第百八十三話
遊園地での一件から一夜明けた、白百合の盾・本部。
「羽衣さん、おはようございます。昨日はお休みをいただき、ありがとうございました」
「……ええ、おはよう。今日も任務頑張りましょうね」
朝の廊下ですれ違った部下に挨拶を返しながら、羽衣緋雪は内心で必死に平静を保とうとしていた。
(落ち着くのよ、羽衣緋雪。いつも通り。何も隠していない、いつも通りの厳しいトップエースの顔をしていればいいだけ)
しかし、昨日知ってしまった特大の事実——愛する人が最強の死神であるという衝撃は、そう簡単に心の奥にしまい込めるものではなかった。
作戦指令室に足を踏み入れると、すでに真奈と鈴乃がコーヒーを飲みながら雑談をしていた。
「あ、緋雪ちゃんおはよう! 昨日デートだったんでしょ、どうだった〜?」
「……っ!?」
真奈の何気ない、しかし直球の質問に、緋雪の肩がビクッと大きく跳ねる。
「な、なななな何のことかしら! デート!? そんな浮ついたこと、私がするわけないじゃない!」
「え、めちゃくちゃ動揺してるじゃん。顔真っ赤だし」
鈴乃が呆れたように眉を上げる。
昨日、遊園地で彼女たちの手繋ぎデートを隠し撮りまでしていた鈴乃たちからすれば、緋雪の過剰な反応は明らかに不自然だった。
(まさか、昨日撮った尊い写真がバレた……? いや、それにしては動揺の方向性がおかしいような。何か別の、すごく大きな隠し事をしているような……)
鈴乃はクリエイター特有の勘で違和感を覚えながらも、「まあ、深く追求すると絶対氷結されるしな」と、ひとまず追及の手を緩めた。
その一部始終を、指令室の隅のモニタールームから、冷ややかで鋭い目で見つめている者がいた。
情報班・新実由鶴である。
(……間違いない。羽衣緋雪のバイタルサイン、微細な表情筋の動き。声帯の震え。これは明らかな『重大な隠し事』をしている時の反応です)
由鶴の手が、無意識にタブレットのメモアプリを開き、恐ろしい速度でキーボードを叩き始める。
『特記事項:羽衣緋雪、遊園地訪問翌日より顕著な挙動不審。質問への過剰反応、視線の泳ぎ、会話の急な切り上げ等——これは、組織に対する何らかの重大な秘密を抱えている人間特有の兆候である』
昨日、彼女が血を吐くような思いでまとめ上げた「エース陣のゴースト内通・結託疑惑」の報告書に、由鶴は静かに、そして確信を持って一文を書き加えた。
『追記:羽衣緋雪の挙動から、単なる同時刻の潜伏行動ではなく、彼女個人がゴーストと『極めて個人的かつ継続的な接触』を持っている可能性が極めて高いと推察される。あの鉄の規律を誇るトップエースが、ここまで動揺するということは、すでに精神的な支配(洗脳)が完了している証左かもしれない』
真実(零と付き合い始めたこと、正体を知ったこと)からそう遠くない結論に、由鶴自身はまだ気づいていない。
しかし、その結論に至った過程は、あまりにも見当違いで、そして絶望的なサスペンスの方向へと突き進んでいた。
昼休み。誰もいない資材室で、緋雪は一人、深く重いため息をついていた。
「はぁ……。嘘をつくって、こんなに心臓に悪いなんて」
これまでの白百合のエースたちは、皆が「ゴースト=裏社会の総帥」という無自覚な勘違いの中ですれ違っていた。
しかし今の緋雪は、ただ一人「真実を知った上で、意図的に仲間を騙す」という、能動的なすれ違いの当事者になってしまったのだ。
トップエースとして市民と組織を守る正義感と、愛する少年の孤独な戦いと平穏を守り抜くという決意。二つの重圧に挟まれ、彼女は組織に属する者として、新たな痛みを抱えることになった。
(でも……)
脳裏に浮かぶのは、昨日、夜の展望台で見た零の、今にも泣き出しそうだった顔。
彼がたった一人で背負ってきた暗闇の深さに比べれば、自分が背負う嘘の重さなど、大したことはない。
(あの人を、これ以上一人で抱え込ませたままにはしない。私が、この秘密の共犯者として守り抜く)
自らに言い聞かせるように拳を強く握りしめると、緋雪はゆっくりと立ち上がった。
これまでの「守られる立場」から、「秘密を共に背負う共犯者」へ。
彼女の中で、静かに、しかし確かに、後戻りできない覚悟が固まっていくのを感じていた。
一方その頃、三神家では。
「零、今日の夕飯何にするの〜?」
「今日は肉じゃがと、大根のお味噌汁にしようかな。玲奈、味付け濃いめのほうが好きだったよな」
「うん!お兄ちゃんのお肉じゃが大好き! いっぱい食べる!」
台所に立つ零の周りを、妹の玲奈が楽しそうに駆け回っていた。
昨日、緋雪に最大の秘密を明かしたばかりだというのに、目の前の日常は何一つ変わることなく、いつも通りの温かさで零を包み込んでいた。
(緋雪さんに全部話して……受け入れてもらえて、本当によかった。でも、少し怖い気持ちもあるな)
鍋をかき混ぜながら、零はぼんやりと考える。
誰にも打ち明けられなかった秘密を、初めて誰かと共有できたという事実は、確かに彼の心を軽くしてくれていた。
だが同時に、緋雪にどれほどの重荷(組織への裏切り)を背負わせてしまったのか、その責任の重さも痛感していた。
「零、なんか今日ぼーっとしてない?」
キッチンに顔を出した姉の澪が、怪訝そうに零の顔を覗き込む。
「え? いや、そんなことないよ。火の前にいるからちょっと暑いだけ」
「ふーん……。まあいいけど。何かあったら、ちゃんと相談しなさいよね。私、あんたの姉
なんだから。一人で抱え込むのは禁止」
澪の何気ない、しかし弟を思いやる一言に、零の胸がちくりと痛む。
(澪や玲奈にも、いつか話せる日が来るのかな……)
家族に本当のことを話せない後ろめたさは、これまでもずっと零の中にあった。
しかし今、緋雪という一人の確かな理解者を得たことで、その未来への小さな希望が、初めて心の中に芽生え始めていた。
今はまだ無理でも、いつか必ず、この温かい食卓で全てを笑って話せる日が来るように。零は肉じゃがの味見をしながら、静かに決意を新たにした。
その夜、白百合の盾・作戦指令室の最奥にあるセキュリティルーム。
「……」
新実由鶴は、一つの厳重に暗号化されたデータフォルダを前に、マウスを握る手を震わせていた。
フォルダのタイトルは『エース陣のゴースト内通・結託疑惑に関する最終調査報告』。
(これを上層部——姫嶋様や湯野様に提出すれば、白百合の盾は疑心暗鬼によって内部崩壊を引き起こすかもしれない。しかし、このまま放置すれば、組織は完全にゴーストに、裏社会に乗っ取られる……)
由鶴の苦悩と決断の時は、刻一刻と迫っていた。
過去の交戦と共闘を経て、ついに最大の秘密を共有した最強の死神と氷のトップエース。そして、正義感ゆえに致命的な疑心暗鬼に囚われた情報班。
彼らの日常は、もう二度と元には戻らない、後戻りできない新たなステージへと完全に突入していた。
「……新実さん? どうしたの、そんな深刻な顔をして」
背後からかけられた姫嶋会長の声に、由鶴はごくりと喉を鳴らした。
白百合の盾の平穏な日常に、静かな、しかし確実な破滅の波紋が広がろうとしていた。
その波紋の中心で、羽衣緋雪という一人のトップエースが、これから先、どれほどの覚悟を持って秘密を守り続けることになるのか。そして由鶴の勘違いがどんな暴走を引き起こすのか——それは、まだ誰も知らない未来のことだった。




