第百八十六話
翌朝。
白百合の盾・本部の最上階にある会長室の空気は、張り詰めた糸のように緊迫していた。
「……これは、政府からの正式な『最後通牒』と受け取って間違いありませんね」
姫嶋が、デスクの上に置かれた一通の分厚い書状を前に、静かに、しかし確かな怒りを滲ませた声で言った。
その隣で、湯野が悔しげに唇を噛み締めている。
書状の内容は、先日の官民防衛協定に基づく、政府からの正式な作戦協力要請——という名の、露骨な脅迫だった。
『貴組織は防衛協定の当事者である以上、国家の平穏を脅かす裏社会——特に福音の鐘、星監に対する政府主導の『隠密』部隊による掃討作戦への協力義務を有する。
参加を拒否、あるいは非協力的態度を取った場合、貴組織を裏社会と内通する敵対組織とみなし、相応の措置を取るものとする』
「私たちを、政府の汚れ仕事を行う私兵として使うつもりね。しかも、断れば『敵』として扱うと」
姫嶋は書状をデスクに放り投げた。
「キメラテロの失態を隠蔽し、対魔法少女兵器の運用テストを裏社会相手に行う。その最前線の盾として、うちのエースたちを使い潰す腹積もりでしょう」
「いかがなさいますか、姫嶋さん。この要求を呑めば、我々は市民を守るためではなく、裏社会との血みどろの抗争に隊員たちを投入することになります。しかし、拒否すれば……政府という後ろ盾を失い、白百合の盾そのものが解体の危機に陥ります」
湯野の問いに、姫嶋は深く目を閉じた。
どちらを選んでも、組織にとって致命的なダメージとなる。政府は、最も卑劣な『踏み絵』を用意したのだ。
この恐るべき最後通牒の知らせは、直ちに幹部およびエース陣にも極秘裏に共有された。
白百合の盾の資材室。
誰もいない薄暗い空間で、羽衣緋雪は棚に手をつき、一人で激しく息を乱していた。
彼女の美しい紫水晶の瞳には、かつてないほどの戦慄と、絶望にも似た葛藤が渦巻いている。
(政府の作戦に参加すれば……白百合の盾は、福音の鐘や星監と……裏社会と全面戦争になる。つまり……!)
緋雪は、ギリッと血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
政府や白百合の盾は「ゴーストは裏社会のトップである」と信じ込んでいる。もしこの掃討作戦に参加すれば、緋雪は白百合のトップエースとして、最愛の人である三神零と完全に『敵対する陣営』に組み込まれることになるのだ。
(そんなこと、絶対にできない……! 私が、零くんと殺し合うなんて。あんなに優しくて、一人で傷ついてきた彼に、私が刃を向けるなんて……!)
しかし、もし自分が作戦参加を拒否すればどうなるか。
組織への忠誠を疑われ、それこそ『ゴーストへの内通者』として白百合の盾から追放されるかもしれない。そうなれば、零を守るための情報も得られなくなり、逆に彼を危険に晒すことになる。
組織の一員としての責務。愛する人を守りたいという切実な想い。そして、長年信じてきた正義や仲間を裏切ることへの恐れ。
三つの巨大な感情が三つ巴となって緋雪の心を苛み、彼女の呼吸を浅く、苦しいものにしていた。
「……零、くん……」
薄暗い資材室で、彼女はただ一人、その温かい名前だけをすがるように呟くことしかできなかった。
そして。
そんな緋雪の痛切な葛藤を、冷酷なレンズ越しに観察し続けている者がいた。
(……緋雪のバイタルが、異常な数値を記録しています。作戦内容を通達されてから、明らかな動揺と恐怖を示している)
作戦指令室の奥で、新実由鶴はタブレットのデータを睨みつけながら、胃の痛みに顔を歪めていた。
由鶴は、情報班として極めて優秀だった。だからこそ、この状況が意味する最悪の『皮肉』に気づいてしまっていた。
(もし緋雪が、この裏社会掃討作戦に対して消極的な態度、あるいは拒否反応を示せば……それこそが、彼女がゴーストと結託しているという何よりの『決定的な証拠』になってしまう)
由鶴自身は、仲間である緋雪を疑いたくなどなかった。彼女が無実であることを証明するために、この監視任務を引き受けたはずだった。
しかし、緋雪の一挙一動が、見事に由鶴の最悪の仮説を裏付ける方向へと動いていく。由鶴自身が、仲間を追い詰める証拠を積み上げ、彼女を処刑台へと導く死神の役割を果たしてしまっているのだ。
「……緋雪。どうか、作戦には毅然とした態度で参加すると言ってください。あなたが白百合の盾の誇り高きエースであることを、証明してください……」
由鶴は、祈るようにモニターの中の緋雪を見つめ、震える声で呟いた。
数時間後。
白百合の盾・本部の大会議室に、姫嶋、湯野、そしてエース陣を含む全幹部が緊急招集された。
「……状況は、皆に共有した通りです」
円卓の上座で、姫嶋が重苦しい沈黙を破って口を開いた。
「政府からの最後通牒。これに白百合の盾としてどう応えるか。……表向き協力する体で作戦への関与を最小限に抑えるか。それとも、正面から拒否し、政府と正式に敵対するリスクを負うか」
姫嶋の視線が、円卓を囲む幹部たち、そして青ざめた顔で俯く緋雪へと向けられる。
「皆の意見を聞きたい。我々は、どちらの道を選ぶべきか」
国家と裏社会の巨大な歯車が、凄まじい音を立てて回り始めた。
その狭間で、ただ一人の少年を守るために嘘をつき続けることを選んだトップエースの少女は、ついに究極の『踏み絵』を踏むかどうかの決断を迫られていた。




