第百八十四話
白百合の盾・作戦指令室の最奥に位置する、完全防音のセキュリティルーム。
普段は冷たいブルーの照明に照らされているその部屋の空気は、今、凍りつくような沈黙に支配されていた。
「……新実。この報告書の内容は、全て事実と受け取って間違いありませんね?」
巨大な一枚板のデスクの向こう側で、白百合の盾を統括する姫嶋会長が、両手を組んだまま低く静かな声で尋ねた。その隣では、湯野副会長が険しい表情でタブレットの画面——情報班の新実由鶴が提出した『エース陣のゴースト内通・結託疑惑に関する最終調査報告』——を食い入るように見つめている。
「はい。遊園地におけるトップエース・羽衣緋雪、只野真奈、新堂鈴乃の三名の不可解な潜伏行動。そして何より、帰還後から現在に至るまでの、緋雪の明らかな『重大な隠し事』を示すバイタルサインと行動パターンの変化。これらは全て、客観的なデータに基づいた推論です」
由鶴は、冷や汗で制服の背中を濡らしながらも、情報班トップとしての矜持を保ち、真っ直ぐに姫嶋を見据えて答えた。
「氷のトップエースである羽衣緋雪が、裏社会の総帥であるゴーストに精神的支配、あるいは自発的な結託を行っている……。もしこれが事実であれば、白百合の盾はすでに内部から崩壊しかけているということになりますわね」
湯野副会長が、忌々しげに眼鏡を押し上げた。
「直ちに三名を——少なくとも緋雪を拘束し、厳密な尋問と精神検査にかけるべきでしょうか」
「……いいえ、それは悪手です」
姫嶋が、重いため息をつきながら首を横に振った。
「現在、先の『Xデー』のテロ被害により、市民の不安はピークに達しています。そんな中、我々の最大戦力であるトップエースを拘束し、さらに土と炎のエースまで欠くようなことがあれば、白百合の盾の防衛網は完全に崩壊する。何より、ゴーストという規格外の存在が背後にいるのであれば、下手に動けば組織に対してどのような報復があるか分かりません」
「では、どうなさると?」
由鶴の問いに、姫嶋は鋭い眼光を放った。
「泳がせます。由鶴、あなたに密命を下します。他のエースや一般隊員には一切悟られぬよう、あなた単独で羽衣緋雪を極秘に監視しなさい。彼女の真意はどこにあるのか。ゴーストの目的は何なのか。決定的な証拠を掴むまで、表向きはこれまで通り、彼女を白百合の盾のトップエースとして扱います」
「……了解いたしました」
由鶴は深く一礼をした。
しかし、その心臓は警鐘のように激しく鳴り響いていた。彼女自身が、最強の裏社会と繋がっているかもしれないかつての仲間を、たった一人で見張り続けるという地獄のような任務を背負うことになったのだ。
数日後。
都内の重厚な政府指定ホテルの一室において、厳かな調印式が執り行われていた。
無数のカメラのフラッシュが瞬く中、白百合の盾の姫嶋会長と、国防委員会の重鎮・御子柴が、分厚い革張りの協定書を交わし、固い握手を結んだ。
「これより、政府と民間防衛組織『白百合の盾』は、国家の平穏を脅かすあらゆるテロリズムに対抗すべく、包括的な官民防衛協定を締結いたします」
アナウンサーの声が響く中、御子柴はカメラに向けて白々しい笑みを浮かべていた。
調印式が終わり、関係者のみが残された控室。
「……御子柴先生。一つ、お伺いしたいことがあります」
姫嶋が、手元の協定書のコピーの一文を指差し、冷ややかな声で切り出した。
「第四章、第十二項。『今後、政府主導の対裏社会作戦への協力要請があった場合、白百合の盾はこれに応じる義務を負う』——事前の草案には、このような強制力を持つ文言はなかったはずですが」
本来、白百合の盾は市民を魔獣から守るための防衛組織であり、政府の私兵ではない。犯罪組織の掃討は警察や特務機関の仕事であるはずだった。
しかし御子柴は、葉巻を取り出しながらふんと鼻で笑った。
「姫嶋くん、これはあくまで形式上のものだよ。先日の大規模テロ……キメラ魔法少女の大量発生を主導したのは、ゴーストを頂点とする裏社会の狂人どもだという見方が政府内でも強まっている。国家の危機において、君たち優秀な魔法少女の『ご協力』を仰ぐ場面があるかもしれない。そのための、ただの確認条項に過ぎんさ」
嘘だった。
御子柴の狙いは明確である。白百合の盾のトップエース・羽衣緋雪は、ゴーストの『最愛の寵臣』と個人的な繋がりがある。政府が裏社会を掃討する際、白百合の盾を最前線に立たせれば、ゴーストは必ず動きを制限されるはずだ、という非道な計算があった。
「……我々の第一の使命は、あくまで市民の防衛です。政府の都合で、隊員たちを無用な争いに巻き込むつもりはありませんからね」
姫嶋は静かに釘を刺したが、御子柴は薄ら笑いを浮かべたまま何も答えなかった。
協定という名の『見えない鎖』が、確実に白百合の盾の首に巻き付こうとしていた。
その夜。
白百合の盾の本部・トップエース専用の個室で、緋雪はシャワーを浴び終え、ベッドに腰掛けていた。
『——今日、夕飯に少し多めに唐揚げを揚げたんだけど、明日のお弁当の分、緋雪さんのも作っていこうか?』
スマートフォンの画面に、零からのメッセージが表示される。
それを見た瞬間、今日一日、ずっと張り詰めていた緋雪の表情が、ふわりと柔らかく解けた。
『本当!? 嬉しい! 零くんの唐揚げ、大好きなの。明日のお昼、楽しみにしているわね』
すぐに返信を打ち込む。
数秒後、ウサギがエプロンをつけてサムズアップしている可愛らしいスタンプが返ってきた。
「ふふっ……」
緋雪はスマートフォンを胸に抱きしめ、ベッドにコロンと転がった。
由鶴の鋭い視線。真奈や鈴乃への罪悪感。組織を騙しているという重圧。
トップエースとして背負うべきものが、昨日までの何倍にも重くのしかかっているはずなのに。たった一通のメッセージで、それらが全て吹き飛んでしまうほど、心が救われていた。
(零くんは、こんな重圧の中で、もっと大きくて恐ろしい世界とたった一人で戦ってきたんだ。……絶対に、私が守り抜いてみせる)
彼がくれた温かい日常を守るためなら、どんな秘密でも抱えて生きていける。
緋雪は静かに決意を新たにし、穏やかな眠りについた。
——その翌日から、世界が未曾有の血みどろの闘争へと突入していくことなど、まだ誰も知らないまま。




