは……!)
モニタールームの由鶴は、愕然としてタブレットを取り落としそうになった。
由鶴の監視データには、「緋雪は作戦参加を拒否しなかった。むしろ、組織のインフラを守るための建設的な戦術を立案した」という、白百合のエースとして非の打ち所のない模範的な結果だけが記録されてしまった。
ゴーストとの内通を決定づける証拠を引き出せるはずだった『踏み絵』が、彼女の見事な立ち回りによって完全に躱されてしまったのだ。
「……なるほど。作戦には参加するが、引き金は引かず、あくまで盾としての役割に徹する。政府の要求を満たして物資ルートを確保しつつ、我々の理念も守る。……素晴らしい提案です」
湯野副会長が、感嘆の息を漏らした。
「飛鳥。これなら、現場の隊員たちを無用な汚れ仕事から守ることができる。不服はありませんね?」
「……ええ。緋雪がそこまで言うのなら、私も異論はありません。最前線で盾になるというのなら、望むところです」
飛鳥も、緋雪の覚悟を受け取ったように力強く頷いた。
「決まりですね」
姫嶋会長が、ゆっくりと立ち上がり、円卓を見渡した。
「白百合の盾は、政府に対し『条件付き協力』として回答します。民間人保護と被害拡大防止を目的とした、独自裁量での介入。これを我々の最終決定とします。各自、出撃の準備を進めてください。会議は以上です」
幹部たちとエース陣が、次々と会議室を後にする。
飛鳥たちが部屋を出ていき、緊迫した空気が解けたところで、緋雪が密かに安堵の息を吐き出そうとした、その時だった。
「……羽衣さん」
誰もいなくなった会議室で、姫嶋が静かな声で緋雪を呼び止めた。
「はい、会長」
緋雪は振り返り、姿勢を正す。
姫嶋は、窓の外のビル群を見つめたまま、意味深な視線を緋雪へと向けた。
「あなたの提案、見事でした。組織の危機を救う、まさにエースにふさわしい機転です。……ですが、ずいぶんと具体的でしたね」
「……と、おっしゃいますと?」
「まるで、裏社会の二大組織——福音の鐘と星監が、政府の隠密部隊に対して『どのような規模で、どのように反撃に出るか』を、あらかじめ確信しているような口ぶりでした」
ピクリ、と緋雪の心臓が跳ねた。
姫嶋の鋭い眼光が、緋雪の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。
「……現場を預かるエースとして、最悪の事態を想定するのは当然の義務ですから」
緋雪は、自身の心音を『絶対氷結』の魔力で強制的に冷却し、顔色一つ変えずに答えた。
「そう。それなら良いのです。……頼りにしていますよ、私たちのエース」
姫嶋はそれ以上は追及せず、静かに微笑んで部屋を出ていった。
(……危なかった。でも、これで……)
一人残された会議室で、緋雪はついに膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
綱渡りのような絶望的な状況を、彼女は自らの知略と覚悟で乗り切った。愛する人を守るための、孤独な二重生活が、今まさに本格的に幕を開けたのだ。
その頃。
三神家のキッチンでは、爽やかな朝日が差し込む中、三神零が鼻歌交じりにエプロンを身につけていた。
「よし。昨日緋雪さんに約束した通り、今日は特製の唐揚げ弁当だ。二度揚げしてカリッとさせて、少し甘めの卵焼きも添えよう。……喜んでくれるといいな」
世界が未曾有の血みどろの抗争へと突き進み、愛する少女が国家と組織の重圧の狭間で壮絶な決断を下していたことなど、平和を愛する男子高校生は知る由もない。
(キメラの一件から、政府の動きが不気味だ。白百合の盾の物資調達が難航しているという話も、ネットの噂で流れていた。緋雪さんには無理をさせたくないし、周防さんにも怪我して欲しくない……もし何かあれば、俺が必ず守り抜く)
包丁を握る零の瞳に、静かな決意の光が宿る。
表社会の盾として嘘を背負う氷のエースと、裏社会の闇に潜む最強の死神。二人の共犯者たちが紡ぐ新たな日常は、すでに後戻りできない巨大なうねりの中へと呑み込まれようとしていた。




